たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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会社に私物を持ち込むことがもうすでに幼児性の顕われだ、とする見解を見ていて思ったこと。
時代や地域によっては、奥さんや子供の写真を常に持ち歩いていることは大人として奨励されることだとか何とか聞いたことがある。自分の養う家族のことを大事にできないような人間はpublicな責任を果たせない、みたいな論調だったような気がする。
一方で、ふーみんさんのおっしゃる理屈も分からなくもない。仕事の場に必要でないものを持ち込むのは仕事に対する真剣が欠けているというのは、理屈としては通っているから。
僕は、それを見て他の人が仕事に支障をきたすことがなく、且つ、それを見て自分が精神的に癒されるなどして仕事の能率が上がるのであれば、私物を職場に持ち込むのも、ある意味では「必要悪」かなと思うんだけど。
無限の可能性があると感じられること、無限の可能性がその目に見えるということ、他の人が狭苦しい世界に自らを押し込めて生きているように感じられることが、その人の持つ能力なのだと思う。
無限の可能性があると感じられないこと、目に見えないこと、自分が狭苦しい世界に自らを押し込めていることに気がつかないことが、能力の致命的な欠如なのだと思う。
「ソフトウェア開発」は「モノ作り」ではないにあった表題の例えが「ほほーそういうものなんだなー」とすっと頭に入ってきた。
自分はべつにシステム開発の現場にいるワケじゃないですけどね。むしろ一方的に利用する側で。オーダーメイドでものを作ることの大変さは多少は分かるつもりだけど。
content:encodedの内容について、seemoreによる「続きを読む」記法を反映させ、且つ、カテゴリとコメントの数を加えてみた。よそのRSSフィードを見てパクったんだけど。
「続きを読む」については、不評なら元に戻そうかとも思ってる。
晴れてたからずいぶん久しぶりにシーツを洗濯した。昨日は普通の洗濯物で物干し竿が一杯だったので。
寝具関係は一度に洗えても一度には干せないから面倒だ。
昨日は、MG F91欲しさに気が狂って作業が滞りそうだったので、一部のガンダムおもちゃを荷解きしてガンダム分を補給した。あぁ、癒されるなあ。展開したのはMG Ζ2.0、GFF ガンダムVer.ka、GFF クロスボーンガンダム(X1)、そしてGFF F91。飾っておくにはGFFくらいのサイズがちょうどいいけど、GFFのF91はスケールがすごい中途半端なので他のと並べられないのが悲しい。スケールの統一は大事です。
ガンダムF91の背中に付いてるアレを「ヴェスパー」と表記する人がいるけれど、アレは「ヴェスバー」ですよ。「PAPIPUPEPO」の「PA」じゃなくて「BABIBUBEBO」の「BA」。
ワーキングプア関係の話でお金がないということというエントリを見ていて、思ったこと。
ワーキングプアとは、職に就いて一生懸命働いてはいても年収が生活保護の水準以下であるような人のこと、またはその状態だ。
ワーキングプアでなくなるためにはより良い仕事に転職すればいい、資格を取るなり何なりすればいいじゃないか、そう簡単に言ってしまう人もいる。でも話はそう簡単じゃない。ワーキングプアとは、もっといい仕事に転職しようにも特殊な技能は持っていない、技能を手に入れるための勉強・資格取得のための勉強をする時間的・経済的余裕がない、などの理由で現状をどう頑張っても打破できないという、行き詰まりの状態でもあるからだ。
「頭が悪い」「要領が悪い」というのも、これとよく似た状態であるように思う。お金がないとそうであるのと同様に、頭が悪いとそれだけで、選択肢が狭まってしまうから。自由がないから。
好きなことを仕事にすると辛くなる、と言う人がいる。
好きなことだからこそ向上心を持てるし仕事にすれば身が入る、と言う人もいる。
「好きなこと」には2種類あるのだと思う。と言うよりも、あらゆる「好きなこと」は二つの性質を兼ね備えているものなのだと思う。すなわち、「それをすることでドキドキや高揚感を得られる」という性質と、「それをすることが息をすることのように自分にとって不可欠である」という性質だ。その割合がどのようになっているかで、人は、その「好きなこと」を仕事にするべきかどうかが変わるのではないかと思う。
「それをすることでドキドキや高揚感を得られる」性質が強い人は、それを仕事にするときっと幸せになれるのだと思う。上手くやれば評価されて楽しいし、口出しされてもそれは自分を改善するための材料になって、「より上手くなる」ことに、ひいてはより多くの高揚感を得られることに繋がるから、どう転んだって得になる。
でも「それをすることが息をすることのように自然で不可欠」な性質が強い人は、それを仕事にしてしまうと不幸になるのではないかと思う。