Sep 08, 2007

不可逆的な変化に対する感じ方と、死

iPod miniの新モデルの話を書く時に、半分無意識で、半分は意識して、物凄く気を遣った点がある。

それは、なるべく価値判断をしないように……ということだ。「良い」「悪い」という価値判断を可能な限り避けて、なるべく「好き」「嫌い」という僕個人の主観に帰結させるように、という。

人によっては、新nanoがたまらなく魅力的に思えるかもしれない。もしくは、これからnanoを知る人は、大きめの画面で動画を見やすいことこそがnanoのアイデンティティを形成する重要なポイントだと思うかもしれない。だからこそ価値がある、だからこそ「良い」、と考えるかもしれない。「彼ら」にとっては僕の好きな第2世代nanoが「ニーズを満たせない低機能の旧世代の遺物」としか思えず、だからこそ価値が無く、「悪い」、と思うかもしれない。

それどころか、もしかしたらそういう合理的な理由なんて無いかもしれない。ただ単に今まで慣れていた物と「違う」から、今まで好きだった物と「違う」から、自分自身の脳内に新しい物に対して快感であるとか親近感だとかを憶えるための回路がまだ形成されていないから、「駄目」と思っているのかもしれない。

イマムラさんのサンリオのショーに対する感想を見ても、そういうことを思ってしまった。

「良い」「悪い」と断じるためには、客観的にそう言えるだけの根拠がないといけない、と僕は思っている。その根拠を理解できない・示せないうちは、prototype.jsとjQueryのどっちが「良い」とか「悪い」とか言っていい資格は僕にはなく、ただ「慣れてるかどうか」「自分のスタイルに合ってるかどうか」「好きかどうか」のレベルでしか語ることは許されない、と思う。まぁ、客観的・合理的な観点で精査した結果として「結局好みの問題だね」とか「結局流儀の問題だね」というところに落ち着いてしまえば、やっぱり「良い」」「悪い」を超越した事しか言えなくなるのかもしれないけど。

好きだったモデルが製造中止になったとか、好きだったイベントが終了して別の物に取って代わられたとか、そういうのって、一種の「死」なんじゃないだろうかと思う。絶版品や終了したイベントに対して僕らが感じる口惜しさ、残念さと、大切な人・一緒に長い時間を過ごした人を失った時に感じる気持ちとは、もしかしたら似ていたりしないだろうか、と思う。死んだ人に義理立てして今を見ようとしない、とか、マンガやらドラマやらでよくある話。そう思うのは僕自身が人間的な暖かみのある感情を持ち合わせていないからかもしれないけど。

エントリを編集します。

wikieditish message: Ready to edit this entry.











拡張機能