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の動向はもえじら組ブログで。
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アクセスログを見るとこのサイトへのアクセスの中で一番多い検索キーワードが「処女」なんですけど、それってどうなん?
「もし人生やり直せるならどうしたい?」と問われて深く考えずに「スポーツとか音楽とかやってる人になりたいかも」と答えたんだけれども、なぜそう答えたのかその時はよく分からなかった。そっちの方がモテそうだからか? とも思ったけど、スポーツや音楽やっててモテない人もいるしなあ。
とかなんとかモヤモヤしてた時に、B'z(松本孝弘)のギタープレイの完コピに挑戦してる人の映像(ニコ動)とフェルナンド宮田という人のギタープレイの映像(ニコ動)を見て、なぜそう答えたのかの理由が分かった。
スポーツも音楽も、ライブが一番映えるものだからだ。
プログラムも絵も、時間をかければかけるほど作品の質を高められる。ハッキリ言えば、天才じゃなくてもただのボンクラでも、時間さえあればいいものが作れる。無限アンドゥでどこまでも工程を戻せるし、バックアップだって取っておける。やる気が尽きたらやる気が戻るまで作業を中断することもできる。だから素人目には、ただのボンクラが時間をかけて作ったものと、天才がサクッと作ったものとの、見分けは付かない。同人作家が11時間で描く絵(ニコ動)も、もっと短い時間で、あるいはもっと長い時間をかけて、同じようなクオリティのものを作ることができて、それらを素人の目で区別することは極めて困難だ。
でもライブは違う。ライブパフォーマンスは一瞬の煌めきだ。やり直しも作り込みもきかないから、その時その場で出せる実力が、その時その場でできるパフォーマンスの質のすべてを決定づける。そしてその良し悪しは素人目にもはっきりと分かる。
綺麗な絵を作るのに絵の実力は必ずしも必要ないけれども、華麗なギターソロを演奏するにはギタープレイの実力がなければどうにもならない。
じゃあDTMはその考え方だと駄目ってことにならないか? という風にツッコまれるかもしれないけど、確かに、僕は心のどこかでDTMをライブよりも一段下に見ているかもしれない。
あと、よくよく考えてみれば、世の中には、ライブで絵を描くことで高い評価を得る人もいるんだよね。ボブとか。こないだのMozilla 24でも、生でプログラムを書くライブコーディングというイベントをやってたし。
つまるところ僕がスポーツや音楽をやってる人になりたいと思ったというのは、自分にライブで素晴らしい絵や素晴らしいプログラムを作る実力がないこと、それだけの修練を積むことを忌避してきたという事実から目を背けて、自分が今まで手を出したことのない分野だから自分にも可能性があるに違いないと安直にも思い込んで、「俺だって一度やる気を出しさえすりゃあそんな事造作もないことなんだぜ」とくだを巻き、実際にはその「やる気を出しさえすりゃあ」ができなかったからこそ今この地位に甘んじているんだということに気付こうともしない、そんなドリーマーなボンクラの世迷い言にすぎなかったと。
ジュブナイルポルノ名作紹介という記事を何かの偶然で見かけて、なんの気無しに見てみたら、その中でPure Innocenceが紹介されていた。うわー、懐かしい!!! 高校か大学の時に読んだ記憶があるよ……
今読み返してみると、何故だか主人公のビジュアルイメージに謎の彼女Xの卜部さんが思い浮かんでしまった。いや卜部さんはこんなことしませんがね。序盤の、外から見て何考えてんだか全然わかんない、でも本人的には筋の通る思考プロセスを経た結果の行動が、相手の男を激しく動揺させる、という展開がそれを想起させたんだろうか。
iPod miniの新モデルの話を書く時に、半分無意識で、半分は意識して、物凄く気を遣った点がある。
それは、なるべく価値判断をしないように……ということだ。「良い」「悪い」という価値判断を可能な限り避けて、なるべく「好き」「嫌い」という僕個人の主観に帰結させるように、という。
人によっては、新nanoがたまらなく魅力的に思えるかもしれない。もしくは、これからnanoを知る人は、大きめの画面で動画を見やすいことこそがnanoのアイデンティティを形成する重要なポイントだと思うかもしれない。だからこそ価値がある、だからこそ「良い」、と考えるかもしれない。「彼ら」にとっては僕の好きな第2世代nanoが「ニーズを満たせない低機能の旧世代の遺物」としか思えず、だからこそ価値が無く、「悪い」、と思うかもしれない。
それどころか、もしかしたらそういう合理的な理由なんて無いかもしれない。ただ単に今まで慣れていた物と「違う」から、今まで好きだった物と「違う」から、自分自身の脳内に新しい物に対して快感であるとか親近感だとかを憶えるための回路がまだ形成されていないから、「駄目」と思っているのかもしれない。
イマムラさんのサンリオのショーに対する感想を見ても、そういうことを思ってしまった。
「良い」「悪い」と断じるためには、客観的にそう言えるだけの根拠がないといけない、と僕は思っている。その根拠を理解できない・示せないうちは、prototype.jsとjQueryのどっちが「良い」とか「悪い」とか言っていい資格は僕にはなく、ただ「慣れてるかどうか」「自分のスタイルに合ってるかどうか」「好きかどうか」のレベルでしか語ることは許されない、と思う。まぁ、客観的・合理的な観点で精査した結果として「結局好みの問題だね」とか「結局流儀の問題だね」というところに落ち着いてしまえば、やっぱり「良い」」「悪い」を超越した事しか言えなくなるのかもしれないけど。
好きだったモデルが製造中止になったとか、好きだったイベントが終了して別の物に取って代わられたとか、そういうのって、一種の「死」なんじゃないだろうかと思う。絶版品や終了したイベントに対して僕らが感じる口惜しさ、残念さと、大切な人・一緒に長い時間を過ごした人を失った時に感じる気持ちとは、もしかしたら似ていたりしないだろうか、と思う。死んだ人に義理立てして今を見ようとしない、とか、マンガやらドラマやらでよくある話。そう思うのは僕自身が人間的な暖かみのある感情を持ち合わせていないからかもしれないけど。
iPodの新モデルが発表されましたね。
iPod classic(かつての無印iPodに相当するモデル)はともかく、第3世代のiPod nanoは……好みじゃないなあ。モデルチェンジの話を聞いて、「ギリギリのタイミングで第2世代nanoを買った俺涙目」とか思ったけど、実際出てきたものを見てみたら「ギリギリで第2世代を買っといてよかった」と思った。なんかずんぐりむっくりしててぱっとしない気がする。個人的に、外で動画を見るという習慣が無いから、動画向けにパワーアップしたといわれてもあんまりピンとこないというのもあるけど。
iPod miniも第2世代iPod nanoも、あとプレゼンの時にたまに見かけるMac用のリモコン?も、「スティック」っぽい感じと「中身の詰まった機器」っぽい感じの中間のような微妙なラインが好きだった。サイドの角は面取りされてるのに上下はスパッと切れてる、というギャップも好きだ。
いや、負け惜しみではないですよ? 電池の持ちがよくなったとか羨ましくなんかないんですよ?(←羨ましい)
拡張機能勉強会のあとの3次会の場で愚痴ってたことなんだけど。そして多分前にも書いた気がするんだけど。
僕は、トロフィーが欲しいとずっと思っている。勲章でもいいし楯でもいい。優勝旗でもいい。なんでもいいから、「いちばん」の証が欲しい。「いちばん」になりたい。そう思っている。
でも実際そのために必要なことをしたのかというと、全然してない。そもそも、僕は今まで、コンテストと名のつくような事に自分の作った物を出品した経験がほとんど無い。そりゃ、いちばんになるならない以前の問題だ。
出品すればいちばんになれるはずだ、出品しないのはただ出品の手続きやなんやらがめんどくさいからだ……そんな「俺はやればできるんだぜ」的な幼稚な妄想にとりつかれているのかというと、さすがにそれはないと思いたい。いや、「それはないと思いたい」と思っているフリをしているだけなんだろう。心の奥底では「でも本当は、もっと評価されて当然だ」と思い上がった考えを抱き続けているんだ。
だからこそこういう事実から僕はすっかり目を背けて生きてきていた。今になって思い出した。「出品してもいちばんにはなれない」ことは何度か証明されてるんだ。小学校か中学校の頃、近所のオモチャ屋さんでやってたプラモコンテストは、全身金メッキのシャイニングガンダムを貰ったけど、「いちばん」ではなかった。高校の時に美術の授業で描いた絵は、なんとかいう賞を貰ったけど、「いちばん」ではなかった。大学でMohoで作ったアニメーションは、なんとかいうスポンサーの賞を貰ったけど、それも「いちばん」ではなかった。(ちなみに、いずれも「にばん」でも「さんばん」でもない。)いろんなレベルの人が無差別級で集まる場では、本当の実力が試される場では、僕は「いちばん」にはなれなかった。
でも、なんでそんなに「いちばん」にこだわるんだ?
Firefoxのオートコンプリートでブックマークの内容を表示するコンポーネントの実装を見て、僕が一日に書けるコードはちょうどこのくらいです
と書いてあるのを見て軽く目眩がした。こんなに書けねぇー。やっぱり僕はどこまでいっても所詮は日曜大工プログラマに過ぎないんだなあ、本職の人には敵わんのだなあ、ということを痛感した。
でも今度から新しく開発案件に関わる予定なんだよね……「就職」してから3年目にして、ひょっとしたらこれが初めてか。「使えねえ新人」よりタチの悪い「使えねえ老害」になりそうで怖い。……いや、その心配はないな。なぜなら、僕より後に入ってきた人がいないから(ぉぃ)
完売だぜやったぜ次は再録本だぜー と書いたそばから、同人誌のエロ表現を理由に大御所逮捕というニュースを見て、うわーこれもしかしてうちとかも捕まる? と全力で足踏みしている僕がいる。
でも「消しが薄かったのと成人向けのマークが入ってなかったのが理由」という話も書かれていて、もしそうなんだとしたらそこまで心配する必要ないのかな? とも思ったりしている。
どうなるんだろうなぁ本当に……
コーラに付いてるシールの裏の番号を特設サイトのフォームに入力するとiTunes Music Storeのタダ券が当たるというアレで3回ほど当たってるんだけど、欲しい曲がiTunes Music Storeに無いので使い道に困っている。
アイマスとかアニソンとかもっと充実しててくれればいいのに……
追記。さらに3回当たった……
ケータイ小説の話を見てて思った事。
ハッピーエンドかアンハッピーエンドか。自分の人生がハッピーかアンハッピーか。よく、現実に満たされてない人ほどハッピーエンドの物語を好み、現実が満たされまくってて退屈で退屈でしょうがない人ほどアンハッピーエンドの物語を求める、という風な事を言うけれども、現実に対する代償として物語を消費する場合には、その説はよく当てはまる気がする。僕が今なんとかしてハッピーなお話を描こうと四苦八苦しているのも、何かを表現するためという事以前に、自分自身のための代償としての側面が強いと思う。
陰鬱なケータイ小説を好んで読む人達は、どうなんだろう。何を求めてそうしてるんだろう。