たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
2年前のブラウザー勉強会で、FirefoxやThunderbirdの一括導入と企業での導入事例についての話をやったけど、その時に「こういう物を使ってます」と話だけ出した「メタインストーラ(FirefoxやThunderbirdのインストーラをキックしてサイレントインストールした上で、アドオンも一緒にインストールする物。設定を作り込んだ状態のFirefoxやThunderbirdを一括導入するために使う)」だけど、実はちょっと前からGitHubでひっそりと公開してた。導入案件の相談があってもリソース配分の関係で受けられないという事が何度かあったので、ツール公開しとくから自分でできる人は自分でやってねという話です。
が、過去の案件で要望が上がる度に場当たり的に機能追加や修正を繰り返してきて、それなのに目の前の導入案件をこなす事に手一杯でドキュメントが整備できてなかったせいで、公開したはいいけど結局弊社(というか僕)でないと使えない状態だった。ドキュメントを書こうと思っても、設定の仕方とかが煩雑ですっきり解説できないものだから、ドキュメント整備もなかなか進んでなかった。
それがこのところ、Mozilla関係の作業が少し落ち着いてて時間を確保しやすかったので、じゃあやるか!と頑張って、ドキュメント整備と設定方法の改善をちまちま進めてた(解説しにくかったのは実装が宜しくなかったからで、実装がすっきりしていれば解説もしやすいわけで、ドキュメントを書く事が契機となって実装が改善されるというのはよくある話なのです)。その締めくくりとして、簡単なチュートリアル込みの使い方解説エントリを会社のブログで公開した。アドオンを同梱して導入するだけのインストーラなら多分そんなに迷わないで作れるんじゃないかなと思う。
このFx Meta Installerは、FirefoxのWindows版インストーラと同じくNSISスクリプトで開発してるんだけど、思い返してみれば、僕のNSISとの付き合いはPortable Firefox(Firefox for Androidではなく、USBメモリで実行ファイルとプロファイルを持ち運ぶアレ)からだった。NSISはインストーラを作るための物なんだけど、使いよう次第ではPortable Firefoxみたいなこと(プロファイルをテンポラリフォルダにコピーして、Firefoxを起動して、Firefoxが終了したらプロファイルをUSBメモリに書き戻す)もできる。ずーっと前にMozilla Japanが秋葉原と渋谷でFirefoxの入ったCD-ROMを配るというプロモーションをやった事があったけど、あの時配ってたCDの「ディスクを入れたらautorunでFirefoxがお試し用に起動する」っていうやつは、実は、Portable Firefoxを改造したか参考にしたかして僕が作ってたのですよね。それがなかったら今のFx Meta Installerはなかったかもしれないと思うと、ちょっと感慨深い。
あと、Fx Meta Installerの設定項目だったり機能だったりを見てると、ああこんな事もあったなあ……と過去の案件の事を色々思い出させられる。Linuxでもビルドできるようにしたのは、普段使ってるUbuntu入りのLet's noteだけ持ってお客さんの所で動作を試して直してビルドしてまた試して……というのをやるためだったし、解説エントリでは触れてないけど、メタインストーラのバイナリに電子署名するための設定を見てると、グローバルサインで証明書を買う手続きをしたなあという事を思い出すし。いまFx Meta Installerに実装されてる機能は、お客さんの要望だったり状況だったりの必要に迫られて追加したものがほとんどなので、ある意味でこいつは僕の仕事(の1つ)の履歴そのものとも言えるのかもしれない。
先日、母校の大学祭に合わせてサークルのプチ同窓会が催された。僕も参加したかったんだけど、スケジュールが埋まってて参加できなかったので、大学祭の様子の詳細なレポートを後で見せてもらった。
大学では最初「SF研究会」という部に仮入部したんだけど、ちょっと方向性が違うなあ……と思っていて、そんな時に「新しくサークルを作ろうとしてる人らがいるらしいよ」という噂を聞きつけて、「ぼ、ぼくも仲間に入れてもらえませんかねデュフッ」と参加させてもらった、それが「コミックアート」だった。メディア学科の1年生が中心となって活動を始めたばかりの小規模な非公認サークルだった。
僕の母校のサークル活動にはいくつかのレベルがあって、大学の運営や学生会とは全く関係なく勝手に集まってわいわいやる「非公認サークル」、学生会に認められた「公認サークル」「同好会」、予算や部室なんかもついた「部」という感じで昇格していくシステムだった。人を集めたり活動したりするにはやっぱり予算や部室があった方がいいので、「部」を目指して活動してたんだけど、昇格するためには「これこれこういう理由で意義のある活動なんですよ」「ちゃんと活動実態もありますよ」みたいなことをアピールする必要があった。だからというわけでもないんだけど、会則を決めたり、絵の描き方・漫画の描き方の自主勉強会(教室を借りるのは無料でできた)をやったり、漫画の参考書を梅田のジュンク堂まで探しに行ったり、僕の高校時代の漫研での活動を参考に大学祭で展示発表をしてみたり会誌を製本してみたり(そういうわけで「会誌編集長」という役職をやらせてもらっていたというのが、僕の携帯電話のメールアドレスに「へんしゅうちょう」って入ってる理由なのです。その頃からずっとアドレスを変えてない。)、そうさく畑に参加してみたり、勧誘のために色々チラシを作ってみたり、空いてる時間に集まってダラダラしゃべったり、安い焼肉屋で忘年会をしたり、とにかく前例がないところで自分たちが最初にルールや運用を決めていかないといけないって事で、色々やってた。僕の大学時代はそんな感じで、講義を受けてるかコミックアートの活動をしてるかMozillaの拡張機能を書いてるかで埋まってた(いわゆる合コンというものにも1度も参加しないままだった……)から、ものすごく思い入れがある。
僕が在籍していた当時は結局非公認サークルのままだったんだけど、その後の世代がちゃんと継続して活動してくれてて、今では数十人のメンバーを抱える大所帯となり、同好会になってさらには部にも昇格したのだそうだ。検索したら、大学の公的なサイトにも「41人」って書いてあって、うわーまじかーって思った。(ちなみに、サークル名で検索するとトップに当時の僕らが作って放置かましてしまった化石サイトが出てきたりして、それは別の意味で「うわーまじかー」って感じだ。)また、参加者の中にはプロの漫画家としてデビューした人も2人いるそうで(そのうち1人は、本屋の店頭でコミックスが今まさに平積みされてるのを見たばっかりの人だったので、余計に驚いた)、まあそういう人は元から漫画描きまくってる人だったりするからそこにコミックアートがどれだけ寄与したのかは何とも言えない(それどころか、ひょっとしたら、SF研究会を抜けた時の僕みたいに「ここにいても駄目だ……」って見切りを付けられる側だったりしたのだろうか……本当のところを知るのが怖い)んだけど、とにかく素人集団で始めたものがこうしてちゃんと10年続いたんだ!と思うと、非常に感慨深い。
これからもずっと続いていってほしいものです。
仏陀再誕の時もチケットを頂いた友人にまたチケットを頂いて、映画神秘の法を見てきた。感想としてちゃんとまとまっていない、思った事をたらたら書いてく感じです。
正直、コメントに困る映画だ……映像とかは今時のそれなりのレベルかなって思う(ただ、フルCGの十二神将?の戦闘シーンはCGっぽさが前面に出すぎていまいちだった……)んだけど、話の方が色々詰め込みすぎてて、気がついたら置いてかれてた感。
原作になってる「神秘の法」が「物語」ではなくて「幸福の科学という宗教における経典」ということだそうなので、その中で語られている要素を映像化してストーリー仕立てにした、ということなんだと思うけど、それをそのままやっちゃあ、それだけですよ……それって先生が黒板に書いた事を忠実にノートに書き写しただけみたいなもの。個々のフレーズが掘り下げられていなくて上滑りしてて、深みを感じられない。
三国志が好きだったり信長の野望が好きだったりして歴史の事が色々頭に入ってる人が、歴史の教科書とか先生の板書とかを見て、行間に自分の知ってるエピソードを思い出してワクワクする、っていうのはある。それと同じように、経典の内容だったり価値観だったり体験談だったりが頭に入っている人が、これを見る事でそれらを喚起されるってことはあるのかもしれない。でもそれって逆の言い方をすれば、歴史を何も知らない人が黒板の板書だけ見たって何も喚起されずにピンと来ないままポケーッと過ごしてしまうってことで、僕みたいに「神秘の法って何?」って人がこれを見ても何も喚起されずに終わってしまうってことで。
例えば「地球は魂の修行の地」とかなんかそういうフレーズが出てきてた気がするんだけれども、それも台詞で語っただけで、実際何がどう修行なの?ってのが描かれてない、そういうのがちょこちょこあるのも「浅い……」って感じた。そうではなくて、例えば、ある一人の人の生涯を追い続けて、人生の苦しみの過程を丹念に描いて、なんでこんなに苦しまなきゃいけないんだっていうのをとことんまで溜め込んで、最後に「これこそが業であり修行なのです」みたいに〆るとか、そのくらいまでやってやっと、それを描いたって事になるんじゃないのかなあ? だから、ちゃんと描けるテーマなんてそりゃあ1つか2つが限度だよなってことなんじゃないかなあ?
例えば僕は「100万回生きたねこ」という絵本が好きなんだけど、人を好きになるとかそういう事がまだ分かってなかった頃に読んですら、何か違和感というか、「これはなんなんだ?」っていう、心に残る物があったような気がする。そのくらいに強く訴えかけてくる何かを、残念だけど僕は見つけられなかった。
……後から聞いた話だと「奇蹟はある」「宇宙人にも友好的な宇宙人と敵対的な宇宙人がいる」「中国ヤバイ」といった要素が原典にはあるそうなんだけれども、だとすると、どれも微妙に伝わらなかった(というか、さらっと流されたからそこがあんまり残らなかった)感がある。やっぱり詰め込みすぎだと思う……
僕自身、悟り体験的な……って言うとなんかオカルトっぽいから、アハ体験とかそういう風に言ってもいいんだけど、それまで別々の分野の知識として頭に入っていた知識群同士が、何かのきっかけでつながって、「ああそういうことだったのか!」と一気に理解が深まるみたいな、そういう体験があるんだけど、その時「悟った」と思った事すべてを一気に全部人に語ろうとすると、すごく表面的な所をさらーっとなでるだけで終わっちゃうんだよね。気付きとか悟りとかっていうのは多分、普通の言語感覚で言葉にすると、すごく陳腐なものになってしまうんだよね。それが黒板の板書。だから、「分かってる人がそれを見ると、伝わる。分かってない人には、伝わらない。」ってことになってしまうんじゃないだろうか。
技術の話の例で言えば、オブジェクト指向の説明で、犬がワンと鳴きネコがニャーと鳴くとかそういう文章が今でもよくあるけれども、あれも、そういう「分かってる人が見ると、なるほどそうですねって伝わる。分かってない人が見ると、何言ってんだって感想にしかならない。」っていう類のものだと思う。パラダイムシフトした後の人同士でしか通じない言葉なんですよね。そういう「パラダイムシフトした後の人同士で通じる言葉」があること自体はべつによくって、分かってる人同士で「うんうん」って頷き合うためのものなんだったら、まあ、目的に合致してるからいいんだけど。問題なのは、それを「パラダイムシフトできてない人に、パラダイムシフトしてもらうための、オブジェクト指向の入門書」での説明の言葉として使ったらあかんやろって話ですよ。
っていう話自体が、「パラダイムシフト前の人に対してどうやってパラダイムシフトしてもらうか」という事で悩んだ経験のある人にしか通じない話なんだろうなーと思うわけですが。
そういえば「クニミツの政」って漫画があったなあと、唐突に思い出した。あれは、政治の事がさっぱり分からない読者向けにエンターテインメントとして噛んで砕いて説明する漫画としては、面白かったなあと思う(最後の方は失速してた気もするけど)。
とかなんとか偉そうに他の人の作った物の事を語ってるけど、他でもない自分自身が、「シス管系女子」でそういう事に気をつけてやっていかないといけないわけですよね。技術が分かってる人が見て「あるある」って感想を抱くだけで終わらせてはいけない、ちゃんと「分かってない人」に「分かってもらえる」ような説明をして、「分からなかった事が分かるようになった」って思ってもらえるような仕事をしないといけない。改めて、身の引き締まる思いをした次第です。
ほんとまとまりがないエントリだ、これ……
もうすぐ日経Linuxの12月号が発売される頃なのですが、今号は「#!シス管系女子」は休載です。楽しみにされていた読者の方、本当にすみません。
本作は昼間の本業が終わってから夜中の時間や土日を使って制作しているのですが、僕の手が遅いためいつもスケジュールに余裕がなくて、風邪+中耳炎で数日ダウンしたために12月号には制作が間に合わなかった……という次第です。
「たった数日のダウンでなんで落ちるんだ?」というのはもっともな疑問なんですが、過去にもこういう不意のトラブルがあって、そのせいで1回完成が後ろにずれ込んだまま、その後遅れを解消できない・安全マージンが消滅した状態がずっと続いてしまっていました。安全マージンが消失した後でそれを回復できないままだったというのが問題なので、安定してマージンをとれるように、制作にかかる時間をもう少し短縮できないものかと悩んでおります……
なお、本来であれば12月号に載るはずだった原稿は、2013年1月号掲載用として手直ししてすでに完成済みなので、そちらはちゃんと載る予定です。
Tabs OutlinerというGoogle Chrome/Chromium用拡張機能がある。説明をよく読むと、Firefoxでツリー型タブを使っていた人が、Google Chromeに乗り換えるにあたって作った物らしい。
以前試した時は、リンクからタブを開いてもツリーが構築されないというのが「えっ」という感じであんまりよく試さないでアンインストールしちゃったんだけど、今日なんとなくまたインストールしてオプションを開いてみたら「Tree Style Tabs」ってチェックボックスがあって、そこに書いてあった説明を見たら「これONにしたら自動でツリーになるようになる」的な感じっぽかったので試してみたら確かにリンクから開いたタブが勝手に子タブになってくれた。
ということで、ツリー型タブにロックインされてしまってるせいでFirefoxからGoogle Chromeに乗り換えられないという人(時々そういう話を目にするのです)にとってこれはマジに救世主になるかもしれないなと思ってもうちょっとだけ試してみてた。タブの切り替えがダブルクリックじゃないとだめだったり、他の拡張機能との連携はさすがにできないっぽかったり、Google Chrome本体のメニューから終了したらツリー構造が保存されなかったりで、僕自身が乗り換える先としては厳しいなあ……とは感じたけど、そういう所が気にならない人なら、普通に使えるんだと思う。
そんな「Tree Style Tabs」モードなんだけど、チェックボックスの下にすごく長い注意書きが付いてた。僕が読み取れた大意としては、「そういう要望がものっそ沢山寄せられるから機能を付けてるけど、自分(作者)はこのモードはお薦めしない。試してみてもいいけど、このモードだけで使うんじゃなくて、このモードをOFFにしたTabs Outliner本来の状態でも是非使ってみて欲しい。」ということが書いてあるようだった。同様のことがTabs Outlinerの配布ページにも書いてあって、作者の人によると、ツリー表示は情報の一覧性が悪くて、フラットなタブのリストの方が可読性が高いぞ、と。ツリー、ずいぶん嫌われたもんですね……
この見解の違いは、タブとタブのツリーという物をその人がどう捉えているのか? という所から生じているのだと思う。
僕にとって、タブのツリーは(生存期間は短いけれども)ある情報を起点にしてあちこちさまよい歩いた足跡そのものであって、どのページからどのタブへ辿り着いたのかが視覚化されているということが非常に重要だ。僕はその関係性を目で追って「分かれ道になったノードはどれだったっけ」と探している(ちなみに、この時見ているのは主にfaviconと情報化タブが提供するサムネイルで、タブのラベル文字列は注視していない)。1階層のグループ化しかできないPanoramaだけでは不十分なのは、「新しいタブを開いて分かれ道になったノードがどれだったか」という情報が欠落してしまうからだ。
そのくらい憶えておけよって言われるだろうけど、僕はほんとに頭が悪いというか物覚えが悪いというかバカなので、「そのくらい」がもう悲しいくらい絶望的なほどに覚えられない。覚えられないから、そのまま視覚化して置いておく。僕にとってタブのツリーは、脳に収まりきらない情報を置いておく外部記憶になっていると言える。メインメモリの中に情報が乗り切らなくて、画面の中にしか置いておけないのだから、多少アクセス速度が遅いとしても、そこに置いてある情報を毎回取りに行く。そういう使い方をしていると思う。
でも、「そのくらい」を覚えるのが苦にならない人にとっては、オーバーヘッドが大きすぎてまどろっこしいのかもしれない。タブ同士の関係はこぼれることなくメインメモリの上に載りきっているから、わざわざ画面の中にまで同じ情報を残しておく必要性が無い。そういうことなんじゃあないだろうか、と思う。
極端なことを言えば、ツリー型タブというのは脳味噌の性能が極めて低い障碍者がフツーの人に後れを取らないように、フツーの人に合わせて作られた社会の中で日常生活を送るために不足分を補うために使う、義肢とか車椅子とかそういう物に相当するのかもしれない。電動車椅子に乗れば確かに誰でもラクに移動できるけど、自分の足で立って歩ける人は、車椅子を降りて歩いた方が自由にもっといろんな所に行ける。また、電動車椅子に慣れきってしまうと、脚がひなびて自力で立てなくなってしまうかもしれない。使わなくても生きていけるなら、使わない方が健康でいられるのかもしれない。ツリー型タブという物については。
ツリー型タブが重いという声をたまに見かけるんだけど、そういうのを見かける度に「ほんとかなあ?」とついつい思ってしまう。
もちろん、素のFirefoxに対して余計な処理を加えるわけだから、そりゃあ、元の状態より重くはなると思う。でも、「重い」って言ってる人の言ってる「重い」は、なんというか、そういうレベルのことを言ってるわけではないって気がする。もっと鈍重な、全体的に動作がヤバイくらい緩慢になる、そういうのを指してる気がしてる。
で、そういう現象が起こるとして、本当にそれがツリー型タブのせいなのかどうか。ツリー型タブを使っている時と使っていない時とで、同じ数のタブを開いていて、同じ時間だけブラウジングした状態で、ツリー型タブがある場合だけ顕著に性能が劣化するのかどうか。というのが、この件で自分が一番気になっているポイントなのです。
何故僕はこうまで頑なに「ツリー型タブが原因で遅くなっているのだ」と素直に認めようとしないのかというと、基本的にツリー型タブはブラウザのコンテンツ領域や履歴にはタッチしないように設計しているつもりなので、「コンテンツ領域に起因するメモリリークがある」とか「履歴を消去したら軽くなった」とかの報告があるという事自体が、どうにも不可解なのです。
実際、about:memoryではタブ毎にメモリの使用状況を確認できますが、「about:memoryを見ると、メモリが解放されていないことが分かる」と言われた再現条件をこちらで試行しても問題が再現せず、その後報告者の環境でもツリー型タブだけをインストールした状況では問題が再現しなくて、どうやら他のアドオンがこの問題の原因になっているのではないかという話になったこともありました。
ツリー型タブがあるとタブを開く数が増える&1つ1つのタブの生存期間が長くなる傾向があると思うので、他のアドオンやFirefox自身が潜在的に抱えてはいるものの普段の利用では無視できる程度だったという問題があったとしたら、それらがより顕在化しやすい状態になるとは思います。例えばあるアドオンを入れていると全体の動作が0.1秒遅くなるとして、5つくらいタブを開いている状況ではそれが気にならなかった。でも、ツリー型タブを入れてタブを50とか開きっぱなしにしていると、些細な重さでもそのまま×50されるから、シャレにならない重さになる。こういう事は十分にあり得ます。でもツリー型タブ単体でそういう事が起こるとはどうしても自分には考えにくいのです。
「コンテンツ領域への参照を残しているせいでメモリリークが発生する」というのは自分もアドオン開発初期にはよくやらかしていたミスなので、かなり後の方になって開発したツリー型タブの頃にはそこらへんのことは想定に入れられるようになっていて、多少速度を犠牲にしてでも安全になるように、だいぶ気をつけて設計したという認識があります。「そこまでやらんでもええんちゃうん」って所まで偏執的にやってることすらあります。Firefox本体のコードでもaddEventListenerした物をremoveEventListenerせずに放りっぱなし(多分ガーベジコレクション任せ?)になってるのとか見ると、怖いなーって思ってしまうくらいです。
その一方で、僕は「これこれこのアドオンと衝突してるんだけど」という報告を受ける度にそのアドオンのソースを見るという事がこれまで結構あったのですが、ソース見てげんなりすることが割とありました。これメモリリークするやろ、とか。で、そういう問題を解決しようと思ったら、根本的なアーキテクチャの変更が必要だったりして。そういうとこまで見だすときりが無いし、大体それは僕の領分でもないので、ツリー型タブとの衝突の原因になってるとこだけ見てあとは見て見ぬふりしてるんですけども。
そういう惨状を見てるから、僕の心情としてはついつい、まず最初に他の原因の方を疑ってしまいます。それらの可能性がなくてちゃんと明らかに「ツリー型タブが原因だ」と断言できる、という所にまで絞り込まれてないと(はい。ほんとにツリー型タブが原因で問題が起こってる可能性も、もちろんあるとは思ってます。そこまで完全否定はできないです。)、調べようという気になかなかなれないです。これって、思い上がりすぎですかね?
あと、それとは全然別の話として、ツリー構造が何らかの理由で壊れてしまうせいで、無限ループが発生してフリーズしてしまう……という事は時々起こるみたいなので、そういうのはもう完全にツリー型タブの責任なので今後も粛々と直していきたいとは思ってます。
いずれの場合にしても、メンテナンスに十分に時間を割けない現状では「ツリー型タブのせいで問題が起こってる、かもしれない」という段階では動けなくて、「間違いなくツリー型タブのせいで問題が起こってて、この手順で100%再現できる」という所まで絞り込んでもらってることが、こっちで対処できるためには絶対に欠かせない条件という感じです。できれば「この部分が問題になっている」という所まで明らかにしてもらえてると嬉しいし、もっと言えば修正パッチをpull requestでもらえるのがベストなんですが。
それから、何と言おうとツリー型タブを入れてFirefoxの動作がおかしくなり、ツリー型タブを削除したことでこれらが解決されたことは事実なのです。
という風な話はもう何度あったか覚えてられないくらいにあって、GitHubのIssue Trackerを探してもゴロゴロでてくるんだけど、詳しく聞いてみると大概は他のアドオンとの衝突です(全部がそうだというわけではないですが、感覚的には、そうである場合の方が多かったという印象です)。こういうのも、じゃあどのアドオンと衝突してるのかという所まで明らかにさえしてもらえれば、何か手の打ちようが出てきくる可能性がありますので、より快適な生活を望む場合には、衝突の解消に協力してもらえたらなーって思います。
告知が遅くなったのですが、日経Linuxの10月号が発売されています。Amazonでも買えます。
こちらの雑誌で「シス管系女子」というコマンドライン豆知識漫画を連載していたのですが、実は前回で終わってしまいました。なんと、今号には「シス管系女子」は載っていません。
というのは釣りで、代わりに「#!シス管系女子」第1話が載っています。タイトルがちょっとだけ変わって、新シリーズです。なので、話数カウントもまた第1話からです。これって一応新連載なんでしょうか?
で、どこら辺が違うのかというと、新しいタイトルでぴんと来る人もいるかも知れませんが、シェルスクリプトを主軸に置いた内容にしていく予定です。コマンドライン豆知識漫画から、シェルスクリプト入門+コマンドライン豆知識漫画にクラスチェンジです。みんとちゃんがどんどん濃い方向に突っ走っていく様を、どうか生暖かい目で見守って下さい。
ところで、前号からシェルスクリプト関係の連載がいくつか始まって、そのビッグウェーブに乗り遅れてなんでシス管系女子だけ1ヶ月遅れでシェルスクリプトなのかっていうアレなんですが、前号の作業を終えた後でリニューアルを打診されて「じゃあ手を出しやすい所でシェルスクリプトでも扱いますかねえ」とポヤーンと考えていたら届いた見本誌がシェルスクリプト一色で「ちょwwwwwwwwwきwwwwwいwwwwwてwwwwwなwwwwwいwwwww」ってなったんですけど、今更別のシリーズ(構想だけなら一応、Sambaでドメイン構築編とかアイデアがあるにはあったのです)にするのも厳しかったのでそのままシェルスクリプト編にしちゃいました。いやあ、みんな考える事は同じなんですね……
あと、「シス管系女子」第1話から第12話までのまとめ冊子が付いてさらに第13話も掲載の9月号なんですが、今見たらAmazonでは売り切れてました。マーケットプレイスでなら中古を買えるみたいなんですが、通常なら定価より値下がりする所、この号だけ高くなっちゃってました。バックナンバーのページから辿れるBP書店だと定価みたいなので、買おうと思ってたけど買いそびれたという方はこちらからトライしてみるといいかもしれません。
とりあえず見とくか……的な。「エイリアン」好きだったし。
「エイリアン」で見覚えのある形をしたものがちょいちょい出てきてニヤリとさせられたんだけど、総じて「なんかよくわかんない映画だった……」って印象でした。「エイリアン」の前日譚っていう触れ込みだったから、アクションなりホラーなりの分かりやすい特徴に期待しちゃったんだけど、そういう分かりやすい(ユーザーフレンドリーな)映画では残念ながらなかった。
敵を2種類出すのは詰め込みすぎだったんじゃないかなあ。「俺は先に帰らせてもらうぜ!」ポジションな2人の扱いも適当っていうか投げやりっていうか……なんかわちゃわちゃ起こってた中の1つの出来事でしかなくって、あんまりオイシイ使われ方ではなかった気がするし。パンフレットを後で見たら「人類の起源に迫る」みたいな所が前面に押し出されてたけど、本編中ではそれすらもなんかわちゃわちゃ語られてた中の1つだった印象を受けました。そういう壮大なテーマよりはむしろ、デヴィッドとホロウェイ博士、社長さんとその子のやり取りから、子が親を超えるとか子が親を殺すとかそういう所の方が話の根底にある物なのかなーという気がしました。
Mozilla勉強会@東京 7thでの発表資料やサンプル実装を公開しました。
発表時は準備不足のため時間の配分に失敗し、満足な説明を行えませんでした。すみません。発表時に喋ろうと思っていた内容のメモも併せて公開していますので、そちらもご覧頂ければと思います。
家事とか料理とか普通にしてますよって言ったら「意外だ」って言われた、という事が過去にあった。
「料理してる」という言葉の響きがなんか大仰だけど、実際僕の方がやってる事って、スパゲッティを茹でるか、ご飯の上に鰹節載せてレタスと水菜を刻んで載せてアボカドとネギトロ載せてマヨネーズと醤油かけて「アボカドネギトロ丼や-!!」って言い張って出すか、Cook Doするか、そんな感じですよ。特に料理が趣味というわけでも無い人間が、朝出勤して夜帰ってきた後に残った気力でできる事なんて、たかが知れてますよ。
なんとなくだけど、自分以外の人がいると、カップラーメン出して「晩ご飯これで」とか、スーパーで見切り品の弁当買ってきて「はい」とか、そういうのは、何か、こう……ちょっと、ないよね、って思っちゃって。結果的に取れる栄養の内容は大差なくても、スパゲッティ茹でて出来合いのソースかけて出す方を選んでしまう。
そこにどれだけの意味があるんだろう。見栄なんだろうか。薄いプラスチックのペコペコの容器で出す、っていう事に一番抵抗があるのかも。家でまでそういう器で食事を取るって、なんか、みじめな思いをさせてしまう気がして。そういうのが動機のかなりの部分を占めている気はする。栄養バランスをちゃんと考えていたら、こんなもんじゃ全然駄目なんだろうし。体裁だけ整えようとしてるんじゃんって言われたら、返す言葉も無いですね。
という風な事を、中村うさぎ×伏見憲明 トークライブの記事の私にしてもパートナーがいるとか、一緒に暮らしてる人がいるってことは、ちょっと重荷なのよ。だけど、その重荷がずっしりと重くて、背負って歩けないというほどではなく、ちょうどいい重しみたいな感じ。
あたりの件を読んで自分を省みて思ったのでした。