たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
わざとか偶然かどうか僕は知らないけれども、Mozilla 1.0とかそういった時期には日本でのMozilla関係の活動は結構もじら組に集約されてたとこがあったような気がするんだが、Firefoxの普及期においては、もじら組は影が薄いというか裏方になってしまったような印象がある。でもって、それ故にFirefoxは日本国内で好意的に受け入れられたような気がする。ここでもじら組が下手にしゃしゃり出てきてたら潰れてたろうな、みたいな。
それには色々な理由があるのだろうけれども、僕は、半端なあるいはマイナスのブランド力のせいという説を唱えてみたい。
大企業や官というのはその規模にかかわらず相当なブランド力を持ってる。そこらで汲んできた水をペットボトルに詰めて売ろうとしても売れないのに、大手飲料会社のラベルが付いてれば多分それで150円で売れる、そういう意味でのブランド力を。
それに対して草の根で立ち上げた組織というのは、ブランド力がそれらと比べて圧倒的に、もしかしたら個人と比較してすらも、劣っているように僕には思える。「信頼できる個人」が何人か集まったはずなのに、そこに「集団化することによる硬直化」など諸々のデメリットが発生して、信用が低下する。さらにどこの馬の骨とも知れん人が参加すれば、一段と信用が低下する。そんな感じでどんどんブランド力が落ちていくんじゃなかろうか。だから、もじら組よりもPhoenix情報局とか個人で頑張ってる人達の方がフォーカスされるんじゃなかろうか。
もじら組の場合はそれに加えて、マイナス評価を得るような事件もありましたからなあ。あんまり言うとyさんあたりの胃に穴が開くらしいので言いませんが。笑。
だから日本では草の根活動はある程度以上は伸びないんじゃないかなーと思うんだ。ブレイクスルーは、それを企業なり何なりが買い取ってブランド付けすることで、あるいは最初から企業がバックについて行うことで、初めて訪れるんじゃないかと思うんだ。
mixiとかはてなとかブログとかはユーザが草の根的に育ててるじゃないか!と言われたらある意味ではそうかも知れんけど、でも僕にはそれらの盛り上がりも「箱庭」的なものなんじゃないのかなーと思えるんだ。あくまでイーマーキュリーやはてなやgooやニフティなどなどによってパッケージングされた箱庭の中での「擬似草の根活動」というか。
企業の「ブランド力」と書いたが、より正確に言うと「信用度」ということになるだろうか。一般的に、「有能な個人」よりも、「普通の人々が運営する企業」の方が、世間からは信用される。例えその企業がどれだけ赤字体質であったとしても、そのことを知らない人は「企業だから」無条件で信用するだろう。逆に、その個人の有能さを知らない人は、「個人だから」無条件で距離を置くだろう。
コミックマーケットは非IT分野だが最大の草の根運動だ!という指摘があったのだけれども、コミックマーケット準備会は渉外その他の活動のための下部組織として「株式会社コミケプランニングサービス」「有限会社コミケット」というものを抱えている事実は見逃せないだろう。……と書いてはみたものの、資料によると有限会社コミケット(設立当時は株式会社)の設立はイベントが十分に巨大化してからなので、「企業だから成功した」という例には当てはまらないようだ。ただ、今日までの存続のために「企業という信用」を使う必要があったと言うことはできるだろう。
今まで気づいてなかったんだけど、Firefox Hacks日本語版(Amazon.co.jp)によると、LinuxではWindowsの場合のように特に難しいことをしなくても、普通に異なるバージョンのFirefoxをいくらでも起動できるようだ。
試してみたら実際できた@Debian Sarge。というわけで今後はfirefox-mozilla1.8のナイトリーと1.0.6の二つを並行して使っていくことにしよう。
184 名前:('A`) 投稿日:2005/08/25(木) 19:02:54 0
「隊長ってのは一番安全な場所で指示出して、成功したら全て自分の功績だと胸を張って目立ち、
失敗したらへらへら愛想笑い浮かべながら謝りゃいーんだ」
ネトゲでのピザ友人
夏の葬列 9月2日分に転載されてた書き込みが、どっかで見た大好きなセリフだったような気がして、ぐぐりまくったり本棚眺めたりして30分ほど悩みに悩んだ末に、やっと思い出した。
デスノート 8(Amazon.co.jp)買った。うは! また色々起こってるな! シドウより頭の悪い僕にはもう何が何だか……
とりあえず、ニアの髪がだんだん手抜きになってってるのが注目すべきポイントと言えるだろう。あとニアが組んでたプラモはハセガワのテムジン747を見ながら描かれたに違いない。
明治セックル維新 新政府御性文録→ルサンチマンは個性ではなく…. - Kammy+'s spaceブログ版→A男さん・B男さんの話とその続きを見て。
タイトルに要約されてしまうんだけど。なんも見えてないより、下手に見えてる方が、地雷を踏んでしまうって事なんだろうなと思った。相手に対して真摯に接しているつもりでいて、A男のように「絶対」とか軽々しく言えるのは、計算高さをフル動員しているモテ男か、夢中になってて頭回ってない普通の男(盲目)かのどちらかだろう。
いわゆる喪男は他に情熱を注げる対象がないからか、とにかく自分の事だけは深く考察してる(それ以外に時間つぶしのネタがないから。これは実体験)。しかしあくまで自分という閉じた殻の中で頭を働かせているだけだから、考える材料に乏しく、偏った結論に辿り着きがちだ。故に小賢しい。
益田ラヂヲさんが 男と女の「喪」感の違いが何となく分かる
、とピックアップされていた、妄想くらいsasetekure。確かにその根底にあるものは大きく異なるようだ。
喪男と喪女の違いについて、僕の主観的な印象を表形式にまとめてみた。
昨日は、足永さんとかzoeさんとかが、Googleの中の人になった某氏(名前出してイイの?)とともに肉を食す会を催されるということで、僕もおじゃまさせていただいてました。
愉快な会社ですね。
from 夏の葬列
61 名前:('A`) 本日のレス 投稿日:2005/08/23(火) 01:06:28 0
ヲタクが恋愛に縁遠いそもそもの原因、それは顔や趣味がどうこう以前に、
ヲタクは「ホレにくい」タチというか、「自分にホレる女」が好みだからなのだ。
『オタクvsサブカル』を煽ってみる - araig:netでの仮説が興味深い。曰く、自分が男であること・オスであることを、否定するのがサブカル、認める(そして開き直る)のがオタクである、と。
僕はまごう事なきオタクだけれども、男根主義が中心にあると言われるとかなり納得するところがある。ツンデレ姉萌えとか年上スキーとか言ってるし。
ただ、僕の場合はそれと平行して同時にレズスキーだったりもするので、「男根主義」がオタクとサブカルの違いだと言われると少々違和感もある。……のだけれども、僕のレズスキー趣味の根底にあるのは、男を捨て去りたい、女になりたい、という願望なのかもしれない。その場合でもやはり性的なものにこだわっていることは変わらず、つまり、男根主義がどうこうと言うよりも、これは、性的な欲求そのものについての話なのではないかと思えてきた。
女性サブカラーや女性オタクがそのあたりをどう考えているのか、興味があるなあ。
たぶん断絶の根っこは、「コミュニケーション弱者」に対する「軽蔑の視線」を許容するのか、しないのか?ってことを見て。
軽蔑・差別をおおっぴらに許容はしたくないけど、根絶は無理かなーと思う。なぜなら自分自身、コミュニケーション能力・スペックが低い自分の事を軽蔑してしまうから。自分の中で消せないものを他人にまで求められない。
昔、小林よしのりが部落差別関係の話で「差別は喜怒哀楽と同じ、人からなくすことのできない感情だ」みたいなことを言っていた気がする。そういうものなのかなと僕も思う。
人間は(例外はあるだろうけれども、概ねは)群を作って暮らす動物だ。「群の掟に従わない者は追い出す」のも「群の中で序列を付ける」のも、群を作る動物の特徴だと言えるのではないだろうか。
人類は、ヒトという種の限界を越えられるのだろうか。そういう壮大な試みのように僕には思えてきた。