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Latest topics 近況報告

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萌えるふぉくす子さんだば子本制作プロジェクトの動向はもえじら組ブログで。

宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能! シス管系女子って何!? - 「シス管系女子」特設サイト

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信念持って - Jan 19, 2007

実は「うるせえよっていうか見当違いのツッコミ入れて浸ってんじゃねえよ、老害は黙ってろ」とかなんとか返されないかと結構gkbrだったりしました。いや一個前のエントリのことなんすけど。

思い返してみるとやっぱり、バリバリ現役のW3C信者やってた頃に比べたら、一つの価値観に基づいて何かを強く糾弾したり筋道立てて説得しにかかったりということが、できなくなってきてるような気がする。ある意味で、信念があったのかもしれない、あの頃は。信念っていうか、義務感とか情熱とか正義感とか。「キャシャーン自分がやらねば誰がやる」みたいな勢いが。いや元からそんなにそういうのに溢れてる方ではなかったと思うけれども。

そういうのが、「若さ」なのかなあ。

それがなくなってきてるってことは、歳食ってきたってことなのかなあ。

電話番もロクにできず、お客さんにお茶の一つも出せないで、スーツなんて着慣れてなさ過ぎてネクタイすら結べない、「彼女」とも全然会えてない、料理のレパートリーは相変わらず野菜炒めと味噌汁と野菜スープとかそんなんから全く増えてないっていうかむしろ減ってすらいる、そんな風にいかにも未熟の塊みたいな経験・スキルのまんまで、ただ情熱だけが消えていくなんて。

せつない。

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鶏ほどの記憶力もないバカ - Jan 18, 2007

Windows エクスプローラのフォルダバーを表示させる理由が全然理解できない

記憶力があまりよろしくないと思われる私であっても、その程度の連想配列を格納する領域ぐらい持っている。 (中略) ううむ……。彼らは何がしたいんだろうか。

それは単に、あなたが自分で思っている程記憶力がよろしくなくない、天才には平民の悩みなんてものは理解できるはずが無いってことだと思いますよ。そういうことを、自分より頭の回転が早い人としばらく一緒にいてよく分かりました。彼らは、聖徳太子みたいにマルチスレッドでものすごくたくさんのタスクを同時にこなしていながら「このくらいできて当り前だろ、なんでできないの?」って本気で言います。

僕は、エクスプローラバー出しっぱ派です。

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げんしけんの斑目を見て、自分が自分の人生を生きていなかったことに気がついた - Jan 10, 2007

全部読んでもいないうちにえらそうなことぶっこいちゃいましたが、改めてちゃんと最後まで読みました。

げんしけん(9)特装版Amazon.co.jp

よもやここを見ていて知らない人はいないと思いますが一応紹介しとくと、某大学の「現代視覚文化研究会」という名前のオタクサークルを舞台にして繰り広げられるオタク男女達の青春物語、みたいな。そんな作品です。

最後まで読んで思ったのは、ああ自分のメンタリティ的に一番近かったポジションは斑目だなあ、ということ。

「あれ、そういえばアイツどこ行った?」「ちょっと私、探してくるね」「Piroくん、こんな所でどうしたの?」「ん……いや、ちょっとね」みたいな展開を妄想して勝手に一人でふらっと場を離れてみたりして、でも実際には別に誰かが探しに来てくれるほど大事な存在とは思われてなくて、っていうかそもそもいなくなった事にも気づかれないような影の薄い存在で、ていうか小さい頃子供会だか何だかで動物園行ったときホントに僕のこと忘れ去られて一人だけ置いてけぼりにされちまったことがあったんですがそんな事はどうでもいいです。とにかく変なところでキャラ作ってかっこつけたがる。そのくせ本当に言いたいことは言えず、寒いと分かっていながら道化を演じる。

そして、オタク趣味やオタク丸出しのキモイ格好は恥ずかしがらないくせに(いや劣等感からくる恥の感覚はずっとあったんだけどさ)、一番本当の本心を明かすことだけはどうしても恥ずかしくてできない。本当の自分、素の自分、正直な自分、偽らない自分を、表に出す勇気がない。表に出したところで実際にはどうせ誰も気にも留めないような「本性」でしかないのに。あるいは、どんな酷い「本性」であれ、晒したところで誰も気にも留めてくれないような薄い存在感しか、または、生活に何の変化も現れ得ないような薄い人付き合いしか、無かったくせに。

一言で言って、演技くさい生き方。自意識過剰の「メタ」視点の塊。

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iPhoneすげー - Jan 10, 2007

とりあえずまとまってるとこでGIGAZINEあたりを参照の上で。

マルチタップディスプレイ、というかマルチタップという機能自体は前からあるのは知ってたけど、そっか、こういう使い方をしてこそ活きる機構だったのね。全面タッチスクリーンという割り切りはタブレットPCとかでも見られるものだけれども、そこにマルチタップを組み合わせることで全然違う世界を切り開いてしまった。いろんな意味でやっぱすげーやアップルは。

OS Xが動いてるそうだけど、好きなアプリケーションを動かすことはできるのかしらん? もしできるんだったら、Safariの代わりにFirefox使えると僕としては色々便利でいいんだけどなあ。

まあなんにしても、日本で使えるようになるのはまだまだ先のことだそーですが……

追記。アプリケーションの追加とかはできないそうですね。残念だ。まあ多分こいつで動くLinuxとか速攻で出てくるんだろうけど、そんなものが動いた所で、iPod miniにRockbox入れたものの使い勝手が悪くて結局全然使わないまんまになってる自分としては、全然魅力感じないし。

あと、方式の違いから日本でそのまま運用するのは絶望的ぽ。オープンソースだけじゃなく携帯端末でもガラパゴス諸島かよ!

スルー力の身に付け方 - Jan 08, 2007

何か最近色んな事をスルーしてばっかりなんですが、べつにスルー力というスキルを身に付けたつもりはなくて、どっちかっていうと、反応する気力が無くなってます。反応だけでなくアウトプットの気力も萎えてるし。初詣の話なんて当日のうちに書けよって感じだし。

いや全然スルーできてないやんって思われるかもですけど、何か最近、物を書く時は心理的に「どっこいしょ」と言いたくなるような感覚がずっとあるんですよね。ほっといたら非モテの話も全部スルーしてそう。それでも反応してるのは、自分が何を思ったかというのをここに書き留めておきたいからなんですが。閑話休題。

最初の話を言い換えると、スルー力の不足は、気力が萎えることで補えるということでもありますね。ってなんだか変な日本語ですが。

逆に言うと、スルー力不足の人は、スルー力というスキルが足りてないだけでなく、やる気が有り余ってて元気でたまんないということでもあると思うんですよ。

スルー力足りてないと反応しまくって時間無くなるし、やる気がなさ過ぎると時間だけあっても何もできないし。困ったもんです。

自ら負け犬になろうとしてしまう根性 - Jan 04, 2007

「○○ができたほうがいい(しておいた方がいい)」、という言い方は、よく目にする。そういう経験を積んでおくのも悪くない、人として大人として深みのある人生になるだろう、生活する上でプラスになるだろう、とかの文脈で。

そういう言い方のフレーズの中で、何故か、それを見た瞬間に僕の脳内で「○○もできない(したことない)奴は人間失格だよねプギャー」「○○したことないのが許されるのは小学生までよねーキャハハキモーイ」と勝手に翻訳されてしまうことがある。相手がそう言ったつもりがなくても、そういう悪意を持って発言したに違いないと瞬間的に思い込んでしまうことがある。

例えば、恋愛。SEX。独り暮らし。客商売。飲食店の店員のアルバイト。自炊。

べつにそれだけでその人の人格全体の優劣が決まるわけではない「はず」なのだけれども、何故だか、そう思うことができない。絶対的な優劣を決定づける重大なファクターであるかのように感じてしまう。そして、少しでもそれに触れるような内容の話題に対して、過敏に反応してしまう。世間的にはただの「+α」でしかないはずの「○○したことがある」という属性を、「must haveなもの」と考えてしまっている。それを持っていない自分を、絶対的に劣った存在と感じてしまう。負け犬にならなくてもいいのに、自ら負け犬になってしまう。

冗談でなくマジでこんな風に考えるのは異常なことであり自意識過剰でありルサンチマンの塊であり子供の全能感を捨てきれないいつまで経ってもガキのままの未熟な人間であることの証なのかと思っていたけれど、聞いてみたところ、友人の何人かも、口には出さないものの同じようなことを感じることはあると言っていた。

もっと潔く生きたいものですね。

ブログやめますぅ!! - Jan 03, 2007

だからブログでも日記でもなく近況報告だと云々!!

「おう是非やめてくれお前の日記なんかもう見たくねえよ糞野郎」と思った方、残念でした。「mixi退会しますバトン」 というのをマイミクのhaseruさんのmixi日記で踏んだのですが僕はmixi日記は書いてないので、こういうタイトルに変えさせて貰いました。元のバトンは強制(コメント残して自分も「mixi退会します」というタイトルで書く)だそうですが、こだわりません。

現在のメールアドレスは?
piro_***@*.vodafone.ne.jp(プライバシー保護のため一部伏せ字)。年賀状の文面作るにあたってそういえばと思って試してみたら、「softbank.ne.jp」では届かなかった……このアドレスいつまで使えるんでしょうね?
現在の着信音は?
いつかのエイプリルフールに配布されてたホリエモンの「メールがくるのは想定内です」「この電話、業務提携しませんか」という着ボイス。ほとんどずっとマナーモードなので滅多に聞きませんが。
待ち受け画面は?
彼女の写真(←キモイ)

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アクセスカウンタ - Jan 02, 2007

今気付いたけど、トップページのアクセスカウンタがいつの間にか吹っ飛んでリセットされてますね。しょぼぼぼーん。そういや前にも吹っ飛んでたよな……

インターネットアーカイブによると昨年5月の時点で1824341アクセスあったようなので、今の数字にその数字をサクッと足しときました。半年間のアクセス数は闇の中。もしかして200万アクセスいってたのかしらん?

しかしRSSフィードを吐くようにして以降(つまりblosxomに移行して以降)ますますここ(日記)だけ見てる人が増えてそうで、トップページしかカウントしないアクセスカウンタなんてまるで役に立たなくなっちゃってる気もする。

せつない。

げんしけんみたいになりたかったオタク - Jan 01, 2007

一つめのリンク先エントリの中盤で「げんしけん」という作品に対するオタクの反応を大きく4種類に分けていて、「3番目」つまり「現実のオタクライフはこんなもんじゃねえよ、とスレた視線でげんしけんを読む層」を「古参オタクに心当たりが多いんじゃないか」と分析されているけれども、僕はこれは、同じ層を指すにあたっては「古参」というよりも「既に青春が終わってしまったオタク」という言葉の方が適切なのではないだろうか、と思ってしまった。穿った見方というか一面的な見方というか素直じゃない読み方だとは我ながら思うんだけど。

青春において恋愛事と縁が無いままに貴重な時間を過ごし、いざ青春時代が終わって振り返ってみれば、そこにあったのはただひたすら内向きに何かを追い求めていた閉鎖的な行為の記憶ばかり。オタク行動には積極的でも、人とのコミュニケーションには過剰なまでに臆病だったがために、自分という枠の外との間に何も築けなかった日々。おかしいな。恋人とのコミュニケーションという外向きのベクトルによる発展的で開放的で瑞々しく鮮やかな日々を、心のどこかでは求めていたはずだったのに。

若いオタク予備軍はいい。まだこれから立て直せる。青春に再チャレンジできる。げんしけんのようになりたいと思うのもいいだろう。なれるかもしれない。青春が終わってしまったオタクはどうだ。げんしけんのようになりたいと思ってももう手遅れじゃないか。なれるはず無いじゃないか。

そういう負の感情を抱きながら、しかし、描かれるきらびやかな青春の風景自体には憧れてしまい、過去の自分をその風景にはめ込んで妄想に浸らずにはおれない、という、作品に対する歪んだ執着。それが、前述の「3番目」の人々の抱く感情の正体だったりはしないだろうか。

僕は、自分がそうでないと言いきれる自信がありません。

……と、2巻までしか読んでなくてネット上でのネタバレでその後の展開をちょっとだけ聞きかじっただけの人間が偉そうな事を書いてみるテスト。

どうでもいいけど、新年いっこめのエントリがこんな内容かよ。

僕が生きてていいのが当たり前だ、と思えなかったこと - Dec 27, 2006

「子供の全能感」という言葉から僕は、赤ん坊の「不快に思う(泣く)だけでその原因(濡れたおむつ、空腹、そのほか)が自動的に取り除かれる、自分は何でもできるスーパーマンだ、自分は何でもしてもらえる王様だ」という風な世界の認識の仕方の事を想起した。

通常、このような認識は、(世の中自分の思い通りになることばかりではないので)成長の過程で破壊あるいは修正され、世間との折り合いを付けながら自己愛を満足させる方法を見出していくようなのだそうだ。けれども、そこで失敗すると、他人と自分を比べる事でしか自分を肯定できない人間や、他人に褒められることでしか自分を肯定できない・他人に褒められるためだけに行動する「いい子」などになるのだとも聞いた。

つまり、上記の成長の過程において思いどおりにならないことがあまりに多すぎた場合や、条件付きの肯定しか得られなかった場合などに、「僕が生きてていいのは当たり前だ」という認識を持つことができず、条件付きの「生きていてもいい」しか認識できなくなってしまうのではないだろうか。

しかし自分の人生を振り返ってみても、自分が親からそういう扱いを受けていたという自覚はどうやら無い。何か別の理由があるのだろうか。

僕が生きてていいのは当たり前だ、と少しでも思えるようになったのは、彼女に存在を肯定されてからのような気がする。あったらいいなと思っていて、でもそんなことあり得ないよなと諦めていたことが、真っ向から否定されて、考えが変わったような気がする。

親からの愛に慣れきってしまって、親に肯定されているという実感が持てなくなってしまっていたのだろうか。過度に親にべったりで、近くにいすぎて、親が自分を無条件で肯定してくれることのありがたみを認識できなくなっていたのだろうか。少し遠い所から肯定されてやっと、それを認識できるようになったのだろうか。

そんなことを生きてていいのはあたりまえ。を見ていて思った。

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