たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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その人の言った言葉を僕なりに解釈したところでは、世の中の主流は「場の空気や相手の感情を読めるエスパー」であり、且つ「相手も場の空気やこちらの感情を読めるという事を期待する・それを前提にする人」である、と。だから、その主流に刃向かわずに迎合していきたいのであれば、彼らの期待に応えられなければならない、すなわち、「場の空気や感情を読めなきゃ駄目」である、と。
ある意味で素直に「ほうほうそういう物なのか」と思って、ある意味ではトレーニングのつもりで(そしてそのトレーニングにその人がつきあってくれるようだったので)、敢えてその人と付き合い続ける(交際ではなくて友達としてという話ね)ことにしていた。正直、どうも苦手だなあとは思っていたけれども、それを克服しないことには今後の人生で恋愛も結婚もできる可能性は無くお先真っ暗になってしまうんじゃないかという不安はあったので、自分なりにできる限りのことはしたつもりだった。
しかしやっぱりどうしても合わなかったようで、先に相手の方が限界に達したらしく、関係を切られる形になった。僕(ら)はエスパーにはなれなくて、相手が期待するようには僕(ら)はやはり空気とか感情とかを読むことができなくて、期待されているようには振る舞えなくて、あまりに話が通じなくて、他にもいくつかのことが重なって、相手はイライラして飯も咽を通らなくなり、「もうこれ以上傷付きたくない」ということで縁切りすることになった。
ほんでまあ改めて思ったんだけど、僕が自然に生きてたり自分なりの配慮のつもりでしてることがどうしてもストレスにしか感じられないという人が世の中の主流であるなら、その種の人達とプライベートでまでつきあう必要はないんだなー、と。もし世の中の女性がみんなそういうタイプの人なんであれば、無理して恋人探しとかしてもきっと何も報われない・いいことないだろうなー、と。普通に生活するだけだったら、その人に対してそこまでストレスフルであった僕の自然体でも、別に問題なく生活できていたのだし。
折しも、元彼女と別れた後「あれ、自分って案外、彼女というものがいなくても一人でも生きていけるかもしんない」と自覚してきた(正確には多分、世間に対して抱いていた強い負い目・コンプレックスが「一度でも彼女がいた」という事実により解消されたということなんだろう)ところだったし。
という感じで気分的にはちょっと楽になった気がした。
壱茉さんが久しぶりにFirefoxを使おうとして不便な思いをしていたらしい。
アドオン作者は自分のアドオンの担当領域をキッチリわきまえて、なるべく最小の物を作るようにして、他のアドオンとの互換性の確保に気をつけて欲しい、という風なことを僕は前から言ってるつもりで、それはある意味では、作者の人に過大なストレスから我が身を守って欲しいという提言のつもりでもあるんだけれども、ユーザの視点からは「導入までがめんどくさくなる」という話でもある。ユーザの導入時の負担を増やしてもイイからお前らは自分の身を守れ!というわけで、まあ、こういう事言ってりゃきっとエンドユーザからは嫌われるんだろうなあとも思う。
そのジレンマをある程度の所まで解消してくれるのが、僕が「コレクション」に期待していた機能であるところの、複数のアドオンをWebページ上から一発でインストールできる仕組みだと僕は思ってる。現状の「コレクション」でも単一のページから連続して複数のアドオンをインストールできるけれども、できればもっと簡単にして欲しかった。「全部インストールする」ボタンをクリックしたらそのコレクションに登録されてるアドオン全部が一緒くたになったメタパッケージがダウンロードされる、もしくはWebページのスクリプトによってそれらがまとめてインストールされる、という感じになっていて欲しかった。
これが実現されないことには、僕ら有志のアドオン作者はいつまで経っても、「あの機能も付けてくれ! この機能も!!」という要望に対していちいち「それはコンセプトと関係ない機能だから入れないよ」と断りの回答をするストレスから解放されない。また、そのストレスに耐えかねて・圧力に屈してホイホイ実装してしまえば、今度はそれが自分の首を絞める地獄へと繋がる。
Mozilla Japanのアドオンライブラリではそれを独自にやろうとしてるということだけど、早いとこ実現して欲しいものだなあ。最初にそういう声が出てきてから、もう何年経つんだろう……
本文中で繰り返し何度も当然のことが大学院生にもなって気づかない
とかすげえ考えが幼い
とか書いてあるのを見て、何とも言えない嫌な気分になった。
物を知らないってのは恐ろしいね
とだけ書かれていたとしたら、そこまで嫌な気持ちにはならなかったと思うのだけれども。
僕自身が否定されてるわけじゃないし、そもそも僕は大学院も出てないただの学士だし。それでもなんだか見過ごせない話だった。自分なりに改めて考えてみると、「○○年生きてきてそんなことも知らないのか。お前の人生はすべて無価値だ。今すぐ死ね。」という風な言い方に対して僕は目を奪われたんじゃないかと思う。
前に別の人から僕に対してそういうことを言われたような気もする。何十年生きてきてお前には全く人の心という物が分かっていない、と。人の心が分かることこそが何より大事なことである、それが分からないように育ってしまったお前のこれまでの人生には全く価値がない、今から人生をゼロからやり直せ、今からだって十分間に合う、とにかくお前は今まで信じていた宗教を全部捨てて新しい価値観を受け入れろ、そして新しい宗教のもとで新生児としてやり直せ、そんな風に言われたような気が僕はした。
そういえば「新生」「今日から君は生まれ変わる」は洗脳とかマインドコントロールとかでよくあるやり方らしい。「お前の人生は無価値だ」という言い方と、新興宗教やら何やらのマインドコントロールとは、根っこの所がひょっとしたら同じなのだろうか。
掲示板で書いた事を改めてここにもまとめてみる。
この2つの要望にはどちらも応えるつもりはない、というよりも、安直に応えてはいけない種類の要望だと思ってる。
あらかじめ言っておくと、過去の「タブブラウザ拡張」ではこのどちらも応えていた。いや、要望に応えたと言うよりは多分、自分から進んでそうしてしまっていた。でも今の自分の考えでは、そうするべきではなかったと考えている。なので、もうしない。
そもそもを言えば、こういう要望が出てきてしまっているということが「失敗」の何よりの証拠だと僕は考えている。「何故、そういう要望が出るのか?」「どうしてそうして欲しいと思うのか?」そこを考えないといけないと思う。
前者の要望は、色んなアドオンがそういう項目を「ツール」メニューにどんどん加えていったらメニューが一杯になってしまう!ということを見過ごしている。絶対に、多分別の人が「ツールメニューの中の項目は使わないので、非表示にするオプションを加えて欲しい」って言ってくるだろう。そしたらまたそれに応えるの?
後者の要望は、タブの一覧のリストやサムネイル一覧などからそのタブを選んだという風な、「本当にそのタブにフォーカスしたかった場合」にはどうすればいいのか?ということを考慮に入れずに安直に対応すると、泥沼に嵌ってしまう。不用意にそのオプションをいじってしまった人が「フォーカスしたいタブにフォーカスしてくれない!」と(自分がそう設定したからだと言う事にも気づかず)「バグ報告」してくるだろうし、それにまた安直に応えて「じゃあ、そういうケースだけは特別に、閉じられたツリーの中のタブにもフォーカスできるようにしよう」なんて後手後手の対応を続けていたら、どこまでいってもきりがない。
そういう安直な対応を繰り返した果てにあるのが、かつてのタブブラウザ拡張であり、今のTab Mix Plusであると、僕は考えてる。「多機能で凄い、良い物だ」と人は言うけれども、今の僕にはこれらは「考えることを放棄し続けた結果、肥大化の一途を辿った末路だ」という風に見えてる。既にツリー型タブもそうなりつつあると僕は思ってるので、今後は「設定項目を減らしていく」方向にシフトしたいくらいだ。
アプリケーションを作る立場の人は、要望として口に出された言葉の裏にある本当のニーズを読み取る努力をしておかないと、最終的には自分で自分の首を絞めることになると思う。「その方が格好よさそう」とか「その方が賢そう」とかのあまり意味のない自己満足なこだわりだろ、という風に切り捨てないで、自分自身の身を守るための現実的な対策のひとつとして、実践してほしいなと思う。
そしてその結果、それをエンドユーザとして使う立場に僕がなった時に、またハッピーになれるわけだ。
つまり「情けは人のためならず」とか「自業自得」とかそういう話。
Fennecは真のフルブラウザになれるか - Mozilla Fluxあたりを見ていて思った事。
喧嘩は売った方が負けとか、買った方が負けとか、色々考え方はあると思うけれども、性善説的な立場で安全側に倒した考え方として、僕は「喧嘩は買った方が負け」という結論の方を支持したい。
1のように考える人というのも世の中にはいると思う。いわゆる喧嘩っ早い人というのがこれなんだろう。でもどっちかというと、2の方が多いんじゃないかなと思う。「相手が喧嘩売ってきてんじゃん。じゃあ正当防衛みたいなもんで、こっちにだってやり返す権利があるでしょ?」と、自分の行動(喧嘩を買う)を正当化しやすいから、そうなるんじゃないかなあと思う。
しかし、1のように考える人が少なくて2のように考える人が多いのであれば、世の中に起こる諍いの数は1の人の人数よりは多くならないはずなのに、実際にはどうももっと沢山の喧嘩が起こっているように見える。なんだか、2の人同士が相手の言葉に過剰反応して「こいつ俺に喧嘩売ってんのか?」とヒートアップして、お互い「あいつの方が先に喧嘩売ってきたんだから、俺は悪くない」って言い合ってるケースが多いんじゃないかという気が、僕にはする。
2の人が喧嘩を始めるケースの多くは実は、売られた喧嘩を2の人が買ってるんじゃなく、2の人が自分から喧嘩を売ってしまってるんじゃないだろうか、ってこと。
2のタイプの人に「喧嘩売ってんのか?」と誤解されやすいような言葉遣いを敢えてしている・誤解を避けるための努力を無駄と考えて放棄しているWebモヒカンを、僕は上記リンク先のコメントに書いた程度以上には擁護できない。という話は本題から外れるので、さておく。
とにかく言いたいのは、自分としては売られた喧嘩を買っただけだと思っていても、傍目から見たら自分から喧嘩を売っているようにしか見えない、「喧嘩を買う」とは客観的には「喧嘩を売る」のと変わりない事なんじゃないの、ってことだ。そして、被害者意識に基づいて自分の行動を正当化しやすい分、自分自身の主観では「喧嘩を自分から売る」よりも「売られた喧嘩を買う」場合の方が、実行してしまう可能性は高いだろうと僕は思う。だから、「喧嘩は買わない」というのが結論になる。というわけ。
僕としてはよりお勧めなのは、3つめの選択肢。「そもそも、それを喧嘩と受け取らない」っていう選択だ。amachangとか「非モテSNS」の江上氏なんかは、善意悪意に関わらずいろんな物を片っ端から糧にして上り詰めているように僕には見える。片っ端から「喧嘩を買って」いたら、彼らはこうはなれなかっただろうなと僕は思う。
id:piro_or と ID コールではダメ?特定URLで言及されたリスト一覧として見たいと云うことかなぁ。
先日、こう書いた。
今日は、こう書いた。
メタブクマとidコールで意外に議論が成立してたりするよ。そこじゃ済まないとブログへという流れ。最近はハイクでidコールしつつという流れも
言ってることが矛盾している? 今日書いた方の「一言ブログ」を書きながら自分でも考えていた。
僕は1対1のコミュニケーションツールではなく、1対多のコミュニケーションツールとして、はてなブックマークに勝手に期待し勝手に失望しているのではないだろうか。
「話題が自分を押し出すためのツールで、全ての話題が自分のプレゼンである」というジャンルの人を「ヲタク」と名付けたほうが無難そうだなあ。趣味とか、引きこもり生とか、そういった可視的な問題じゃない。DIOに対するぼたもち、窮屈に対する日照り、そのぐらい、何もかもが違うんだ。
あるジャンルの方達→「わあ、この水おいしいねえ!」「その水は硬度が高いですね。日本では珍しいわき水です」
ポストに対しそれの正答を求めていることは、あたしに限っては100%無い。「教えて下さい」とか「急募」とか書いている場合を除いて。「絶対折れない針が欲しいなあ」って書こうとして、誰かが「布地にあった針を使えばいいよ」って云いそうな気がして、心が折れているところ‥‥!
lovalottaさんは「あたしはあんたという人間と会話したいんだ、客観的事実の指摘とやらに興味はないんだ」的な事をことあるごとに言っている。secondlifeさんやotsuneさんやKoshianさんが「idコールがあるからいいじゃん、何が問題なの?」と言うのもひょっとしたら根っこの所はlovalottaさんと同じなんじゃないだろうか? 「 僕 | secondlife otsune Koshian lovalotta 」という風に、ここに壁があるんじゃないだろうか?
むしろ、この壁の向こう側(lovalottaさんらがいる側)というのが「1対1の心のぶつかり合いという物を本当に理解している、人として正常であり完全に望ましいあり方をしている人達のクラスタ」であり、こっち側というのは「1対1のコミュニケーションを実は求めていない、自己愛しか無い自閉アスペヲタのクラスタ」である、ということではないのか? だから彼らは生産的に健康的に生きられていて、僕は元彼女と共依存して破綻して今こうして独りでグズグズな鬱々な時間を過ごしているのではないのか?
健全な論評の場
とか批判とかしちゃだめなんでしょ?
とか書いてる人がいるけど……それらを見て、「え、はてブがまともな批判や論評や議論の場だとマジで思っちゃってるわけ? あんなのでちゃんとした議論ができるわけないじゃん常考。何期待しちゃってんの?」と思ってしまった。
ここ数日自分のはてブを一言ブログとして運用してみてるけど、タグも含めてタグを除いて100文字しか書けなくて、あるブクマコメントからそのコメントに付けられたメタブクマを辿るという事も容易にはできなくて、こんなんでまともに議論できるわけ無いよという思いを改めて強くしている。
いや、できる人もいるのかも知れないけど。たった100文字の中ですべての事を鋭く指摘して批判できる、凄い文章力のある人もいるだろうけど。でもほとんどの人はそうじゃないんじゃないの? 僕も含めて圧倒的多数の凡人は、まともに批判や議論しようと思ったらもっと言葉を尽くして丁寧に書かないとお話にならないんじゃないの? これでは、印象操作なんだか負け犬の遠吠えなんだか訳わかんないつぶやきを書き捨てるだけになるのが関の山なんじゃないの? 建設的な批判じゃなくて、ただの否定、あるいは誹謗中傷にしかならないんじゃないの? それは「議論」とはほど遠いというか……むしろ、なんだろう。言いたい事だけ言い散らかして……ツッコミから議論が広がっていて後からそれを一望して知見を得るとか、そんな事はとてもとても無理なんじゃ? と思う。
別にはてブが特別酷いわけではない。この点はtwitterも大して変わらない。作った人達も、はてブやtwitterの上で喧喧諤諤の議論をして欲しいだとか、そんな事は思ってなかったんじゃないのかなあ(「して欲しくなかった」と思ってすらいなくて、全く想像すらしてなかったんじゃないか?)。気軽につぶやきを書き捨てるという程度の使い方なら十分事足りる、そういう用途の上で必要最小限の物しか備えなかった、って事なんじゃないのかなあ。
まあ、僕のように主観的で視野の狭い人間が、自分の気にくわない物事に出くわした時に、こんな風にわざわざエントリ書いて屁理屈こねくり回して自分の主観・感情をあたかも客観的事実やら公正な意見であるかのように飾り立てて、他人も(「わあこの人冷静なんだなあ! 色々知ってるんだなあ、色々考えてるんだなあ!」)自分も(「わあ俺って冷静だなあ! 色々考えてて賢明だなあ!」)欺いてるのと比べれば、100文字の中にプリミティブな感情だけぽつりと「ムカツク。嫌い。」と書いてある方が、ずっと正直で健康的だと思う。それが一番言いたかった事なんでしょ、だったら最初からそう言っとけばいいじゃん、なんでそれを偽ってゴチャゴチャ言うわけ? と。悪口書いてスッキリして「批判」とか「議論」とかをした気になってるだけ、なのに比べれば、その方がずっと健全だと思う。
要は用途に応じてツールを使い分けましょうよってことですよ。本当に実のある議論がしたければ、ブログ書いたりトラックバックしたりコメント欄に書いたりすればいい。実のある議論には興味が無くてとにかく発露したい感情がそこにあるのなら、twitterを使えばいい。ツールを使い分けるんじゃなくて何でも今手に持ってる物で済ませてしまおうというのは、僕のようなズボラな人間にみられる悪いクセだと思う。
ことあるごとに言ってるけど。もしクリアコードが解散することになったとしたら、僕以外の人は普通に他の所で仕事ができるだろうけど、僕だけは行き場所が無くて野垂れ死ぬんじゃないか、と僕はずっと思ってる。
ブートローダに機能を加えたり、組み込み機器向けに低層の所をCでゴリゴリ書いたり、そんな事ができる人達の中にいて、それじゃあ僕という人間は何ができるのかというと、MozillaのそれもXULより上の層のことしか分からない。第1言語がJavaScriptのくせに、Webアプリを書けない、jQueryもYUIもExt JSも知らなくてクロスブラウザなスクリプトを全然書いたことがない。なんていう著しく偏った人間は、どこからも誰からも必要とされないんじゃねえの? と。
「技術力十分あるじゃないか。他でもやっていけるよ。もっと下の人がいっぱいいるよ。」と、誉めてるのか慰めてるのか、言葉をかけてくれる人はいる。そう言われて悪い気はしない。でも心のどこかで「本当に僕に『技能がある』からじゃなくて、単に外野から見てて『そう見える』から言ってるだけなんじゃないのか? 僕と同じ分野に手を着けて、その後で僕のことを見たら、『ああなんだPiroって全然大したことねえな』って思うんじゃないのか?」と思う部分がある。
料理に例えれば、僕が大変ショボい自炊をしてるのを、料理が全くできない人が見て、「料理ができるなんてすげえ!! お前、料理人で商売できるんじゃね?!」と、何を勘違いしてかそう言ってしまっているような状況であるとか。あるいは、フランス料理の一流シェフが沢山いる中に一人だけ手巻き寿司しか作れないド素人寿司屋が紛れ込んでいて、フランス料理のシェフ達が「(何だコレ? スシっていうの? 俺フランス料理以外わかんないんだよね……でもまあこうやって店持ってるって事は多分スシの世界じゃそこそこの腕前なんだろうな、じゃあ敬意を払っとかないとな……)スゴイネー!! スシサイコー!!」と言ってるような状況であるとか。「僕が評価されてる」ってのは結局そういう事なんじゃないの? という風に思ってるところがある。
本当の意味で適正な評価をできるのは同じ分野で活動してる人だけなんじゃないのか? そういう人が「確かにPiroは技能がある」って言ってくれて初めて、本当に技能があるって言えるんじゃないのか? 同じ分野に身を置いてる人以外からピントの外れた誉め言葉をもらって、それを、同じ分野の人に言われる言葉と同じ重みで受け取って勘違いして喜んでるだけなんじゃないのか? という風に思うところがある。
しかし同時に、僕は、(元)彼女に絵や仕事やカラオケのことを「すごい!」「上手い!」と言われた時には、大変嬉しかった。絵も歌も普通に素人で、ましてやプログラミングなんてこれっぽっちも分からない、門外漢も門外漢な人からの誉め言葉を聞いて、僕は嬉しがっていた。
何故だ? これは先の話と明らかに矛盾しているのではないか? 同じ分野で活動している人からの適正な評価以外は評価としては全くアテにならない、だからどんなに誉められてても不安なんじゃなかったのか?
ひょっとしたら、自分の技能が人より高いかどうかが分からなくて不安なのではなく、「貶される可能性が残っている」「価値が無くなるかもしれない」ことが不安だったんじゃないのか? 「技術力が高い」と言われていても、何もしていなければすぐに他の人に追い抜かれる。貶されるようになる。商品価値が無くなる。それが怖いのではないか?
これは僕の勝手な思い込み、願望の勝手な投影だけれども、多分(元)彼女は、僕の絵を好きで居続けてくれてたんじゃないかと思う。僕の絵柄が流行りの絵柄でなくても、僕より絵の上手い人がどんどん現れていっても、他の凄く上手な絵と僕の絵を見比べた上で僕の絵を「嫌いになる」、ということは無かったんじゃないか、と思う。まあ僕は勝手にそう期待していたし、そう期待してしまいたくなるくらいに僕は舞い上がってた。
母は、僕の絵の技術力は多分認めてくれている。「こういう絵を描いて欲しい」と依頼されたりもする(頼まれ仕事を今まさに絶讃放置中で申し訳ない限りです)。でも、僕の絵が好きかどうかで言うと、多分好きではないと思う。母が好きな絵は、例えばいわさきちひろだ。いわさきちひろの絵と僕の描いた絵を商品として並べたら、いわさきちひろの絵の方を迷わず選ぶと思う。
あと、親は、僕が(共著で)本を出してもあまり派手に喜んではいなかったと思う。報告?した時も、「へぇ、(技術的なことはさっぱり分からんけど、世間的には多分)すごいねえ」くらいの冷静な反応だったと思う。少なくとも僕にはそう見えた。(元)彼女は、「すごいやん!」と、顔文字付きで大げさに反応していた。その反応が僕は非常に嬉しかった。これが欲しかったんだ、と、思っていたと思う。そういう風に大げさに反応されることに僕は飢えていたのではないかと思う。
僕が真に欲していたのは、他と僕とを比べても僕の方に他にはない価値を見出してくれる人、そしてそれを好いてくれる人、好きで居続けてくれる人、さらに言えば、それを(大げさにでも)表現してくれる人、ってことだったのではないのか。そういうシンプルな話なのではないのだろうか。
技術の分野では、それは期待するだけ無駄なことなのだと思う。技術の世界では全ての物事に優劣がはっきり付く。「好きか嫌いか」には全く価値が無く、「より生産性が高いかどうか」だけが唯一の価値基準だ。技術的に劣ってるけどそれが好きなんです、では通らない。そういう世界で、「絶対に見捨てられない安心感」を求めることがそもそも不毛な、そして見当外れな欲求だったんだ、ということに、今頃になってやっと気がついた。
好かれたいんです……
19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/28(木) 19:52:51 ID:c8qpWzOe0 わかってる人から見たら、piro氏の技術力は大したことないの? 23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/28(木) 21:10:28 ID:6eFkxD7g0 >>19 大したことない。Firefoxのバッドノウハウを猛烈に抱えているから余人が簡単には真似できないとは思うが、 たとえば昔のメインフレームのメンテ一筋の団塊世代エンジニアの技術力が高いとは言いがたいでしょう。
ですよねー。
ノベルティやらパートナー企業の作るチラシやらが全部作り直しになるやんけ、という点を除けば、新しいドラフトはイイ感じに仕上がってきてると思う。
正直、初期のドラフトは端的に言って「え、これにリニューアル? ははは、またまたご冗談を」という印象しかなかった。「変えなきゃ、とにかく新しくしなきゃ」という意図が強く働いていなかったのか、何もかもを台無しにぶち壊していたように思う。それに比べたら最新のドラフトは、旧アイコンの解像度を上げた物として正当な進歩を遂げた形に落ち着いてると思った。カトキハジメの言うところの「マッハの戦い」とは、こういうことなんじゃないかと思う。
ここからまた変な方向に行ってしまわないかが心配だ。
健康診断の結果が出た。他は正常の範囲内みたいだけど、中性脂肪が高かった。50から149のところ、158mg/dLだそうだ。生活習慣病の改善の必要アリと書かれていたけれども、正直、やる気が起こらない。緊迫感もない。当事者になってみるとこんなもんなのか。
父は糖尿になってからうちの中で誰よりも健康的な生活を送るようになった。鋼の意志というかなんというか。よくそんなにマメにできるなあとずっと思ってた。命がかかってるから必死にならざるを得ない、というのはあるのかもしれないけど。
でも正直なところ、今の自分の素直な感想としては、「あーこのままいくと死ぬんだろうなあ。でも別にいいか……」という感覚が結構ある。
まあ結構前からだらけてはきてたけど、この間の突然の(?)お別れ・恋愛関係終了・さようなら以降、それに拍車がかかってるような気はする。色んな事にガッカリしたというか、ガッカリしたというか、ガッカリしたというか。悲しいわけでもないし怒り狂うわけでもなく、とにかくガッカリ。自分にも元彼女にも全てにガッカリ。その勢いか、生活もどんどんガッカリになってるように思う。というか、付き合ってる間、一人で勝手に期待(誕生日におめでとうと言ってもらえて当然だろとか、電話で下らない話を長々できて当然だろとか)して勝手に裏切られ(あれれ何の言葉もないよっていうか前後1週間普通に音信不通ですよ?とか、電話苦手って言われて1年近く声も聞けずじまいとか)て勝手にガッカリ→期待しないのが一番気が楽だということに自分でやっと気がつくとかそんなんを繰り返して、これはある意味、何にも期待しないようにという訓練を積んでたことになるのかもなと今更思う。その訓練の成果が今大いに発揮されて、「期待しても期待外れで終わるだけだし……」みたいになってるところがあるような気がするんだ。
などと自分で言うのは悲劇のヒロイン(?)ごっこに浸ってるだけか。元からやる気がなかったのを、それのせいにして納得してるだけか。
いやでも「彼女がいる」ということがやっぱりそれなりに動機になり得てたとは思うんですよね。「頑張ってるよみてみてー!!!」とアホみたいなメールを投げまくってもそれを特には拒絶されていなかった(そして時々「すごいねー!」的なメールを返してくれていた)、という。基本的なところが自分はお子様なので、そんな分かりやすい報酬が無いと満足できない、継続の意志を保てない。という事が改めてよく分かった。
話が盛大にズレとる。なんだっけ。そうそう中性脂肪の話ですよ。
とりあえず運動不足をなんとかしたほうがいいよねうん。最近は家と会社の間の往復以外に動いてないようなもんだから……
野菜は、こんな中性脂肪の値をしといて嘘だろ?と思われそうだけど、べつに嫌いではない。調理が面倒だからとれてないというのが大きいと思う。面倒さでいったら肉や魚の方がもっと面倒(使ったあとの包丁は洗剤で洗わないと油が……とかそういうのが)なので、相対的には野菜の方が好きと言ってもいい。外食や弁当買ってくる以外ではぶっちゃけ全然肉食べてないよ。
そう。問題は、外で食べる時に出費をケチると途端に選択肢が「肉」「炭水化物」「肉」「油」そんなもんばっかりになるということだ。金を出さずに野菜だけで腹を充分に膨らませるには自分で弁当を作るしかなく、それが面倒で……というループの中にいる。今冷凍庫の中にあるゆであがったあとのブロッコリー、これは何ヶ月前の物だ?
あー、明日から変えよう、明日から……(明日っていつさ?!という優しくも厳しいお姉ちゃんの声が空耳で聞こえて……こないなあ)