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腐敗した世界に堕とされた人々 →「恋愛は普遍」だなどと誰が言ったのか →普遍なものは何か →前回記事への追記
この流れを見てて思ったこと。
非モテが「人の気持ちになど共感できなくても生きていける」「精神的に深くつながることなど必要ない」と思っているならば、その人には全く必要のない能力なので、「あ、そうですか。だったら前提とする価値観が違うってことで」とあっさり引き下がるつもりでいる。と書いておられることから、「普遍的」と書いてはいても、「100%すべて例外なく人間はそういうものだ」とは考えていないようだとわかる。
岡目八目とはこのことか。
「恋愛は普遍」だなどと誰が言ったのかというエントリを見て思った事。リンク先は長いから要約すると、「恋愛は普遍だとあなたは言ったが、普遍であるという証明がなされていない。単にあなたが、それを普遍だと思い込み、他の価値観が存在する可能性を思考から排除しているに過ぎない。」という話、になるのかな? 少なくとも僕はそう理解しましたが。
カトリックにとっては、カトリックだけが人間で、プロテスタントも異教徒も人間じゃない。だから殺しても罪にはならない。みたいな。少なくともどっかのイスカリオテの某マクスウェル大司教はそうお考えのようですが。この考え方って、逆から見れば「人間ならカトリックで当り前だろ。カトリックは普遍だ。」という話でもありますよね。
ということは、恋愛が普遍だと思ってる人にとっては、恋愛できない者はヒトではなくただの動物なのかしらん。
ウェブアクセシビリティとかそういう話をかじってると、オーバーラップしてきますね。「晴眼者で、日本語が読めて、Windows Internet Explorerを使ってて、広い画面でWebを閲覧してる人」しか意識してない、それ以外の環境があることを考え付きもしない、みたいな。音声読み上げでブラウズしてるかもしれないし、運転中で手が離せない状況でカーナビで見てるかもしれない、そういう人を排除するのか、みたいな。そして「俺は自分と近い環境の人しか想定してない。それ以外の環境の人は見んでもいい。俺はそんな人らとはコミュニケーションとりたくない。」と言われておしまい、みたいな。
まあそれを以って「考えが浅いなあ」と言ってしまうこともできるわけですけれども、あまねく全ての人を相手にコミュニケーションしろと言うのも無理な話ですから、どこかで線を引かないといけませんね。自分がコミュニケーションを取りたいと思い、実際に取る、その相手を選別するための線。
本当の意味で非モテ人とモテ人がお互いコミュニケーションをとろうとしてる例がどれだけあるんだろう。と、思った。
わが子の結婚 - 檜山正幸のキマイラ飼育記とか、友人の「結婚バトン」への回答とかを見て。
幼稚園児とかそのくらいの歳の子だと、ちょっと好意を持った異性の相手について、すぐ「○○ちゃんと結婚するんだー!」とか口走るものだと思う。その子に悪気はないんだな。ただ自分の事しか見えていなくて、相手の気持ちや、自分を取り巻く状況といったものが判断材料として組み入れられていない、ただそれだけのこと。
ンで、ふと思ったけど。キモヲタとか喪男とか呼ばれるようなタイプの人が何かの間違いで異性の好意に少しでも触れたら、すぐ「結婚!」と舞い上がってしまうという例(みんながみんなそうなのではなく、そういう人もいるということで)。これも、別に人格障害とかキモイとか一言で断じてしまわなくてはならないような病理などでは決してなく、むしろ致し方ないものなのではないかと思った。
何故なら彼らはそれまで異性と触れ合う機会が全くなかったのだから、色恋沙汰に関しては幼稚園児未満と言ってもよい。幼稚園児ですら好みの異性に対して「○○ちゃんと結(以下略)」のようなセリフを吐くほど恋愛のスタートラインが低年齢化したこの時代に、彼らはスタートラインにすら立っていなかった。彼が今スタートラインに立てば、幼稚園児の時点で既にスタートラインに立っていた人と同じ事を考えても何らおかしくない。
それは「子供の恋愛観」の芽生え。そのプロセスを経ずして一足飛びに「大人の恋愛観」に達することなどできないのではないか? 彼らに対して「年相応の恋愛観を最初から持っていろ」と命じることこそがおかしいのではないか? 放っておいても時間とともに進んでゆく肉体・精神年齢と、恋愛体験を通じてしか進み得ない恋愛観の成長度合とは一致しないのが当り前なのではないのか? 恋愛観の成長度合が低いからといって、それは本人の責任と言えるのか?
日本の童貞(著:渋谷知美)(Amazon.co.jp)。童貞非モテ界隈の聖典(今ここで勝手に認定)ということで、今更読んでみた。
東大大学院の修士論文として書かれた物を読み物としてリライトしたものだという本書は、膨大な資料をもとに、戦前と戦後での日本社会の中での「童貞」の位置づけの変遷を検証している。
結論の部分だけいえばこの手の話題の中で散々繰り返されてきたこと……というかこの本を読んだ人達が結論部分を語ってるんだろうけど、その結論に至るまでに細々と例を挙げて解説・分析してるところが見所だ。いやあ、見える世界が変わるね、これは。
知ったかぶって一席ぶつ前に読んでおくべきだった。無邪気に「童貞ってキモいよね」とか「童貞はキモくないよ」とか思ってる程度のレベルでこの話題に触れることがどれほど愚かしいか、痛感させられる。
それにつけても改めて思うのは、統計的なものは本当に悪用されがちなのだなあということ。似非科学とかもそうだ。「もっともらしいデータらしき体裁のもの」を見せられると、なぜ人はこうも容易く信用してしまうのか。
この本の中で挙げているデータは1990年代中頃までの話のようなので、最新の動向がどうなっているのかまとまった情報があればぜひ見てみたいものだ。僕はメンズノンノとかその辺の若者らしい若者が読む雑誌というものを全然読んだことがないから。
以前、童貞の苦悩と題して、なんで童貞であることで苦しむのかについて自己分析を行ったのだけれども……苦しみというよりも、恐怖に感じるようになってきた。
いや、童貞であること自体が恐怖なんじゃなくて。知らないまま、知りたいと願い続けたまま、満たされることがないまま、一人前と認められることがないまま、劣等感から解放されることのないまま、死んでしまう、そのことが恐ろしい。死にたくないと思わせる、現世への強い未練、というかなんというか。
人間いつかは死ぬものだけれど、その時が今すぐ来ないとは限らない。こうしてただ座って息をしてるだけでも、何パーセントかの確率で人は死ぬのだと聞いた。地震のせいか火事のせいかそれとも強盗のせいか理由は知らんけど。家の中で引き籠もってたって絶対安全というわけじゃない。「いつかそのうち脱出できるだろ」が、ただ運の悪さで、果たせないまま終わってしまうこともある。
ひたすら悔やみながら死ぬというのは嫌だねえ……
非モテと共同体より。
ここまで書いておいて何なんですけど、今の非モテの人の特徴というのは、「ルサンチマンを苗床にして右や左の政治思想に傾倒、あるいは宗教にハマる」という行動を取らないところじゃないかと。これがオウム以前だったら宗教に救いを求めたり、学生運動華やかなりし時代だったら左翼に身を投じていたのかもしれない。つまり、どんな時代にも非モテはいた。「恋愛でつながれないから思想(or信仰)でつながりたい」とか、「俺が正当に評価されない(モテない)のは社会が悪いせい。だったら思想で世の中を変えてやる」とかね。
今はそれらがどれもこれも信用ならないってことがわかってしまって受け皿がなくなってるんですね。それで信じるに足るものが見つからず迷走してるのが今日の非モテの状況じゃないかと思ったりもします。
あ、これ凄く納得。なぜなら少なくとも自分はそういうところがある。「Web標準」とか「オープンソース」とか「Firefox」とかその辺に傾倒してる動機のいくらかは、単なる反体制的感情、というかルサンチマンに基づいてる。
そういう感情に基づいてベタボメしてた物が、実は冷静に見たらそんなにいいものでもなかったと気付いたとき、結構ショックを受けるものだ。それでもなお自分で目を瞑って耳を塞いですがり続けるか、別のすがりつく先を探すか。どっちにしても、現状から目を背けてることに変わりはないんだよな。
そういう社会的な逃げ場がもう残されていないから、もっと小規模な、個人的な逃げ場、何があっても絶対自分を見捨てないでいてくれる人、そういうものを僕は求めるのかも知れない。
明治セックル維新 新政府御性文帖→価値観の多様化について。本文だけでなくコメント欄のやりとりにこそ注目したい。
社会で主流となる価値観が変わったにもかかわらず、その変化に追随せずそれまで主流であった価値観を堅持すると、その人にとってその社会は生きづらくなる。そのため、自分が変化に追随するのではなく社会の側を元に戻すことでその人にとって住みよい社会を取り戻そうとする……というのが、保守反動という立場だ。
故に、非モテ者が、自分自身が「脱非モテ」=「モテ化」しなくても住みよくなるよう社会の側を変えることを望む――具体的には例えば「見合い」や「地域の共同体」といった既に存在感を失ってしまったかつての文化や権力を復活させるというのは、望むと望まざるとに関わらず「保守反動」にあたるものだと言えると思う。
とはいえ、今現在「非モテ」で悩んでいる人の多くはかつての「共同体重視、個人軽視」の価値観の社会は肌で感じていない若い世代なのではないか、本格的な保守反動というよりは、街宣車を乗り回すような右翼に憧れる若者達に近いのではないか、とも僕は思う。
ひょっとしてそういう世代にとっては、その運動は「保守反動」などではなく、「自分が体験したことのない理想社会の実現を目指す運動」すなわち「革新」と捉えられているのだろうか?
ていうか、保守反動も革新も結局同じことなのか? 極右と極左は同じ物だとかそういう話とは別の意味で、反動と革新は世代が変わるごとに立場が入れ替わる物なのか? 例えば共産主義なんてのは、個体の幸せよりも種の幸せが優先される、本能的に生きる動物の時代にまで遡る壮大な反動運動なのではないのか?
そう考えると、なんだか一つこの世界のシステムの実態が見えてくるような気がするよ。(普通の人はもっと早くに気付いてるものですよ? 23にもなるまで気付かないなんてどうかしてるんじゃないですか?自分)
今まで「女なんてめんどくさいだけだ。そもそも恋愛なんてのは男に金を使わせていろんな業界がみんなして儲けるために作り上げた幻想だ。俺はそんな下衆な企てに踊らされたりせずに、一生孤高に生きるぜ。」とか言ってたような人が何かの間違いで彼女ができた途端に「恋愛っていいもんだぜー君も彼女早く作りなよー」と恋愛教の手先に変貌してしまうのは何故だろうか、と考えてみた。
人によっては、そういった行為は単なる「余計なお世話」「ゆるい同調圧力」だけれども、ある意味では「幸せを分け与えようとしている」「善意の奉仕者」「いい人」と言えなくもない。
で、ふと思った。「彼女ができた奴がこぞってそうなる」のではなく、「そういう奴だから彼女ができる」のではないだろうか、変化してそうなったのではなく元からあった資質が表出したのではないだろうか、と。自分の価値観での「幸せ」を譲れないものと信奉し、大事な相手にもその幸福観を押し付けようとする性質。
なぜなら恋愛って多くの場合は、互いに、自分の求めるものを相手がくれるという関係だと言えると思うから。互いに幸せを求めていて、互いに幸せを押し付けあおうとしているのなら、その「幸せ」のイメージさえ共通していれば何も問題は無いだろう。
その「幸せ」のイメージが合わないか、あるいは、需要が極端に少なかったり大きかったり、供給が極端に少なかったり多かったり、そういう時に、彼らのようなタイプの人は「性格の不一致」「価値観の相違」で別れることになるんじゃないだろうか。
とはいえ、そういう性質は「あると確率が高まる」という程度のもので、必要条件ではないのだろうとも思う。与えるばっかりで満足する人も、もらうばっかりしかしない人も、組み合わせ次第では相性良くぴったり収まるだろうから。
……なんか何言ってんのか自分でよくわからなくなってきた。