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の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
フライトシミュレータ用でVF-25やVF-27などを使えるようにしている人がいるそうで。
あくまでフライトシミュレータ内の物なので、ゲーム的な操作ではなく、他の普通の戦闘機と同じように操作する必要があるようだ。作者の人のブログで実際に使えるデータが公開されていて、Readmeを読んでみると謎が解ける。現用戦闘機でも推力の方向を変えられるノズルがあって(ベクタードノズル)、普通の戦闘機ではこれを真後ろから斜め下や斜め上に向けて急な方向転換を行えるそうなんだけど、このVFのデータでは推力変更用の操作系でノズルを前方向(普通の戦闘機ではあり得ない方向!)に向けたら勝手に脚が出るようにしてるそうだ。普通の戦闘機(爆撃機?)では機体内に積んでいる爆弾を投下する時にハッチを開く操作があって、VFでそれをやれば腕が出るということらしい。この2つを同時に行えば、ガウォーク形態になるわけだ。あと、バトロイド形態への変形は、フラップ(低速飛行時や離陸時に揚力を稼ぐために翼の面積を大きくする仕組み)を出し入れする操作が割り当てられているそうで。
以上の割り当てを見て、なかなか上手く考えたもんだなあと思った。実機がもしあったとしてもやはり同じような感じになるんだろうか? 推力の向きを変えたらオートで脚が出るとか。MSでもそうだと思うけど、人間と同じような、あるいは人間以上の動きができる物を、指先と足のペダルだけで操作するには限界があるだろうから、そんな感じで「こういう結果が望まれている→じゃあ、こういう動作をしよう」という風な感じの自動操作が無いとやっていけないよなあ。
FirefoxでAmazonの商品ページを見た時に違法ダウンロードのリンクを自動挿入するという、倫理的に宜しくないアドオンの話のコメントでタブブラウザ拡張の話が引き合いに出されていたので久しぶりに読み返してみた。
ああ、懐かしいなあ。こんな時もあったなあ。
この時はTBEが叩かれてTabMixが祭り上げられてたけど、今となってはTabMixPlusがこの時のTBEと同じような叩かれ方をしてる(TMPがアップデートされるまでFirefox 2から3に移行できない、とか、ロックインのような状態も発生してる)というのは、性格の悪い僕としては「ざまみろプギャー」と思わずにはいられません。
あの頃と状況が変わった点と言えば、当時はリリース版よりナイトリービルドの方を使うようなマニアな人の方が多かったから毎日のようにTBEが本体の変更の影響を受けてマトモに動かなくなって大問題になってたけど、今ではリリース版を使う人の方が多くてその手の「昨日は動いたのに今日はもう駄目になってる」という事態が発生することが減ったことと、あと、わりかしザル気味とはいえAMOのチェック機構のおかげで、入れた瞬間に必ずクラッシュするようなひどいアドオンにぶち当たることが少なくなったこと、あたりがあるでしょうか。他にも、Mozilla自体の作りがだいぶマシになって余計な危険なことをしなくてもよくなったとか、MDC等でドキュメントが充実してきて平均的な技術レベルが向上したとか、そういうのもあるのかも。
僕個人についても、自動テストを導入し始めたとか、他のアドオンとなるべく衝突しなくてすむようなやり方を色々考えるようになったとか、色々変わったとは思う。
しかしこういう(悪意有るアドオン云々の)話題だったらむしろ、以前にプレゼンしたCドライブを強制的にフォーマットするようなヤバイ拡張機能の話の方が適してるような気もするんだけど。でもこの時のはプレゼン資料しか公開してないんだよなあ。これだけ見ても意味分からんか。
Ctrl-Tabとタブカタログを比較して良し悪しを語るのはいいんだけど、2年近く先行して開発された(一覧の表示方法を現行の形式に変更した時で比較しても、約1年先行)物をとっつかまえて、後から出た物の劣化品
呼ばわりは、さすがに無いと思うんだ。「時代遅れ」なら許せる。
あと、タブカタログが劣化品と言うなら、Ctrl-Tabのサムネイルの上で右クリックした時にタブの上と同じコンテキストメニューくらい出して欲しいです。
色々思う所はあるんだけれども、根本的な問題として、自分がこの人の立場だったらどう感じるか?という所で感情移入ができなかったため、多分この人の言いたいことの根っこの所は自分には理解できないんだろうなあと思った。
仮に、すでに何人もの男と付き合ったことがあるモテ子さんと付き合って、自分が童貞であると知った瞬間にそのモテ子さんに「え?ホント? ホントに童貞なの?? マジで??? うっそー。私、童貞に当たったの初めてだ。どうしよう。やっと大当たり来た。これは嬉しすぎるマジで」と言われたら、どう思うか? と考えてみても、自分の場合「童貞捨てたい欲」「何でもいいから自分の持ってる性質で承認されたい欲」の方が上回って全然気にならないかもしれないなあ、という気がするのです。
まあ「物扱い」ていうんですか、ナツ氏が感じたような感覚が全く無い訳じゃないだろうとは思うんだけど、しかし自分だったら「あ、物扱いなんだ……所詮は物扱いなんだね。うん、でも、しょうがないよね。自分には恋愛市場価値が無いんだから、こんな人でもなきゃ相手してくれないんだよね。こんな僕の童貞をわざわざ奪ってくれるのだから感謝しこそすれ恨むだとかキモがるだなんてのはとんでもないことだよね。」とすら考えるんじゃないかって気もするんですよ。
まあ、理屈では分かるんですけどね。多分こういう事を言ってるんだろうなっていうのは。色々言葉を尽くして説明してくださっているし。でも自分自身の感情とあまりにリンクしなくて、ナツ氏のその時の感情に共感できない。「意見に賛成できない・したくない」という意味でなくて、字義通り「共感」できない。
そこを「共感」できるようにするのが「想像力」だろ、もっと努力しやがれ想像力鍛えやがれ、っていうのがナツ氏をはじめとする世の大多数の非アスペ傾向な人達の言いたいことなんだろうなあ、と思うことは思うのだけれども、残念ながらやっぱり共感できなくて想像力もこれ以上逞しくならないので、彼ら彼女らのためを思えば自ら首くくって死ぬべきなんだろうと思うけれども、その勇気もないので申し訳ないことに彼ら彼女らを不快にさせながら今後も生きていかざるを得ないなあ。
誤解されるとアレだから一応書いておくけど、少なくとも今の自分は、「非処女は肉便器」と言う「処女厨」の考え、には同意しない。
追記。そういえば、彼女が水着に着替えない というエントリに対するナルカミさんの反応にも似たような事を思ってしまった。自分がその立場だったらどう思うか、という事を考えてみても、「『自分を許容してくれた他人を』『果たせなかった過去の夢を叶えてくれる道具としか見ていない』ような人と傷をなめ合う事くらいしか自分には許されないんだよアハハだって自分もそうだもんねえお互い様だよねえ」みたいな感じで。
結局、なんていうか、「自分は物扱いされていいような安い人間じゃない」という自信? 自負? プライド? そういうものを、成長の過程で身につける事のできた「健全」な人でなければ、望ましい恋愛関係を築くことはできず、築こうと試みる事も許されず、分不相応にもそういう事を望んだのならば激しく非難され糾弾されてしかるべき(試みる自由はあるが、その代償として当然非難されねばらならず、非難されたくないのならば試みてはならない)、ということなんですかね、人の世というものは。
関連リンク:
http://anond.hatelabo.jp/20081119002409
非モテが思うほど女って処女に拘りあるわけでもないし。
なんかつまらんことに凄く思いつめてて意味が分からないんだよなー
処女の相手の男なんて正直、「インターネットをつないで初めていったサイト」くらいのモンでしかないよ。
「でも、初めて俺のサイトにきたことは確かなんだろ!?」って管理人に言われても、「まあそうだけど、それがどうしたの?なんでそんなことに息切らしてるの?」みたいなさ……
非常によく分かる例え話に大変カルチャーショックを受けました……
熱く色々書いてみたけど、書いたら書いたで落ち着いてきてまたネガティブな見方が増してきた。
複数の動詞を繋げて……と書いたのはやっぱり僕の考えすぎ・妄想しすぎだったっぽい。がんがんコミットしてそういう方向にこれから持って行く、っていうことは可能かもしれないけど、Aza氏の想定はそういうことじゃなかったって事のような気がしてきた。やっぱりもっと単純な考えだったのか? と。
アイコンより言葉の方が分かりやすいんじゃね?という発想。アイコンをたくさん並べていちいち見比べるよりも、言葉を直接入れちゃえばよくね?という発想。その前提にあるのは「沢山の言葉が頭の中に入っていて、瞬時に適切な物が思い浮かぶ」っていうことだ。「頭の中に入って無い」のも「瞬時に思い浮かばない」のも、Ubiquityを使うためには致命的な問題となる。(だから、前のエントリの最後でもセカンドサーチ的な「動詞の提案」という案を書いたんだけど。)
そう考えると、そういう発想が出てくるのはAza氏が天才だからじゃないのか? 天才が考えたツールは凡人には使えないんじゃないのか? という疑念がムクムクと膨らんできてしまう。
タイトルが釣りっぽくて誤解されそうだけど、僕だって自分のことは凡人と思ってる。前のエントリに書いたような物が実現されたとしても、自分が使える「動詞」は10個にも満たないだろう、下手したら5個とかそのくらいだ。それ以上はとてもじゃないけど憶えられたもんじゃないだろうと思ってる。いざ使おうとしても「あー、あれ何だったっけなあ、えーと、うーんと、もうここまで(ノドのあたりを指しながら)出てきてるんだけどなああああ」とウンウン唸ってるんじゃないかって気がする。
勝手に妄想補完して勝手に舞い上がって、そしてこうして勝手にまた落ち込んでる自分が恥ずかしいなあ。
という風に考えていた所でplus7さんのコメントに気がついて、plus7さんが紹介してくださったForthというのを見てみた。おおお……これってあの日本語プログラミング言語の「Mind」の元になった物だったのか。こんな物があったとは知らなかった。そうか、「逆ポーランド記法」って、こうして見てみると確かに日本語の文法に似てるんだなあ。
上述した「根本的な問題」=天才にしか使えないのかもしれない、という点はさておいて、現状のUbiquityが英語的・関数言語的な語順を前提にしているのに対し、日本語に対応するのは逆ポーランド記法的な解釈にも対応するっていう事になるのか、と考えると、プログラムの作り事態に関わる話になってきそうで興味深いと思った。
そういえば、英語式語順は自然な思考の順番に反する(英語ネイティブの人間でも、身振り手振りで説明させると順番が「主語」「目的語」「述語(動詞)」になる)という話もあったなあ。これも何か関係してるような気がしてきた。
入力が英語だったから日本語圏の人間からはそれこそvimperator等と見分けがつかないけど、英語ネイティブの人にとっては、自分が話す言葉でFirefoxに指示を出せるようにする画期的な仕組み、なのだと思う。
と書いたけど、Firefox Hacks:ブラウザの新境地? Ubiquityが変える衝撃のブラウザ体験 (1/2) - ITmedia エンタープライズとか完全にギーク向けと評されているのとかを見るにつけ、その思想の伝わっていなさに改めて悲しくなった。いや、僕自身も、昨日本人が喋ってデモしてる所を生で見るまで、全く同じ誤解をしてたんだけども。
確かに、英語で使ってる所を見たら、そう誤解してしまっても仕方がない。でも、操作の様子を注意深く見て欲しい。「email jono」じゃなくて「email this to jono」であることに気がついて欲しい。昔のお粗末なハリウッド映画でありがちな、何故か「コマンド」じゃなく「自然言語」で入力する、今となってはお笑い種のシーン、あれを現実のものにしようとしてるってことに。
昨日のデモの受け売りだけれども、Ubiquityはそれ自体で「万能」は目指していない。また、全てのユーザが自分でコマンドを定義して使うという風なあり方も、想定していない。Firefoxとアドオンの関係のように、必要に応じてさまざまな「動詞」を憶えさせて使うというシステム。それでいて、アドオンに比べてはるかに作るのが簡単だから、「開発者」の数も段違いに増えて、その結果として、エンドユーザが受ける恩恵もずっと大きくなる。これがUbiquityのしようとしている事だと、僕は受け取った。
Googleのトップページに行けば「ググる」という「動詞」をインストールできて、Tumblrのトップページに行けば「たんぶる」という「動詞」をインストールできて、はてな匿名ダイアリーのトップページに行けば「マスダる」という「動詞」をインストールできて、ニコニコ動画のトップページに行けば「ニコる」という「動詞」をインストールできる。そして、「ミクをニコってたんぶる」と入力すれば、ニコニコ動画で初音ミクの動画を検索した結果を自動的にTumblrに投稿できるようになる。「別れたいをググってマスダる」と入力すれば、「彼氏が○○だった。別れたい・・・」のテンプレを見つけてきて増田にエントリを書けるようになる。そういう、動詞の連結による可能性の追及が、Ubiquityのしようとしている事だと、僕は受け取った。(←妄想補完しすぎ?)
という所まで理解できるとなおのこと、このUbiquityという試みが日本語圏で満足に利用できるようになる日の遠さがよく分かってしまうのも、辛い所なんだよなあ……
まず障壁になるのが日本語という言語の特性。分かち書きじゃないテキストを形態素解析しなきゃいけないし、異常に多い同音異義語や語尾の変化にも対応しなきゃいけない。
入力方式も問題だ。前のエントリにも書いたけど、IM経由で入力するっていうだけで操作は全然インクリメンタルじゃなくなってしまう。
文化の違いもある。日本では、自分で入力して何かをするよりも、メニューからぽちぽち選ぶというスタイルの方が主流だ。そのスタイルに慣れた人にとっては、何か入力しなくてはならないということ自体が「面倒」ということになる。(ああ……そういう意味では、そもそも、Firefoxのアドオンもそういわれているのと同様に、自分で何かを組み合わせて使うという発想自体がギーク志向すぎるのか……)
それに、上の文章を書いてて思ったけど、日本語には、サービス名が動詞になるっていう例が少ない気がする。「ググる」はその珍しい「成功例」だ。「ヤフオク」も「ミクシィ」も、「名詞」としてまでは認知されるんだけど、そこから先、「ヤフオクる」とか「ミクる」とかいう風な「動詞」にまではなってない。そういう点もまた、Ubiquityのコンセプトが日本語圏にマッチしにくい所なのかなあ。
とりあえず近々また話せる機会がありそう?なので、その時にはXUL/Migemoだけでなく、セカンドサーチの「目的語を入力したら動詞を自動で提案する」という方向についても意見を聞いてみたい。
改めて考えてみると、何事に対しても「程々」を求めている気がする。「過剰」は苦手らしい。
でも、全くケレン味がないのはそれはそれでいやみたいだ。
よく「ファッションのために音楽を聞いてる」っていう言い方ってあるじゃないですか。「洋楽聴いてる俺カッコイイ!! 邦楽聞いてる一般人カッコ悪い!!!」と自己満足に浸るためだったり、「なに、君たち邦楽なんて聞いてるの? ダサイねえ。洋楽聴いてる俺の方がかっこいいぜ!!!」と自慢げに語るためだったり、そういう理由で洋楽を聴いてるという。洋楽に限らず、マイナージャンルなら何に対しても言えることだけど。
僕はさあ。自分がファッションのために音楽を聴いていたのか、本当にその音楽のことが音楽として好きだったから聴いていたのか、分からないんですよ。
そして、他人のことを「ファッションで音楽聴いてる奴ダセえプギャー」と指差して言ってる人が、その人自身はファッションで音楽聴いてないと自信を持って言えるのか、ということも疑わしく思ってしまう。
仮に、自分もまたファッションで音楽を聴いていると自覚しているのなら、どうして自分に跳ね返ってくる言葉を他人にも平気で投げられるのかも、僕には理解できないです。僕はブーメランが怖いから自分が該当すると気付いた言葉はそうそう他人に投げられない。それとも、自分に跳ね返ってくることを覚悟の上で言っているの? 自分がダメージを受けても相手にダメージを与えるために毎回特攻してるの? それとも、自分はもうダメージを受けても平気な状態だから気にせず特攻できてるの? それなんてゾンビ?
話を戻すけど、自分が音楽を選ぶ時に、それを「本当に好きだから選んだ」のか「ファッションとして選んだ」のか、それってどうやって区別したらいいんだろう。メジャーな音楽を選ぶ時、それはメジャーな価値観に迎合するために買ってるわけじゃないんだ、話題についていくために買ってるわけじゃないんだ、って言いきれる? マイナーな音楽を選ぶ時、それはメジャーに背を向ける俺カコイイと言いたいためじゃないんだ、これを理解できる俺カコイイと言いたいためじゃないんだ、って言いきれる?
音楽だけじゃない。映画でも漫画でも、何にでも。
Perfumeの新曲「Dream Fighter」のPVを見ていて思ったこと。
王道進行の時に思い知らされたけど、自分には音楽の才能とか「正しい」審美眼とかそういう物がない。だから「イイ曲」と感じるのはそれが「客観的にイイ曲だから」ではなくてあくまで「自分にとって主観的にイイ曲と感じられるから」でしかなくて、それはつまり「自分に快楽を与えてくれる音楽だから」でしかなくて、つまり「イイ曲だろうが悪い曲だろうが、快楽を与えてくれさえするなら何だって構わない」わけで、だから僕が「イイ曲」と感じる曲というのはきっと「音楽というものが分からない糞大衆の快楽中枢を刺激するために書かれた、ただの工業製品」に過ぎないのだと思う。
ハリウッド映画もそう。ハリウッドでは、いくつかパラメータを与えてやればそれだけで大衆の快感原則にぴったりはまる脚本のテンプレートが生成されるという風なツールがあるという。最初の30分で主要人物と状況を説明して問題を提起し、真ん中くらいで1回問題を解決して、後半でさらに大きな問題をもう1度提起して、ラスト10分で全部を解決し、最後の5分は観客がスッキリして家に帰れるようにクールダウンさせる。という風な黄金のパターン。
チャイニーズレストランシンドロームというものも昔はあったそうですね。味の素さえ入れときゃいい、ということでビックリするくらいの味の素をぶち込んでたもんだから、中華料理を食べて「旨い旨い」言ってた人達が後で頭痛に悩まされたとか何とか。
料理といえば、ドクタークラレのケミカルクッキングという動画も有名ですね。食品添加物だけで美味なジュースを作ってしまったり、安い肉に何とかいう薬品を塗りたくったり油を注入したりして霜降りステーキ肉を人工的に作ってしまったり、安い米を炊く時に何とかいう薬品を混ぜたら粒が立っててツヤツヤな銀シャリになったり、エリンギに松茸の臭いの元を振りかけて焼いて松茸を作ったり。これらは別に特別な話ではなくて、世に出回ってる安い食べ物はそうして作られている……そしてそれを僕らは「旨い旨い」と言って食べてる。
で、専門家の人らが「名作だ」と言ってるものを見てみたら、主観的には糞つまらんかったりするわけですよ。薄味、素材の味、奇抜な味だったりするわけですよ。全然美味しいと思えない。それでも「専門家がそう言うんだからこれは名作に違いない」と無理矢理思い込もうとして、でも「素直な感性」=「大量にぶち込まれた食品添加物が無いとおいしいと感じられない鈍感な感性」ではやっぱりつまらないとしか思えなくて、「この『名作』をつまらないとしか感じられない自分がダメなんだ」と自分を責めたりする。あるいは、「専門家がどう言ってるかなんか関係ねえ。つまらんもんはつまらん!」と素直に言う人に対して「俺がこんだけ悩んでも理解できない『名作』を、貴様ごときが貶すんじゃねえ!!」と、もはや信者となって盲目的に崇め奉り、それに異を唱える者を攻撃する。
もう、疲れたよ……
そんな感じで「作られた感動」にまんまと乗せられてしまうことしかできないから、僕はもう、客観的に「良い音楽」とか「良い映画」とかいうものを求めることは、諦めたい。アイドルマスターやマクロスFやPerfumeのCDをいくつも買ったのは、それを客観的に名曲だと思ったからではなく、腐った舌で腐った耳で「これを聴いてても特に不快な感じはしなかった」という理由で選んだからだ。
あるいは、そういう「お祭り」だったからなのかもしれない。お祭りなら、何でも許される。露天のショボい売り物が、祭りの場ではとても魅力的に見える。ショボい売り物すらも「祭り」を構成する不可欠な要素であって、それはむしろショボいからこそ良い。
だからもう最近では、レビューというものを書くのすらも億劫になってしまった。「これがすごいイイ!!」「はいはい良かったね。それはお前が、お前や他の多くの人間が共通して持つ脳の回路を刺激するように狙って作られた物に反応してるに過ぎないんだよ。お前がレビューを書こうが書くまいが、それは売れるんだよ。お前が選んだ時点で、それはもう末端の大衆にまで行き届いてるって事なんだよ。お前が今更良し悪しを語る意味なんか無いんだよ。真っ先にその作品を知って良し悪しを語って人の考えを変える、アルファブロガーだのファッションリーダーだのの、真似事をしたいんだったら、無意味にも程があるよ。」
客観的な良し悪しを考えると、辛いことにしかならない。「感性を磨く」でも「自分の一言が業界全部を動かすような大物になる」でもなく、「考えない」。それが一番楽ではある。
音楽の分からない人間が音楽の分かる人間のフリをしちゃいけないし、味の分からない人間が味の分かる人間のフリをしちゃいけないってことです。批評家の才能も無いくせに批評家のフリをしちゃいけないってことです。