たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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僕は、処女じゃないと付き合う意味がないとか、そういう考えに至る心理というのがよく分からない。そりゃあ、「初めて」ってのは特別なことだから、その特別なことを経験できるというのは、あればあったで嬉しいオプションだろうけど……
「処女でなきゃ駄目だ!」と思ってる人の中には、処女性以外の観点で女性の魅力を認識できていないためにそうなってしまってる人もいるんじゃないだろうか。それ以外の、例えば、普通に話が合うとか。極端な話、「話の合わない処女」と「話の合う非処女」どっちと恋愛したいかというような問いにもできる。
それとも、話が合うとかそういうのとは別の次元の問題だと考えているんだろうか。そうだとするなら、そこはもう「何が別格で大事か」と考えるところでの価値観の違いだから、何も言えないなあ。
エロゲーの傾向の話がごく一部の人に好評だったので、それに関係する話なんだけど。
エロビデオ見るとき、導入とかインタビュー風の部分とかって飛ばす方ですか? 律儀に見る方ですか?
普通の「ご褒美型」の――エロシーンが最後の方にあるタイプのエロゲーをするとき、セーブデータ拾ってきてエロシーンだけ見る方ですか? 極端な話、どっかの海外のサイトから画像だけ拾ってきてそれで堪能して終わりにしたりしますか? それとも、オープニングから妙に長い日常部分を経てエロシーンそしてエンディングまで、全部通してキッチリやる方ですか?
そのあたりに、重要なことが隠れていると思うんだ。
ゲームのエロシーンとかエロビデオの抜き所とかだけ見る人っていうのは、実体験として女に不自由してない人か、逆に女を忌避してる人(避モテ)かなんじゃないか、女に飢えて飢えてコミュニケーションを取りたがってる人ほど、エロゲーの「日常シーン」を律儀にやったり、エロビデオの導入部を律儀に見たりするんじゃないか、と僕は思うんだ。何故なら、僕らが欲しているのはエロそのものではなく、異性との恋愛体験なのだから。
だから僕らにとっては、エロシーンはそれ単体に意味があるのではなく、日常シーンの延長線上にあるからこそ意味があるんだ。
逆の言い方をすれば、エロゲーの日常シーンやエロビデオの導入部をじっくり見ることができる人は、現実で精神的に満たされてないって事だ。
エロビデオの導入部を躊躇なくスッ飛ばせるような人間になりたいものですね……
2019年3月6日追記。何故かこれが今になってちょっとアクセス伸びてて、何故なんだかほんと分かんないんだけど、14年経て既婚になった今でもエロビデオの導入部を(時間があるときは)じっくり見てしまうという事実があるので、自分に関してはこれは単なる性癖だった模様です。お騒がせしました。
こないだ書いた「田舎弁士」エントリ→それへの言及→その翌日の記事→先の言及記事に対する言及と辿った。
まぁ、元「非モテ」や脱「非モテ」からアドバイスを受けたくない、「非モテ」の人は、一度、文章だけで、自転車に乗れるようになるマニュアルを、乗れる人からの物言いではない表現で作れるかどうか考えてみたらいいんじゃないでしょか。もちろん、「まずは乗ってみよう!」は禁句だ(笑) 「繰りかえしているうちに乗れるようになるさ!」も禁句だ(笑)
・・・そういったマニュアルが作れるのなら、「非モテからの脱却」というものも、文章だけで説明/指南する物が作れるかもしれませんねぇ。
でも、一部の「非モテ」は、こういうマニュアルを、本気で求めているッぽいからなぁ・・・。
最後の記事のこのくだりに同意する。「非モテであることの苦しみから解放される」ってのはマニュアルでどうこうできる問題じゃあないんじゃないだろうか。
恋愛至上主義の無意味さというのは、読書とか、モノ作りの経験とか、僕が一昨年の12月から昨年10月まで続けていた「毎日の『良かった』探し」とか、恋愛とは直接関係のない事柄を山のように積み重ねて物凄く遠回りして初めて分かるものなんじゃないだろうか、と僕は思う。それを全部すっ飛ばして「異なる価値観」という巨大な断崖絶壁を乗り越え一気に答えに辿り着くショートカットは、脱非モテした人が非モテの人にさしのべた言葉の中にあるのだと思うけれども、それはあまりにか細くて、絶壁を登り切る前に切れてしまう。
あるいは、現在進行形で非モテな人の背中には、長年かけて蓄積したあまりに重い暗い感情がおぶさりすぎてて、それが邪魔で自力じゃあその絶壁を上れない。ずるずるずるずる、いつまでも引きずって……
軽くなった気がする。引きずりすぎて、すり減ったかな。
十分にすり減るまで時間と手間をかけて遠回りするしかないんじゃないだろうか。
やっぱ、非モテ問題とダイエット問題は似てるなと思った。
iMaさんから恋愛バトンなるものを回されてしまった。
狭義の自分の幸福を望む話からの派生。
狭義の自分の幸福を望むと、往々にして、広義の自分(≒他人)の幸福を否定することにつながる。恋愛というものは、狭義の自分に極めて近い場所にいる、しかし広義の自分(≒他人)に含まれる存在を相手に、幸福を考えるという、ジレンマを抱えた行為なのではないだろうか。
そしてそのジレンマから、何か別の幸福論が飛び出してくるのではないだろうかと期待するのが――「恋愛」と聞くと、なにか今までと全く異なった素晴らしい答えが出てくる事を期待してしまうのが、「恋愛教」なのだろうか。
恋愛の話の続き。
非言語的コミュニケーションの観点から脱ヲタをというものを考えてみたりとか、すっかり僕も「頑張ればモテるよ!」式の愚にも付かない空虚な慰めをする嫌な奴に成り下がってしまったと思われても仕方ないような事ばかり最近やってる気がしてしまうけれども、それは本意ではない。僕はただ、それだけが幸せであるとは思っていない。というよりも、幸せとそれとは全く別の問題なのだと思っている。
努力次第で人はいくらでも幸せに生きられると思う。何故なら、人には考える頭というものがある。自分で自分を暗示にかけることができる。他ならぬ僕自身、今までそうやって生きてきた。
「自分という個人」が幸せになれないのなら、発想を逆転すればいい。世界全体が「自分」なのである、と考えればいい。あるいは言い換えれば、「自分の価値判断」の基準を「人類」全体にまで広げればよい。そういう視点からものを見れば、「他人」の幸せも何も妬ましくなくなる。それどころか、「他人」の幸せも「自分」の枠の中での出来事なのだから、なんだって「自分の幸せ」になる。
世の中には無条件で他人の幸せを祝福できる人もいるだろうが、僕は、そういう人ではない。僕はあくまで他人を祝福しているのではなく、他人を通じて、自分を祝福しているのだ。
全てを祝福できるようになれば、もう、勝ったも同然ですよ。
そう考えるから僕は、他人の幸せを妬んでテロを起こすことには否定的だ。妬まなくてもいいじゃないか、一緒になって祝福したらいいじゃないか。自分と他人とを分け隔てて考えるから妬ましくなるんだ。ならば分け隔てなければいい。肥大化した自己愛で全てのものを包み込んでしまえば、全て自分を愛するのと同じように愛せるだろう。
思うに、人は自己愛を否定するから幸せに生きられないのではないだろうか。「そんなものに価値はない」「そんな閉塞的な考え方に未来はない」じゃあ、価値や未来を捨ててしまえばよいのではないだろうか。そもそも、価値や未来といったものはそんなに大切なのだろうか? 誰にとって大切なのだろうか? 自分にとって大切でないなら、大切にすることなんてないんじゃないのか?
幸せに生きられるかどうかなんて、きっと、そんな程度の問題。
恋愛できるかどうかというのは、努力と運の両方が必要だと思う。運が足りない部分はある程度まで努力で補えると思う。でも、どちらか一方だけでどうにかなるものとは思えない。僕はここまでの所、非常な幸運に恵まれていたと思う。
いくら自分の側が努力しても、相手が見つからなければどうしようもない。相手を見つけられるかどうかは、運だろう。ただ、努力して顔を広くすると、人との出会いの機会は増える。その結果として、相手が見つかる可能性が高まるかも知れない。僕は、Webサイトの運営を続けていなければ出会えなかったろうし、今失えば、これから先どれだけ努力しようとも、こういう出会いはきっともう一生無いだろうとも思う。
ルックスは、努力ではどうにもならないものと努力次第でどうにかなるものの両方があると思う。両親共に美男美女であるとかいうのは、完全に運だ。ただ、極端な話、整形手術という手段はある。僕は小さい頃に歯列矯正を受けたけれども、これだって立派な整形だ。ファッションセンス抜群な両親の元に生まれ育つとか、そういうのは幸運だけれども、そうでなければセンスは手に入らないというものではない、努力で後からでも身につけられるものだと思う。
努力と運とは複雑に絡み合っている。そんなに世界はシンプルではない。
全盲の人は、一人だけでどれだけ努力したって、色の組み合わせのセンスを身につけることはできないと思う。けれども、色を教えてくれる晴眼者のパートナーを見つけられれば、それも可能になるかも知れない。パートナーを見つけられるかどうかは、運かも知れない。けれども、話し上手になって人脈を広げる等の努力がそれを見つけられる確率を高めるために全く無意味であるとは思えない。
幸せの話に続く。
明治セックル維新 新政府御性文録→ルサンチマンは個性ではなく…. - Kammy+'s spaceブログ版→A男さん・B男さんの話とその続きを見て。
タイトルに要約されてしまうんだけど。なんも見えてないより、下手に見えてる方が、地雷を踏んでしまうって事なんだろうなと思った。相手に対して真摯に接しているつもりでいて、A男のように「絶対」とか軽々しく言えるのは、計算高さをフル動員しているモテ男か、夢中になってて頭回ってない普通の男(盲目)かのどちらかだろう。
いわゆる喪男は他に情熱を注げる対象がないからか、とにかく自分の事だけは深く考察してる(それ以外に時間つぶしのネタがないから。これは実体験)。しかしあくまで自分という閉じた殻の中で頭を働かせているだけだから、考える材料に乏しく、偏った結論に辿り着きがちだ。故に小賢しい。
河原先輩(上級腐女子)曰く、ドロシー(ガンダムW)や野上冴子(シティーハンター)はイイ女。CLAMPのマンガに出てくる女キャラもだいたいイイ女。ノイン(ガンダムW)やギャルゲー・エロゲーに出てくるような女は軒並みアウト。だそうだ。他の女子の人も「イイ女」の印象はそんな感じらしい。
ちなみに「臨死!!江古田ちゃん」の江古田ちゃんまでいくとハジケすぎてて駄目らしい。笑。
さて。前述の「女から見てイイ女」とされたキャラと、単に「気の強いキャラ」とか「ツンデレ」とかいわれるキャラとの違いを考えてみると、どうもその差は、プライドの高さにあるのではないかと思えてきた。つまり、冴子さんは男の前でも媚びたりしないけど、エロゲー・ギャルゲーのツンデレキャラは男の前でデレデレしすぎる、というところに違いがあるようだ。
あー、確かに冴子さんやドロシーは仮にベッドの上だとしても男に甘えなさそうな印象あるね(童貞の妄想)。エロゲー・ギャルゲーのキャラと違って作中ではそういうシーンが描かれないから、想像が及ばないだけ、という可能性もあるかも知れんけど。
ただ、冴子さんも恋愛はしていたし、それも、男に崇め奉られるでもない比較的良好な関係を持っていたような描かれ方なんだよね。だから、「女の魅力で男共を付き従える女王キャラ」≠「女から見たイイ女」だということでもある。
男から見た「イイ男」についても同じことが言えるだろう。女に妙に媚を売るのも、逆に、男の魅力で女共を付き従えるというのも、なんか違う。
相手にただ従うでも、相手をただ従えるでもなく、互いにほどよい均衡を保ってお付き合いできる「大人」。それが「男から見ても女から見てもイイ男」「女から見ても男から見てもイイ女」なのではないだろうか。
河原先輩(上級腐女子)曰く、ドロシー(ガンダムW)や野上冴子(シティーハンター)はイイ女。CLAMPのマンガに出てくる女キャラもだいたいイイ女。ノイン(ガンダムW)やギャルゲー・エロゲーに出てくるような女は軒並みアウト。だそうだ。他の女子の人も「イイ女」の印象はそんな感じらしい。
ちなみに「臨死!!江古田ちゃん」の江古田ちゃんまでいくとハジケすぎてて駄目らしい。笑。
さて。前述の「女から見てイイ女」とされたキャラと、単に「気の強いキャラ」とか「ツンデレ」とかいわれるキャラとの違いを考えてみると、どうもその差は、プライドの高さにあるのではないかと思えてきた。つまり、冴子さんは男の前でも媚びたりしないけど、エロゲー・ギャルゲーのツンデレキャラは男の前でデレデレしすぎる、というところに違いがあるようだ。
あー、確かに冴子さんやドロシーは仮にベッドの上だとしても男に甘えなさそうな印象あるね(童貞の妄想)。エロゲー・ギャルゲーのキャラと違って作中ではそういうシーンが描かれないから、想像が及ばないだけ、という可能性もあるかも知れんけど。
ただ、冴子さんも恋愛はしていたし、それも、男に崇め奉られるでもない比較的良好な関係を持っていたような描かれ方なんだよね。だから、「女の魅力で男共を付き従える女王キャラ」≠「女から見たイイ女」だということでもある。
男から見た「イイ男」についても同じことが言えるだろう。女に妙に媚を売るのも、逆に、男の魅力で女共を付き従えるというのも、なんか違う。
相手にただ従うでも、相手をただ従えるでもなく、互いにほどよい均衡を保ってお付き合いできる「大人」。それが「男から見ても女から見てもイイ男」「女から見ても男から見てもイイ女」なのではないだろうか。