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の動向はもえじら組ブログで。
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僕ら非モテは、女性とコミュニケーションを取る機会が非常に少ない。男だらけの職場であるとか、その趣味のオフ会に行って喪男しか集まらないとか。にもかかわらず、いっちょ前に恋愛への渇望だけはある。そのため、女性と接する機会がない現状に強い不満を感じ、飢餓状態にある。心のスポンジがカラッカラの乾燥状態にある。
だから何の偶然か女性と接する機会を得ると、その女性を求める感情が「単なる飢餓感からのもの」なのかそれとも「社会的にそうあるべきとされている恋愛感情」なのかを吟味する間もなく、その女性に飛びついてしまう。心のスポンジの奥底までその女性のことを染み渡らせていいのかどうかを考える余地もなく、毛細管現象で心のスポンジの奥底まで自動的にその女性のことが染み渡っていく。
つまり一言で言えば、非モテは惚れっぽい。
そして非モテの中には、自身がそういう性質を持っているということをはっきりと自覚している、言うなれば過剰自己分析型の人が少なからずいる。僕自身もそういう人間だと思う。
そういう人間は、ある女性に対してときめいた時に「これは、恋……? いや違う、単に飢えてるから誰にでも反応してるだけなんだ、その人個人のことを想ってドキドキしてるわけじゃないんだ。これは、その人のことを好きだからドキドキしてるんじゃないんだ。」と自分で自分の感情を分析して、「そんな下らない感情で他人に迷惑をかけてはいけない」と自分にブレーキをかける。その結果として、誰に対しても一定のライン以上好きになることはなく、誰か女性個人を好きになることができず、にもかかわらず渇きと飢えはなくなることはない。そうして、「あの人を彼女にしたい」ではなく「誰でもいいから彼女が欲しい」という考えだけが継続して存在し続けることになる。
この事に対して、「本当に好きかどうか」なんかを気にする事に意味があるのか?と、シロクマ氏は問うている。そこでここでは、「本当に好きかどうか」を気にすることの無意味さを検証してみようと想う。
非モテ(の中のある種の人達)の特徴(優しい男は損ですかより抜粋)→それってアスペルガー症候群?
まあ即アスペルガー症候群だと言い切ってしまうのは短絡的すぎるしこれは冗談なのだと思うけれども、社会生活を送ることが著しく困難なレベルとまでは言えないけれども軽度のそれであることが疑われる、とか、その傾向がある、とかいうことは言える場合もあるんだろうな。と思う。
これを「全くのデタラメでありこじつけだ」と断言してしまうというのは、「そんなの努力が足らんだけだ」「根性が足りんのだ」と竹刀持ってケツをひっぱたいて無理矢理走らせるような人がしてることと同じことのようにも思う。
でも「それでいいんだ」と言ってて世界が回るのかな?という疑問もある。ビジネスの現場ではやっぱり非モテは求められてなくてモテの人の方が必要とされているようだということは、つまり、非モテは社会不適合者。非モテなんか世界にイラネーヨ、ということなのだろうし。
大抵のことには価値を見出すことは多分可能で、非モテにも価値を見出すことはできるのかも知れない。でもそうして自分達で見出した価値に社会が価値を認めない限りは結局、価値が無いことに変わりない。
みやきち氏の沸点の低さもどうかと思うけれども、こしあん氏の無邪気さもどうかと思って、この事例を教材にして自分の言動には気をつけたいものだなと思った次第です。
とかなんとかこうして書いてしまう僕の「無邪気さ」もそーとーなものだと思いますね。
「打落水狗」、「水に落ちた犬を打て」とは、魯迅が言った言葉らしい。馬鹿な犬は、溺れていたところを助けて貰ったとしても恩なんて感じやしないし、それどころか、常にこちらの隙を窺っていやがる。岸まで辿り着いて水から揚がって元気を取り戻したら、またこちらに牙を剥いて襲いかかってくる。だから水の中にいてこっちに反撃できないうちに徹底的に叩いて沈めて溺れさせて殺してしまえ。……という意味の言葉なのだそうだ。この「犬」とは頑固で無知蒙昧な人を、「水に落ちた」とはその人の愚かさ故に引き起こされた事態にその人自身が嵌り自滅した様子を、言っている。中国に古くからある「水に落ちた犬はそれ以上打つな」という諺を魯迅が皮肉って反転させたものなのだそうだ。魯迅は中国国内の当時の反動保守勢力を犬に見立ててそう言ったらしい。
OK、理屈は分かった。素直に頷けるところもある。でもいくつか疑問がある。まず一つは、その「犬」が反省したり感謝したりする奴なのか、それとも恩知らずで噛み付いてくる奴なのか、どうやって判別すればいいのかということ。それからもう一つ、その「犬」を叩いてる自分が同じ「犬」ではないと言いきれるのか、水に落ちた「犬」を叩く権利が自分にあるのか無いのかはどうやって知るんだ、ということ。
そういう事を、彼氏がShareで違法なファイル共有に手を染めていたせいで、とばっちりで目を付けられて自分のプライバシーまで丸裸にされてしまった女性の話を見ていて、思うわけです。彼女は本当に叩かれるべき「犬」だったのか? 彼女を叩いた人間は本当にそうする権利(人権を侵害する権利)を持っていたのか? と。
これは物事をよく分かってない文系人間の戯言ですよ。
評論はエンドユーザのためのもの、フィードバックは製作者のためのもの、という視点は重要だなと思った。評論やフィードバックを、それぞれ、エンドユーザや製作者にプラスの効果をもたらすものという意味の物に限定するならだけど。
エンドユーザに向けて発信された「ダメダメだね」といった評論を、作者自身が見て解釈してそこから改善のためのアイデアを見出すことはもちろんあっていい。けれども、それは評論を「作者自身がフィードバックしている」のであって、決して、「評論家がフィードバックした」訳では無い。だからこのような場合も含めて評論家が「フィードバックしてやってるんだからありがたく思え、感謝されこそすれ罵られる謂れは無い」などと言うのは、勘違いもいいところなんだな。
それはそうとして、フィードバックは製作者の言葉でされなければあまり役に立たないという事もまた、問題をややこしくしていると思う。エンドユーザはエンドユーザの言葉で、「使いにくいので直してください」といった意見を直接作者に向けてフィードバックすることがある。しかし「どこがどのように、どれだけ使いにくいのか。どうあるべきなのか。」といった具体的で有用な情報でない限り、それらの「フィードバック」はノイズにしかならない。善意で送ってくれたんだろうけど、却って困ってしまうこともある。
まったく誰からもフィードバックを貰えないのと、価値あるフィードバックが可能な有能な人に見向きもされなくてあまり意味の無いフィードバックしか貰えないのと、どっちもどっちという気がするよ。
返信用葉書や封筒などの自分や自社の名前に「様」「御中」と書くべきか、「行」「宛」と書くべきか。
古来からの一般常識的なマナーとしては、返信用の自分の名前には「行」「宛」などと書いておいて、相手方がそれを打ち消して「様」「御中」に書き換える、ということになっている。自分の名前に「様」を付けておくと、受け取った相手が「なんだこいつ、自分に対して『様』なんて付けやがって。お前は何様だ?」と不快に感じるから、へりくだってそうするのだという。
しかし最近では、相手が「どうせこっちで消して『様』とか『御中』とか書き直さなきゃいけないのに、なんでわざわざ『行』とか書いてくるんだ。余計な手間をかけさせやがって。お前は何様だ?」と不快に感じるから、手間を減らすために自分の名前や自社名に「様」「御中」をあらかじめ付けておくのがマナーである、とする説もあるそうで。
どっちを選んでも相手がムカつくんじゃあ、一体僕らはどうすればいいんですかね。一番無難なのは、「行」とも「様」とも付けずに送ることだろうか。
誰を見ても、真っ先に思うのは「その人のどこが自分にとって気に入らないか」という点だという邪悪な考え方の持ち主で、しかしそのような考え方が社会的に許されざるものだということは知っていて、それ故に「自分はこう考えるべきである、そのようには考えないべきである」という風に理性で自分の考えを常に矯正しつづけていて、しかし疲れやストレスや酒などでタガが外れると途端に抑えが効かなくなってしまう、そして後から「ああ、またやってしまった、また他人を傷つけてしまった」「また自分の評価を落とすような事をしてしまった」と後悔し、「もうしないようにしよう」と反省する、という事を繰り返す人の「性格」とは、邪悪なもののことを言うのか、それとも、理性的なもののことを言うのか。
偽らざるそれこそが「性格」なのか、偽られた後のものも「性格」なのか、偽ろうとする性質そのものこそが「性格」なのか。
おそらく正解は、「邪悪な本質と、偽られた表層、それから、表層を偽ろうとする性質」それら全てをひっくるめた物が「性格」なのだろう。いずれか一つを選択することは、他の要素が彼の「性格」には含まれていないのであると結論づけて自分を納得させるための、切断処理に他ならない。好きな人・身近な人をより好きに・身近に感じるための、あるいは、嫌いな人・思考の蚊帳の外に置いておきたい人をより嫌いになり、彼は自分と全く別種の理解不可能な存在、エイリアンであると感じるための。
種明かしをすると、 s/恋人/携帯/ でございます。人生初のリアル彼女ができたのが去年の夏、と知ってる人なら、途中で分かったかもですが。
初代はプリケーだったんですよ。話す相手もメールする相手もいなかったから、それが一番安上がりだったのです。
それがJ-PHONEの頃で、やがてちゃんとした契約で使い始めたのもJ-PHONEの頃の事。ボーダフォンになった後もその機械をずっと使ってたんだけど、バスの中に落っことして不慮のおわかれとなってしまいまして(後で帰ってきたけど)。慌てて代わりの機種をポイントで買った次第なのです。
今となってはボーダ孫のサービス内容に未練はないけど、しかしV602T[nudio]は形状とくーまんが案外気に入ってしまってて、乗り換えようという気がなかなか……ねぇ。
コンテンツへのフィードバックを受け付けるようにするということは、うまく回ってくれれば、コンテンツを作成して公開する側の負担を軽減することに繋がる、と思う。
フィードバックを受け付けられないコンテンツでは、間違いを間違いのまま放置していると、被害が広がる一方だ。でもフィードバックをリアルタイムで反映できるWikiやblogであれば、そういった被害の拡散をある程度食い止めることが出来る。コンテンツ作者は、自分一人でコンテンツのクオリティを高く保たなくてはならない、という強迫観念から開放されることができる。協力的な読者がいれば。
そういう仕組みを備えてなお、誰にも訂正されないまま嘘を垂れ流してしまうことになるというのは、フィードバックを集められない僕の人望の無さと、知名度の低さに、問題があるんだろう。