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の動向はもえじら組ブログで。
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「コミュニティ」というとなんとなくOOo日本ユーザ会とかもじら組とかの「団体」をイメージする人が多いと思うけど、以前どこかで聞いた話では、「community」とは地域社会や物の好みなどで人が自然に寄り集まって形成された集団を指し、何らかの明確な意図を持って結成された集団は「association」と言うらしい。だから、ピンで活動している人も、関わっている間は、広い意味ではコミュニティの一員であるという言い方ができる。「オープンソースコミュニティ」とか「Mozillaコミュニティ」とかいう風な言い方がされている時に指す範囲は、そういう広い範囲であると解釈するのが妥当だろう。
そう考えると、Mozillaにビジョンが欠如している(と僕は思っている)のにも納得できる。コミュニティによって成り立っているMozillaには――コミュニティという集団には、元から、協力して一致団結して共に「今とは別の状態への進化」を積極的に目指そうというようなビジョンが無くて当り前だ。
なんとなく居心地がいいから集まってできるのが「コミュニティ」の本質であるなら、コミュニティにとっては現状の居心地の良さの維持・コミュニティそのものの維持こそが目的となるのが当り前であって、外側に向かって積極的に何かを働きかける必要は無い。外に向けて何かしなくてもコミュニティを快適な状態で維持できるなら、それでもう十分だから。コミュニティが外に向かって動き出すとしたら、外に向かって働きかけなければコミュニティを維持できなくなったから、というのがけっこう大きな理由として存在するんだろう。
Operaが明確なビジョンを持っている理由は、Operaがコミュニティではなく、Operaのビジョンのもとに作られた会社でありプロダクトであるからに他ならないんだろう。
……と、朝に出し残した膿をもうちょっと出してみるテスト。
須藤さんによるcairoの解説にも書かれているとおり、cairoグラフィックライブラリはボカシなどの効果をサポートしていない。それは、cairo開発陣のポリシーが「cairoは純粋なベクトルグラフィックス描画ライブラリであるべき」というものなんだそうで、cairoのMLなどでボカシ機能についての要望が出ても綺麗に無視されるのがオチらしい。その煽りを喰らって、「すべての描画をcairo経由で行う」なんてポリシーをおっ立ててしまったMozilla/Firefoxは、おそらくこの先もずっとtext-shadowをサポートできない。OperaもSafariも対応してる、IEですらもFilterを使えば実現できるのに。これは、Webの表現を豊かにするはずの技術が、ポリシーによって潰されている例だ。
その一方で、APNGを巡るゴタゴタにおいては、MozillaはPNGとMNGの仕様策定者のポリシーを<ruby><rb>蔑</rb><rp>(</rp><rt class="読み">ないがし</rt><rp>)</rp></ruby>ろにしてまでも、利用者のニーズ(アニメーションするPNGが欲しい)を満たすというポリシーを貫こうとしている。こちらは、ポリシーがWebの表現を(今よりは幾分)豊かにしようとしている例だ。
でも、そもそもの所を言えば、MNGをサポートするブラウザがなければMNGが普及するはずがないという事実をおそらくわかった上で、「MNGなんて誰も使わねーよ」と強権的にMNGサポートを破棄し、MozillaはWebの表現を豊かにすることを阻害してきたと言うこともできる。
僕はこういう、Mozillaの一貫してない所が嫌いなんだ。
昨日は晴れだったので冬用の布団をやっと干すことができた。畳んで押し入れの中に放り込んだ。
扇風機に再登場願った。
蚊取り(液体)は数日前から稼働してる。
もう夏ですね……
Apple(英語サイト)のダウンロードページから入手できる。malaさんの解説にある方法で全部のフォントをとりあえずMS UI Gothicに置き換えれば、日本語も表示できるようになる。あと、ブックマークを開こうとすると必ず落ちる問題も回避できるみたい。
というわけでご期待に応えて、Firefoxオワタ!
いや実際試した感じではまだ早いんだけどね。このページも文字が変な事になってるし……まあ正式版リリースまでにはきっちり直してくれることでしょう。多分。
まあ見どころは色々あると思うけど、僕にとって一番ショッキングだったのは、text-shadowをWebページ上で気軽に使える時代がやっときてしまうんだなあということ、そして、それをやったのはやっぱりGeckoではなくWebKitだったということ。僕の中でのGeckoの「終わってる」感がますます強くなった、そんな一つのエピソードなのでした。だってtext-shadowってもう10年近く前に策定された仕様なのによ? この段落にドロップシャドウが付いて見えないのが許されるのは小学生までよねー! キャハハハ!! キモーイ!! て感じですか。
「収入とは、誰をどれだけハッピーにしたかに対して支払われる対価である」という価値観は、「収入とは、年代・身分に応じて給付されるべき物である」という価値観に比べるとマイナーらしい、という話を読んで。
リンク先の人は親が自営業だったから自分がこんな奇異な価値観を持つに至ったのか? そのせいで周囲の人間に話が通じないのか? という風なことを書いておられるけれども、学校教員且つ共産党支持の親の元で育った僕自身もそういう価値観(収入は誰をどれだけハッピーにしたかに対して支払われる対価である)を持っているので、それがマイナーな価値観であると言われて「えぇぇぇぇぇぇーーーーー????」と思ってしまった。
そういう価値観を持っているから、僕は、今自分がしていることが収入になっていること自体に違和感と不安を持っている。うまいかまずいか分からないラーメンを客に出していて、客は何も言わずに店を去っていき、客とラーメンとは無関係に天からお金が降ってきて、僕はそれを糧にしている、そんな感覚がある。
いや、もちろん、僕のしたことに価値を感じてる人がいるのは分かってる。ラーメンの例えで言うなら僕はまさに、ナルトを納品してる業者であるとかネギを納品してる業者であるとかに相当していて、ラーメン屋の店主が僕に対してナルト代やネギ代をくれてるんだって事は分かる。でもその店主が作ったラーメンすなわち最終成果物と、ラーメン屋の収入との間の結びつきが見えない。自分もまたラーメン屋のビジネスの一端を担っていると考えた時に、誰かをハッピーにできた実感もないし、自分のした行為と天から降ってくるお金との間の関係性もまるで見えない。
実感や、自分のしたことがどれだけの金に値することかハッキリ把握していれば、ただ働きさせられた(無銭飲食された)時に「オイオイそりゃ違うだろ、あんたは俺に対価を払うべきだろ」と自信を持っているだろう。でもそういう自信を持てないから、今の僕は、収入が突然ゼロになってしまっても「そりゃおかしいよ」と強く言えそうにはなくて、いつそうなるかと怯えてる。
ていうか素直に考えたら、「収入とは、年代・身分に応じて給付されるべき物である」という風な考え方の方が、それに比べるとずっと共産主義的というか社会主義的というか、そういう気がするんだけど。もしほんとにそういう価値観の方がメジャーであるなら、「日本は実質的には社会主義国家みたいなもんだ」と言う言説が真実であるということをより強く裏付ける一つの要素と言えると思う。
JT本社内で分煙が徹底されてない云々を取材した記事を見ててふと思ったんだけど。
タバコって「嗜好品だから」喫うのも売るのも自由でしょ、みたいな言い方をされてるのを見かけることがあるんだけど、じゃあ、他の嗜好品、酒やなんかと同じように、「週に1本だけたしなむ程度に喫います」とか、「祝い事があった時に喫うくらいです」とか、そういう人っているんかな?
例えば僕は、毎晩酒を飲むという習慣はないけど、飲み会の時にたしなむ程度には飲むし、家でも1週間か2週間に缶チューハイ1本くらいは呑んだり飲まなかったりする。そういうペースでタバコをたしなんでいる人って、どのくらいいるんだろう。
これは偏見だけど、なんとなく、喫煙者っていうと、一日中どこへ行ってもタバコ喫ってるようなイメージがある。全く喫わないか、数十分から数時間おきくらいに一日中喫ってるかの、両極端なイメージしかない。数十分から数時間おきくらいに一日中酒を飲んでたら、それってどう考えてもアル中だよなあ、と思うから、その勢いで、喫煙者も全員ニコ中だ、みたいな風に僕は思ってしまう。
週に1本とかのたしなみ方をしてる人がそれなりの数いるんであれば、僕はこの偏見を捨てます。
Firefox Developers Conference Summer 2007に向けてまた手を入れている。
ていうかプレゼンツール作ってないでプレゼン資料の方をとっとと作れよと。
掲示板で、XUL/Migemo勝手改造版の辞書フォルダの置き場所について相対パスでの指定もできるようにならないか、という要望が出てたのでがんばってみたよ。
以下、解説。