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の動向はもえじら組ブログで。
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究極の護身法と聞いて、ついつい「電波男」「電波大戦」の方の意味での「護身」を想像してしまった自分。いや、ある意味ではそれでも正解かもしれんけど。(※一般的な「護身」はトラブルに備えての対策を言うが、「電波男」においては、板垣漫画に倣い「危険にそもそも近付かない、危険を近づけない」というアクティブな逃避行動を「護身の完成形」としている。モテ非モテの文脈では、護身完成=女に心身ともに近寄らない、というニュアンスになる。)
普通は離婚時には結婚中に稼いだ財産・二人で共同で購入した物は折半して分ける事になるけれども、結婚前に「もし離婚しても、結婚中に稼いだお金はそれぞれ個人の物であり、夫婦の共有財産ではありません」という契約を結んでおいた場合はそうはならないから、つまりこれは財産目的の結婚詐欺の被害防止に使えるんじゃないか(ホントにそういう目的なんであれば契約に同意するハズなんて無いから、踏み絵として機能する)、という話。夫婦財産契約登記ちう制度なんだそうな。
明治セックル維新 新政府御性文帖→明日は選挙 - 恵司のはてなダイアリー
僕自身はこの人の「喪なのは自覚しているけれども、女性から直接的にキモイ等の侮蔑の言葉を投げつけられたことはない」という立場にかなり近い。小中学校の時には「キモッ」みたいに言われたことは結構あるんだけど、高校から上すなわち男と女というものを具体的に意識しだしてからについてはわりかし平穏だったので。これも、自分はモテ非モテ論争から距離を置くべきなんだろうか、自分に語る資格はないのではないかと思う理由。
実体験に基づく強烈なルサンチマンではなく、他人の体験談を自分のもののように感じてしまうという異様に感化されやすい性格と未知のものに対する恐怖とが結合した結果としての「自分は喪だし今後も一生喪」という認識なのだと思う。今でも、そしておそらく今後も、夏の葬列のログを見ると自分のことに思えて暗澹たる気持ちになる。ただ、誰の目から見てもモテ系な人の話には同感できないから、性根の部分では非モテもしくはそれに通じる何かが息づいているんだろうなと思う。
胸のこの辺がズッキュンズッキュン痛くて見てらんないよ……まあ○井とやらもアニエスとやらも全く縁がございませんがね。つまりある意味この舞台にすら上がれない「落ちてこぼれるまでもなく、そもそも乗れなかった」人間。
男と女の非モテの話に関連して、非モテ女はなぜ語らないのか?を見て。
男側は「実際に非モテの男」が「俺は非モテだ」と声をあげているのに対し、女側は「実際には非モテではない女」が「私は非モテだ」と声をあげているのではないか、と思えてきた。なぜそのようなことになるのだろうか。
逆の見方をすれば、こうも言える。なぜ「実際には非モテではない男」が「俺は非モテだ」と声をあげたり、「実際に非モテの女」が「私は非モテだ」と声をあげたりといったことがないのだろうか。
このねじれ現象は非常に興味深い。
そういえば、ふと思い出したんですけどね。
中学の頃だったか高校の頃だったか(多分中学だと思うけど)、教室で机に突っ伏してボーッとしてたら、とある女子が僕の目の前に立って、突然スカートをバッ!とめくったんですよね。つまり僕にスカートの中身を見せつけたんですよね。で、だーっとお友達の所に走っていって、こっちの方を見てクスクス笑ってたんですよね。
彼女達は一体何を考えていたのでしょうか。
まあ考える余地なく「答え 3.」なんですけどね。
閉塞的幸福論からの続き。
非モテ論は本質的に排他的なものではないかと思う。「現在進行形で非モテな者」以外は語ることを許されないような雰囲気を感じる。特に「脱非モテ」した人間は、このことに触れるどころか一切の発言を許されないような雰囲気すら感じる。
非モテ界(?)では一般的に、非モテを脱したらモテになるという風に考えられているように、僕には思えるのだが、それは脱非モテした人に対してあまりに厳しすぎる考え方だと思う。実際には、「モテ」とはさらに上のステップだろう。だから多くの「脱非モテ」人は「モテ」にはなれず宙ぶらりんの状態で居続けることになるのではないかと思う。
僕は「モテ化」ではなく敢えて「脱非モテ」という言葉を使いたい。モテと非モテの間に、宙ぶらりんな「ナチュラルな状態」があると僕は考えていて、「ナチュラル」と「モテ」はまた違ったものであると考えている。そして、モテ陣営からは、ナチュラルと非モテは一緒くたに見られていると思う。
Masao氏のようなモテにもなれず、かといって誰からも相手にされない非モテにも戻れず、宙ぶらりんの状態にいる人間に対し、非モテ陣営の態度はあまりに頑なであるように思う。何を言っても「でもモテの言うことだから」と言われてしまっては、ナチュラルは浮かばれない。
僕の幸福論について、益田ラヂヲ氏がこの人が非モテだった頃なら納得したかも知れない
とコメントされているのだけれども……僕はこういう事を急に言い出したわけではなく、ずっと前から思い続けて、言い続けてきたことだ。無意識的には5~6年以上前から、意識的になったのはここ数年、だろうか。
むしろ今僕は、いかにすればこの閉塞的な幸福論から一般的幸福論に思考をシフトできるのかで悩んでいる。この幸福論は、僕が独りで生きていく限りには唯一無二の道だと今でも確信しているけれども、他者の人生をそれに巻き込んだ場合の危険性も認識していて、独りでないのならこの幸福論は封印するべきだと思っている。
一歩退いてこの件を見てみると、この幸福論に納得できてしまう人は独りで生きていくことができ、納得できない人は普通の幸せを掴まずにはおれない人なのではないか、と思う。
発言者のモテ非モテの話に続く。
恋愛できるかどうかというのは、努力と運の両方が必要だと思う。運が足りない部分はある程度まで努力で補えると思う。でも、どちらか一方だけでどうにかなるものとは思えない。僕はここまでの所、非常な幸運に恵まれていたと思う。
いくら自分の側が努力しても、相手が見つからなければどうしようもない。相手を見つけられるかどうかは、運だろう。ただ、努力して顔を広くすると、人との出会いの機会は増える。その結果として、相手が見つかる可能性が高まるかも知れない。僕は、Webサイトの運営を続けていなければ出会えなかったろうし、今失えば、これから先どれだけ努力しようとも、こういう出会いはきっともう一生無いだろうとも思う。
ルックスは、努力ではどうにもならないものと努力次第でどうにかなるものの両方があると思う。両親共に美男美女であるとかいうのは、完全に運だ。ただ、極端な話、整形手術という手段はある。僕は小さい頃に歯列矯正を受けたけれども、これだって立派な整形だ。ファッションセンス抜群な両親の元に生まれ育つとか、そういうのは幸運だけれども、そうでなければセンスは手に入らないというものではない、努力で後からでも身につけられるものだと思う。
努力と運とは複雑に絡み合っている。そんなに世界はシンプルではない。
全盲の人は、一人だけでどれだけ努力したって、色の組み合わせのセンスを身につけることはできないと思う。けれども、色を教えてくれる晴眼者のパートナーを見つけられれば、それも可能になるかも知れない。パートナーを見つけられるかどうかは、運かも知れない。けれども、話し上手になって人脈を広げる等の努力がそれを見つけられる確率を高めるために全く無意味であるとは思えない。
幸せの話に続く。
要約:
喪男NにYという女性がアプローチしているが、Nからは「妹みたいな感覚」と言われて本気にされていないようである。これは単にキープされているのか?
予想:
ていうか「Nさん」は喪男じゃないんじゃなかろうか。
明治セックル維新 新政府御性文録→ルサンチマンは個性ではなく…. - Kammy+'s spaceブログ版→A男さん・B男さんの話とその続きを見て。
タイトルに要約されてしまうんだけど。なんも見えてないより、下手に見えてる方が、地雷を踏んでしまうって事なんだろうなと思った。相手に対して真摯に接しているつもりでいて、A男のように「絶対」とか軽々しく言えるのは、計算高さをフル動員しているモテ男か、夢中になってて頭回ってない普通の男(盲目)かのどちらかだろう。
いわゆる喪男は他に情熱を注げる対象がないからか、とにかく自分の事だけは深く考察してる(それ以外に時間つぶしのネタがないから。これは実体験)。しかしあくまで自分という閉じた殻の中で頭を働かせているだけだから、考える材料に乏しく、偏った結論に辿り着きがちだ。故に小賢しい。