Nov 27, 2006

「本当に好きかどうか」を問うて自縄自縛に陥ることの無意味さを検証してみる

  1. 「誰か恋人が欲しい」とか言ってる人間ってホントに人と付き合う気があるの?という話
  2. 自分が惚れっぽいと自覚しているから「誰か恋人が」という風にならざるを得ないのだ、という言及

僕ら非モテは、女性とコミュニケーションを取る機会が非常に少ない。男だらけの職場であるとか、その趣味のオフ会に行って喪男しか集まらないとか。にもかかわらず、いっちょ前に恋愛への渇望だけはある。そのため、女性と接する機会がない現状に強い不満を感じ、飢餓状態にある。心のスポンジがカラッカラの乾燥状態にある。

だから何の偶然か女性と接する機会を得ると、その女性を求める感情が「単なる飢餓感からのもの」なのかそれとも「社会的にそうあるべきとされている恋愛感情」なのかを吟味する間もなく、その女性に飛びついてしまう。心のスポンジの奥底までその女性のことを染み渡らせていいのかどうかを考える余地もなく、毛細管現象で心のスポンジの奥底まで自動的にその女性のことが染み渡っていく。

つまり一言で言えば、非モテは惚れっぽい。

そして非モテの中には、自身がそういう性質を持っているということをはっきりと自覚している、言うなれば過剰自己分析型の人が少なからずいる。僕自身もそういう人間だと思う。

そういう人間は、ある女性に対してときめいた時に「これは、恋……? いや違う、単に飢えてるから誰にでも反応してるだけなんだ、その人個人のことを想ってドキドキしてるわけじゃないんだ。これは、その人のことを好きだからドキドキしてるんじゃないんだ。」と自分で自分の感情を分析して、「そんな下らない感情で他人に迷惑をかけてはいけない」と自分にブレーキをかける。その結果として、誰に対しても一定のライン以上好きになることはなく、誰か女性個人を好きになることができず、にもかかわらず渇きと飢えはなくなることはない。そうして、「あの人を彼女にしたい」ではなく「誰でもいいから彼女が欲しい」という考えだけが継続して存在し続けることになる。

この事に対して、「本当に好きかどうか」なんかを気にする事に意味があるのか?と、シロクマ氏は問うている。そこでここでは、「本当に好きかどうか」を気にすることの無意味さを検証してみようと想う。

「本当に好き」とはどういうことかを定義する

ところで、ここまで「その人のことを本当に好きになる」という表現を無自覚に使ってきているが、この表現の意味するところを明確にしておきたい。

ここで言う「その人」とは、他人とは代替不可能なその人個人の特有の性質、本質という事になる。その人の本質、仮に高性能なアンドロイドができたとしてその電子頭脳に「それ」を移し替えれば「その人が機械の体に生まれ変わった」と表現することが許されるようなもの、とでも言おうか。それは、様々な体験とその積み重ねによって構築されてきた人格、という、目に見えない・手で触れることのできないものである。それについて心惹かれるということを、「その人のことを本当に好きになる」と表現する、と仮定しよう。

いくつか例を挙げて考えたい。

  • その人が美人であることに心惹かれた
  • その人が巨乳であることに心惹かれた
  • その人が声が綺麗であることに心惹かれた
  • その人が一人娘でないことに心惹かれた(一人娘と結婚した場合、将来相手の両親の面倒をまず間違いなく見ることになるだろうから)
  • その人が長い髪をなびかせ、スカートをはいていることに心惹かれた
  • その人が自分の好みの音楽のバンド活動をしていることに心惹かれた
  • その人が素敵な漫画を描いていることに心惹かれた
  • その人が女性で、子供を産めることに心惹かれた
  • その人が心優しいことに心惹かれた

これらは全て、前述の「本質」とは無関係な付属物、「属性」と言える。

  • その人がブサイクになったら、別れるのか?
  • その人が貧乳になったら、別れるのか?
  • その人の咽が潰れて声が汚くなったら、別れるのか?
  • その人が一人娘になってしまったら、別れるのか?
  • その人がベリーショートにしてカーゴパンツしかはかなくなったら、別れるのか?
  • その人が音楽活動を止めてしまったら、別れるのか?
  • その人の漫画の才能が枯渇したら、別れるのか?
  • その人が子宮ガンになって、子供を産めなくなったら、別れるのか?
  • その人がイライラしてヒステリックになっていたら、別れるのか?

前述のような「属性」ではない、その人の「本質」に惚れているのなら、これらの問いには明確に「NO」と答えられるだろう。しかしここで「NO」と言える自信がないのが、「本質」を見ないで「属性」だけに惚れてしまうのが、僕のような人間なのである。

「本当に好き」じゃないのに付き合いたがることの問題を考える

そんな薄っぺらな「好き」で相手に対して行動することを僕らは無意識に忌避するけれども、シロクマ氏は、相手の女の子にとって重要なのは、あなたのそういった逡巡以外の何かですと言う。では本当に、「薄っぺらな感情に基づいて行動すること」が「相手の女の子にとって大した問題でない」のかどうか、を考えてみたい。

  • 例えば、そんな薄っぺらな感情に基づいて、ファーストキスであるとか処女であるとかの「初めて」を奪ってしまった場合。その女性が「初めて」にあまりこだわりを持たないタイプの人であればさして問題ないだろうけれども、「初めて」に強くこだわるタイプの人なのであれば、その人の心に禍根を残すことになるだろう。
  • 例えば、そんな薄っぺらな感情に基づいて、相手の貴重な時間を奪ってしまった場合。女性は高齢になると安全な出産が難しくなるので、出産までを視野に入れている場合、ある程度若い間にパートナーを決める必要がある。ところが、「そんな薄っぺらな感情に基づいてアプローチされた男」と付き合ってしまい、何年か付き合った後で「やっぱり本質的なところでは好きじゃなかったみたい」とフラれてしまったら、その女性は、一度きりの人生において貴重な「安全に出産できる期間」をドブに捨ててしまったも同然ということになるだろう。
  • 例えば、そんな薄っぺらな感情に基づいて、相手の金を奪ってしまった場合。ヒモ状態になってその女性の資産を食い潰した後で「やっぱり本質的なところでは好きじゃなかったみたい」とフッた場合、その女性に残るのは借金の山だけということになるだろう。

……という風に、「薄っぺらな感情に基づいて行動すること」が問題となりうるケースはいくらでも想定することができる。

だが、それぞれについての反論も可能だ。

  • 今時、ファーストキスも処女も大事にしてる人なんてそうそういない。非モテな僕らが惚れた相手がそれらを大事にしてる人である確率は、限りなくゼロに近いだろう。
  • 安全に出産できる年齢ギリギリともなれば、人格的にもある程度「大人」になっていることが予想できる。そんな「大人」でありながら、相手の男が僕ら非モテのような薄っぺらい人間であると見抜けなかったのであれば、それはその「大人」な女性の責任である。慎重な女性であれば、そもそもそういう薄っぺらい人間には引っかからないし、言い換えれば、僕ら非モテはそういう慎重な女性とはつきあえない可能性が高い。
  • 同上。借金することができる「大人」でありながら、相手の男の本質を見抜けなかったのであれば以下略。慎重な女性であれば以下略。

つまり現実的に、「本当に好きじゃないのにつきあってしまって、それで深刻な問題になりうるケース」になる可能性は、とても小さいものだと考えることができる。

無論、シロクマ氏が先の発言で問題にしたかったことはこういう事でないことは分かっている。「相手の女性」にしてみれば、「上記のような事態に陥るリスクの低さ」よりも、「自分をお姫様のように大切に扱ってくれる」だとか「最後まで責任を取ってくれる」だとかそういった「より高品質なサービスを受けられる可能性の高さ、期待値の高さ」の方が重要なのだ、ということを、氏は言いたかったのだと思う。この項ではあくまで、非モテ本人が思うほど惚れっぽい非モテと付き合うことのリスクは高くない――と言うよりも、マトモな女性は惚れっぽい非モテなんかにホイホイとは引っかからないのだから、それが問題になりうるケースは無視できるほど少数であるに違いない、という事を言ってみたかっただけである。

そもそも僕ら非モテがそう簡単に誰かを「本当に好き」になれるのか?を考える

「本当に好き」になったわけではないのだから、この「恋心」はニセモノである。そう考えて自分の気持ちにブレーキをかけるのだということは、分かった。それでは、「属性」に簡単に惚れてしまうような薄っぺらい人間が、ブレーキをかけなくても良い「本当に好き」という感情を、そう簡単に感じることができるのか?

こんな薄っぺらい人間が、そう簡単に「相手の本質を好きになる」ことができるのか? 多分、それは愚問なのだと想う。こんな薄っぺらい人間に対して、本質をわざわざさらけ出すような女性はそうそういないだろう。また、もしそんな女性がいたとしても、「属性」単位でしか相手を認識できない薄っぺらい人間が、いきなり目の前に突きつけられた「本質」をそう簡単に理解できるはずがない。

薄っぺらい人間の前で女性が本質をさらけ出してくれて、そしてその本質を我々薄っぺらい人間が理解できる、という、極めて稀な事象が二つも同時に重なって起こりうるというのは、おそらく、現実に起こるものと期待するにはあまりに可能性が低い事だと思う。

となると、現実において我々薄っぺらい非モテが自分の飢えと渇きを満たすために取れる手段はただ一つ。相手の「属性」に目を付けて惚れた後、それを足がかりにして相手とのコミュニケーションのチャンネルを確保し、長期に渡ってコミュニケーションを取り続けて、「本質」を見せてもらえるようになるまでの信用を勝ち取り、見せてもらった「本質」を時間をかけて理解し受け入れ「好きになる」、という、段階を踏んで「相手の本質を好きになる」戦術であろう。

この戦術を採るのに気が咎めるのなら、こう考えてみてはどうだろうか。「相手の本質」とは、相手の心の奥底に隠された中心部分だけを言うのではなく、性格、容姿、趣味嗜好、様々な「属性」全ても含めて、全体をひっくるめたものを言うのだ、と。

もちろん、些細な好き嫌い――目玉焼きにソースをかけるか醤油をかけるか塩をかけるか何もかけないか、といったような一つの事柄がその人の本質の全てであるとは思わない。しかし、「それは本質と全く関係がない」とも言いきれないだろう。銀河を形作る数多の星々は、一つ一つの星を取り去ったところで銀河全体の姿に大きな影響は与えない。でも、それを以て「その星は銀河の一部ではない」と言うのは間違いだろう。その小さな星一つも、銀河の一部であることは間違いないのだ。

結論(追記)

最初から「本当に好き」になれる、だなんて事を期待してはいけない。僕ら薄っぺらい非モテは、どう頑張っても「本当ではない好き」にしかなれない可能性が高い。はっきり言えば、「本当に好きかどうか」なんて悩んでいる時点で、その「好き」は「本当」などではない。ここは潔く、自分が浅薄な人間であると認めるべき。

ただ、それでも、「本当ではない好き」から始めて徐々に「本当に好き」に「なっていく」ことができる可能性は否定できない。その可能性に賭けて、自分が浅薄な人間であることを潔く認めた上で、そこから関係を築きあげていく努力をする事を考えるべきであろう。無駄な期待をして自分で自分を足止めするくらいなら、諦めて期待なんかしないようにして、身軽になって前に進む方が、「幸せな状況」という目標に近付いていけるのではないだろうか。

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