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自分が本当に欲している事が何なのかということをよく考えることが、自己防衛や他人にかける迷惑を最小化することにつながるのではないか、ついでに言えば自己満足を得るためのコストを最小化することにもつながるのではないかと、僕は思っています。
なぜ自己防衛になると考えるのか。
僕がなによりダメージを受けるのは、自分ですら気付いていない本音を他人に看破された時です。「ああ、なんかいいこと言ったかも」といい気分になっている時に「お前のそれは一見もっともな批判に見えるが、出発点はただの嫉妬じゃないか」「お前のそれは自分を責めているのではなく、自虐を装って他人からの攻撃をガードしているだけじゃないか」という風に指摘され、それが事実だった時の恥ずかしさといったら、他に比べられる物はありません。
でも自分の本当の本音がちゃんと分かっていれば、「気付いていないことを指摘される」ダメージを避けられます。これが自己防衛ということです。
なぜ他人にかける迷惑を最小化できると考えるのか。
自分の気付いていない本音を看破された時、僕はファビョります。「自分は他人にそんな指摘を受けるようなみっともない人間ではありたくない」→「そうであるはずがない」→「そうだつまり相手の指摘の方が間違っているのだ」という風に現実をねじ曲げて自分に都合の良いように解釈し、自分の優越感を維持するためにありとあらゆる卑怯な手を使います。自虐で逃げますし、関係ない話を持ち出しますし、「いや、僕の言いたかった事はそういうことではない」とのらりくらり言い逃れしますし、人に泣きつきますし、「ボクたんかわいそうでしゅウワァァァァァン」アピールだってします。そうして被害を拡大させます。関係ない人まで何時間でも何日間でも巻き込み続けます。見栄を張りつづけるためだったらどんな犠牲も厭いません。
でも最初からそれが自分の本音だと分かっていれば、それ以上ファビョらずに済みます。「そうですね、まったくあなたの言う通りです。困った物ですね。」これだけで終わることができます。これが、迷惑を最小化するということです。
なぜ自己満足を得るためのコストを最小化できると思うのか。
実体の掴めないモヤモヤした欲求を持っていると、それを満足させるために余計なコストを支払わなくてはなりません。なんかこの机は気に入らない……こっちの机も何だかピンとこない……この机もダメ……ああでもこっちはちょっといいかもしれない……そんな風に、店の中にある机をかたっぱしから試してみても結局決断を下せない。時間的コストの浪費ですし、人を付き合わせているならその人にだって迷惑をかけます。
でも、どうしても譲れない一点が明らかになっているなら、あるいは求める事項の優先順位がはっきり分かっているなら、妥協もできれば諦めもつきます。この机は棚が付いていて形がすっきりしているからこれを買おう。引き出しが付いていないのは重要度が低いから諦めよう。この店には最低限の要求事項を満たす品物が無かったから何も買わずに帰ろう。目的は買い物ではなく商品を見ることだから、商品を見ることだけに専念しよう。そういう風に、到達するべき目標が明確になればなるほど、それを解決するための最短距離を突っ走れるようになりますし、目標との間に横たわっている解決すべき問題も明らかになってきます。余計な試行や手探りのトライ&エラーを繰り返さなくても済みます。これが、自己満足のためのコストの最小化ということです。
その裏返しだと思いますが、僕は、自分が本当にしたいことは何なのか・どうしてそういう行動に自分が出たのかということを深く考えてみない人、自分の気づいていない本音に嘘をつき続ける人があまり好きではないようです。なぜなら、前述したことの全く逆の事が行われる、すなわち、無駄に勝手に傷つき、無駄に僕に迷惑をかけ、お金や資源を無駄にすると思うからです。それでは本人も他人も誰も幸せになれないと思います。自分をいじめて他人を幸せにするか、他人に迷惑かけて自分を幸せにするか、自分も他人も両方幸せにするか、とにかく少しでも生産的な方が僕には「マシ」だと思えます。
前のエントリのようなキモイ自虐エントリを書くことで僕は、自分の考えを整理して、前述のような諸々のコストを最小化することができます。だから、僕にとってはこれはただの不合理な演技やストリップショーやプロレスではなく、合理的な選択の一つだと思えるのです。もっとも、それが自分以外の人にとっては不愉快な文の垂れ流しにしかなっていないということは否定できませんが。その点において僕は、他人に迷惑をかけてでも自分を最も低コストで幸せにすることを選んだ、と言えると思います。
この結論に辿り着くにあたってきっかけになったかもしれない最近読んだ関係ありそうな話:「本当の本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」
最近思ったというかやっと自覚したこと。
まあすでに気付いてる人も相当数いそうな気もするんですけど、どうやら僕は、自分よりも自信ありそうげに見える人を見るとそれだけで不快感を感じ、どうにかしてその自信をへし折ってその人が自信喪失して凹んでいる様子を見たくてたまらない、という人間のようです。
自分に絶対的な自信をなかなか持てず、自信たっぷりげな発言をした5秒後には「でもやっぱり間違ってたのかも」と自信喪失してオロオロし、周囲の人に「間違ってないよね? 合ってるよね? ね? ね?」と確認して回らずにはいられない。そんな脆弱な、他人任せのフラフラしたものが価値判断の基準であるということが僕の劣等感の源泉の一つであるようです。だからなのか、自信たっぷりに「これが正しい」と言いきったり、自信たっぷりに他人を非難する人を見たりすると、嫉妬に駆られてしまうようなのです。何でお前らは僕にできないことをそうも平然とやってのけるのか。羨ましい、妬ましい、憎たらしい。
だからなのか僕はしばしば、それが客観的に正しそうではない場合でも、突っ掛かったり口を挟んだり野次ったりする。僕の目に「自信たっぷり」そうに見えるその人が、自信を喪失して意気消沈したり、自信の拠り所を失って混乱したり、そういう風に僕と同じレベルにまで堕ちてくるまで足を一生懸命引っ張って引きずり下ろそうとする。自分のしていることの意味がそんな風に思えます。
今僕がそういう人を目にしても突っかかっていってないとしたら、それは単に、僕ごときがその人に噛み付いたところで引きずり下ろすどころか返り討ちに遭うだけだと、その人と自分との間の(自信の確かさ、口の上手さ、知識の豊富さなどの)厳然たる差が分かっているからです。ただ単に噛み付いてないだけです。勝負から逃げているだけです。
非難したり否定したりすることが許されないような物を持っている人も妬ましいです。例えば虐待問題を語る虐待被害者とか、セクハラ問題を語る女性とか。僕の持っていない特権を持って、他の誰より優位な立場で、何を話しても「うんうんそうだよね」と頷いてもらえたり「それは違うと思う、でもそう思う気持ちは良く分かる」と慮ってもらえたりする、そういう人が羨ましいです。
もはや立ち位置が揺るぎないほどの自己承認を得られている人が妬ましいです。しっかりした価値観の根っこを築いてどっしり構えていられる人が、羨ましくてたまりません。そういう人がいると、そういう人が根っこを失ってオロオロする姿を見たいと思ってしまいます。僕と同じレベルにまで引きずり下ろして、自分の方が優位に立ちたい、それが無理でもせめてその人が自分と同じような自分自身がフラフラする状態に陥って不安に苛まれるような状態にしたい、そう思います。
すでに勝ってる人、そんな勝ち負けに意味なんか無いと思ってる人から見たら、滑稽の極みだと思いますが、僕は優越感ゲームの勝者になりたいですし、ずっと勝者でいられるならそうでありたいです。一度昇進したらその後どんなに負け続けても絶対に降格されることのない「横綱」のような、盤石な地位が欲しいです。
着陸して、降りる時のこと。
思ったこと。
そんな思い出。
先日、ツリー型タブのアピール文を英語で書くために人の手を借りながらああでもないこうでもないとやってるうちに思ったことなんだけど。図らずも、大学の卒業制作でやったWeb Mapで実現したかったことの一部を、僕はツリー表示とサムネイルによって手に入れていたようだということに、今頃気がついた。
タブのツリーは、今まで「ページ同士の関係性が分かる」という風に説明をしてきた。でも、実際にもたらされる効果の面から言い換えると、「あるページを基点にした閲覧の足跡をそのまま、興味が移り変わっていく様子=ツリーの分岐という形で保持し、好きな時点の興味の対象の間を容易に行ったり来たりできるようにする、視覚的な履歴」ということになると思う。
デスクトップ百景のスクリーンショットを見ての通り、僕はタブをたくさん開く方だと思うけど、べつに、多数のページを本当に平行して見ている訳ではない(そんな聖徳太子みたいなことはできない)。実際には、「後でもう一回読み返そう」「後でコメントしよう」「後で日記のネタにしよう」そう思った物を「読みかけ」「保留状態」で置いたままになっているだけだ。
そういう用途だったらブックマークを使えばいいじゃないかと言われるかも知れないけど、僕にとってはそれでは駄目なんだ。ブックマークはフォルダに放り込んでしまったらもう見えなくなる。画面がスッキリしていいんだけど、それはつまり意識の外に行ってしまうということで、「どこに何がある」ってことをちゃんと記憶しておかないとすぐに忘れてしまう。ソーシャルブックマークもそうだし、同様の理由で多分僕にはRead it Laterも使いこなせないと思う。
でもタブは、明示的に閉じない限りは視界の隅に残り続ける。他のことをし終わって一息ついた時、「ああ、そういえばこれがまだ未処理だった」という風に自分から主張してくる。そういう未処理のがスクが溜まって、タブがどんどん増えてくると、タブバーがだんだん狭苦しくなってきて、「ああ、そろそろ片付けなきゃな」って気になってくる。
ウィンドウ上部に水平に置かれたタブでは、勝手が悪い。たくさんタブを出そうと思ったら、一つ一つのタブが小さくなりすぎて何のタブだったかが分からなくなるし、タイトルが読めるような大きさでタブを表示すると、1画面の中に数個しかタブが表示されなくなる。これでは、自分のしていたことをざっと俯瞰することができない(「タブの一覧を表示」ボタンもあるにはあるけど、「モード」の切り替えを必要とするので、僕には馴染めない)。ある程度の情報を表示できる状態のタブを、10とか20とか表示できるのは、ウィンドウ左右での「縦置きタブ」ならではの利点だ。
単にタブを縦に並べただけでも不十分だ。確かにさっきは「自分のしていたことをざっと俯瞰できないから嫌だ」と書いたけど、でも、していたことの子細が全部一度に見える必要はない。全教科のノートの全ページを並べて見せられるより、それぞれのノートの表紙だけ並べて見せられた方が、余計な情報が少なくて、「ざっと見る」という目的に即しているだろう。そういう意味で、それぞれのツリーを折り畳んで、各ツリーの基点になった「親」のタブだけをざっと眺めることができるツリー型タブは、先ほどのノートの例え話にも似た効果がある。
こういう使い方をするにあたっては、それぞれの「タブ」が含んでいる内容を常時見ることができるようになっていると、なお良い。情報化タブでモードレスに常にサムネイルを見えるようにしているのは、そういうことだ。
最近仕事でRuby on Railsをやらないといけなくなって、MVC(データと、その表現形式と、制御)をきちんと分離するという考え方に今頃になって触れた。確かにプログラムを作る時はそれらは分離した方がうまく行きそうだけど、ユーザの目に見える時にはそれらが一体になっている方が多分いい。レバーを上げ下げすれば「操作できる」と同時に「データ(状態)が変わり」、さらには「今の状態が表現される」、という風に、原始的なUIはMVCが一体になっているからとても分かりやすい。プログラムを作る段階では構成要素ごとにMとVとCに分解しても、その後、それをユーザに見せる時にはもう一度統合するということが必要なんじゃないかと思う。
Mozilla Labsで行われているアドオンコンテストに乾坤一擲のエントリーを!!と思って人の手も借りながら超気合い入れて説明文を書いてツリー型タブあたりを投稿しようと思って送信ボタンを押したら説明文が最初の1/4くらいでゴッソリ切られてしまって激しく脱力した 字数制限があるなら最初から言ってくれよと……
しょうがないからヤケクソで小物を連投してみた。以下、実際に投稿した説明文。
あー……もしかしてinstall.rdfに書いた「homepageURL」のページに詳しい説明を書いとけということだったんだろうか?
元々はね。手持ちの弾を全部出し尽くして、説明もし尽くして、エントリーそれ自体に全力尽くすつもりだったんですよ。今までこういうコンテストからはずっと逃げてきてたから。実力を冷静に判断される機会をずっと避けてきてたから。
拡張機能について言えば、唯一参加したもじら組の拡張機能コンテストは参加者少なすぎてまともな体裁だったとは言えなかったようだし、こないだのMozilla 24のSOI Asia主催のコンテストは審査員だったから参加はハナからできなかったし。前回のコンテストの時はまだ英語の読み書きに今よりずっと抵抗が強かったこともあって参加しなかったけど、それは今から振り返ってみたらただの言い訳だったのかもしれない。CSSについてだって、2chのカスイケスレに晒すのが関の山で、ホントにハイレベルな連中が集まってたCSS Zen Gardenにはついぞ一歩も踏み入れられなかった。絵のことなんて言わずもがな。
僕のことを褒めてくれる人とかはいるけど、でもそれって客観的に見てどうなんだ、技能とか発想とか作り込みとか、ちゃんと冷静に比べたらどのくらいなんだ、ってことを評価される機会に今までちゃんと向き合ったことがなかった。だから、天狗になって「僕チンはすごいんだぞ! 日本で拡張機能作ってた人間の中では最古参の一人なんだぞ! タブブラウザ拡張では世界中から注目されたんだぞ!」なんて勘違いも甚だしい大言壮語の自慢話を、酒に酔った勢いでグチグチと垂れ流したりするわけですよ。
そんな自分にけじめを付ける機会にしたかったんです。いい結果が出たのなら、それを自信として、歪んだ自尊心なんかこれ以上膨らまさないようにしよう。応募作の中で最終的に箸にも棒にもかからないような物でしかなかったという結果が出たのなら、あるいは、何とも言えない微妙な結果だったのなら、自分の程度という物をきちんと自覚して、分をわきまえるようにしよう。
という風に物凄く強い思い入れがあってエントリーを考えていただけに、説明文の字数オーバーでアウトというのはなんとも言えずもにょってしまうのです。
……とまあ、こんな極東の島国で少数民族の使う言葉で愚痴っていたところで疑問が向こうに伝わる訳はないので、フォーラムで質問してみた。……他にまだ一件もコンテスト関係の書き込みがないから、空気の読みようがなくてガクガクブルブルだ。
自転車を買った時から突いていた前照灯、ON/OFF切り替えの操作が手元でできるので好きだったんだけど、気がつくと豆電球の電極の接触が悪くなって明かりがつかなくなってて、その都度ドライバーを持ってきて蓋を開けて電極を指でひん曲げるということをしなくてはならないのが難点だった。それでもめげずに使い続けてたんだけど、どこかにぶつけた時の衝撃か何かで歪んでしまったのか、どこかがこすれて異音を発するようになってしまって、あれこれいじってるうちに明かり自体が全然つかなくなってしまったので、諦めて新しい前照灯に付け替えることにした。
……というわけでLED5灯のものを買ったんだけど、取り付けてみて初めて「失敗した」ということに気がついた。ハンドルに取り付けるような構造の物だったんだけど、普通に付けると前カゴの中の物が照らされるばっかりで全然意味がない。カゴが空の時でもカゴに反射してギラギラ眩しいし。
かといってロクに使いもしないうちに買い換えて捨ててしまうというのももったいなかったので、前カゴの端っこにビニール紐でくくりつけて、前照灯として使い続けることにした。
Firefoxもそうなんだけど、自分で使う物は自分の使いやすいようにカスタマイズして当たり前だろという感覚が僕にはある。その根底にあるのは、「せっかく買った(導入した)んだし……」という「もったいない」の精神だったり、少々不格好でも便利な方がいいやという考え方だったりするんだろうなと思った。
amachangさんのエントリを見て思ったこと。
人の考え方というのは、環境によって左右され得る。その人が使う道具も、その人を取り囲む環境の一部だ。だから、その人がどんな道具を使うかということもまた、その人の考え方を左右し得る。
viのようなモーダルなツールは、非人間的だ。
「モード」が存在するツールでは、何かするためには必ず、「何をするか」をあらかじめ決めておき、その上で、然るべき「モード」に切り替えなくてはならない。よって、操作の順番を間違えたら使えない。ファイルアイコンをドラッグし始めてから「あ、これを移動したい先のフォルダのウィンドウを開くのを忘れてた」と気がついても、手遅れだ。ドラッグを中断して目的のフォルダを開き、もう一度、操作を最初からやり直さないといけない。
このような「順番を間違える」というヒューマン・エラーはありふれている。気をつけていても「うっかり」「間違って」やってしまうもので、完全になくすなんてことはできない。だからこそ、ユーザーインターフェースを設計する時はヒューマン・エラーが起こる可能性を視野に入れて、エラーが起こった時の被害・損失を最小化するように、そしてできればエラーが起こる前の状態に戻すことができるように、設計しなくてはならない。
MacにあってWindowsやLinuxに欠けているのは、そういう思想だと思う。MacのFinderには、ファイルアイコンをドラッグ中にフォルダの上に載せたら、そのフォルダを自動的に開くという機能があったと思う。Vistaはどうだか今は確認できないけど、少なくともWindows XPにはそういう機能はないし、Ubuntu 7.10上のGNOME環境にもそういう機能はなかった。「どんな人が、誰のために、それを作っているのか」ということが如実に表れている部分だと思う。
Firefoxも人間的なツールになるようにずいぶん努力をしているようだけれども、まだまだ足りない。「検索語句を入力した後で、検索エンジンが別のエンジンに切り替わっていた事に気がついた」「語句を検索バーにドラッグ&ドロップした後で、その事に気がついた」そんなヒューマン・エラーに対する配慮が欠けていたから、僕はセカンドサーチを作った。
非人間的なツールに慣れ親しんで、ツールに合わせて行動するようになるということは、人間的な考え方から離れ行くということだ。もし仮に僕がFirefoxというツールに合わせて自分を変えていたら、セカンドサーチを開発することはなかっただろう。
いや、でも、amachangのように技術を極めてどんどん高みへと昇っていくことは、それはそれでとても素晴らしいことだと思うんだ。例えその過程で人間的な考え方と決別してしまったとしても(amachangがそうだというわけではないけど)、その先で何か価値あるものを見つけ出して、それがみんなの生活をより良い物にするんだったら、それはとても素晴らしいことだ。極力自分を変えないように変えないようにと今の自分の立っている場所にしがみついている僕のような人間には、絶対に成し遂げられないことだと思う。とても羨ましいし嫉ましい。
そんな僕でもできそうなことって何なんだろう。
「人間的でないものを人間的にする」「人間とそうでないものとの間をとりもつ」「違う世界同士をつなぐ架け橋になる」
夢と言えるような夢が無い僕には、俗世を捨てて高みに昇り超人になるだけの器も無いし、かといって、one of themとして完全に埋没してなお自分を保ち続けられる自信もない。目立ちたいけど目立てない、どっちつかずの中途半端な状態で、何者にもなれずに境界線上をフラフラとさまよっている。そんな僕が何か意義あることを成し遂げられるとしたら、そういうことでしか無理なんじゃないだろうかと思っている。
生み出せる価値はそう大きくないだろうと思う。でもこれ以外にちょっとでも価値を生み出せそうな道が僕にあるとは思えない。ここが僕の居場所、落ち着く所なんだと思う。
腹が減った状態で帰ってきたんだけど晩ご飯の準備をする気力が沸かないのでとりあえず買ってきたお菓子を食べながら思ったこと。
食べていたのはドーナツなんだけど、外から帰ってきた直後に部屋で一人でドーナツを食べる、という行為から強烈に想起させられるイメージが一つある。サイコメトラーEIJIの福島満の帰宅シーンだ。大人になりきれないガキのまんまの思考の甘ったれの男が、小太りの体を汗だくにして、独り暮らしでゴミ溜め状態の部屋に帰ってきて、着替えるのもそこそこに、テーブルの上に置いてあった買い置きの……と言うよりも食いかけのまま放置されていてカビが若干生えているドーナツを、「もくもく」という擬音とともに頬張る。というシークエンス。べつに僕の部屋はあそこまでゴミ溜めでもないし、今の所そこまで太ってるわけでもないし、ドーナツは買ってきたばかりの個包装入りでまだ賞味期限まで余裕で2ヶ月くらいある(どんだけ保存料入ってるんだか……)んだけど、なんか、こう……ミスドとかのじゃなくて、よくあるスーパーとかで売ってそうなドーナツを食べた時の何とも言えないあの感じが、頭の中で「もく、もく、」という擬音で表現されて、それをきっかけにして前述のシークエンス全体が脳内で再生されるんだ。
そしてその勢いで、自分の人生そのものについても悲観的な思いに駆られる。晩ご飯の前にこんな風に菓子食って、自己管理がなってないったらありゃしないよね、こんなんだからどんどん体重増えてってそのうちブクブク太ってホントに福島満のようになるんだろうな、脱ヲタのようなことをしてせっかく回復した自尊心がまたボロボロに崩れてなくなってしまうんだろうな、そして今度こそどん底のどん底にまで堕ちてもう這い上がれなくなるんだろうな、とか。
ドーナツを食べる度に、僕はそんな風に思ってしまうのです。
難儀なことですね。
亀のように耐えるで思い出したけど、亀田一家はこの先どうなるんだろ。
ああいういわゆるDQNな人というのは僕のような人間にとっては天敵と言っても良くて、それが非難されるのは下衆な感情ではあるけれども気分爽快スカッといい気味だぜてなもんなんですが、TBSとか(またTBSか)と共犯関係だったのに一人(一家)だけワリ食わされて放逐されるという様子にはなんとも言えない後味の悪さを感じる。
アッコにおまかせで初音ミクがとりあげられたけど酷い内容だったという話のトラックバック一覧から辿った先にあった、映像中でキモヲタの代表という感じで映されていた人の発言のまとめを見て思ったこと。(ちなみに「事件」のあらましはGIGAZINEのまとめがほどよくまとまっていて読みやすい。)
でぶこんだのMozilla 24だのにプレゼンテーターとして参加していながらもえじら組の活動を性懲りもなく続けていたりする僕なんかは、こういう話を見ると戦々恐々とせずにはおれません。いつ僕のせいでFirefoxユーザ全体がキモヲタ扱いされてもおかしくない状況。とかいいつつもえじら組を捨てる気はさらさらなかったりするんですけどね! ロリフォックスという前例もあるしね! いつかふぉくす子テーマを配布することが夢です!(そのまま夢で終わらせるべき)
しかしこのtaskという人のグダグダぶりもまた他人事とは思えないなと思った。というか同じ状況に置かれたら十中八九同じことをする自信がある。多分僕とこの人は似たようなタイプの人間なんじゃないかなあと思う。どうしてそういう風にしてしまうのか我が事のように心情を推測できてしまう。この人は明日の僕かもしれないのだ。
「スタッフが置いていった台本」について「アップしろアップしろ」と散々言われてもグズグズと出し渋ったのは、テレビで自分のキモいヲタっぷりを晒してしまったという「大失態」にビビってしまって、これ以上「罪」を重ねることを恐れたからだろう。その「罪」が誰に対しての物で、その「罪」の重さと「出さないことの罪」の重さとを正しく比較することもできなくなっていたんだろう。
「僕が『抗議』をしないことによって迷惑を被る人」は存在しないでしょ。
そうではなく「僕がいたことによって被害を被った人」が存在するのは認識してるけど。
こういう論理の破綻した言い訳を延々続けるのも、つまりは「自分自身はこれ以上何のアクションも起こしたくない」という風に心底ブルってビビってしまってるからこそだろう。あらゆる現実を「自分が動かなくても良い方向」に向けてねじ曲げて解釈している。動かなければこれ以上罪を重ねることはない。自分一人が叩かれ続けることが罪の償いである。そういう、自己満足の考え。
そうして亀のようにひたすら耐える。そのうち脳内麻薬が出てきて神経が麻痺してきてハイになってくる。だから
>>207 VIPで・・・・マジメ・・・・・・?
こんな開き直りもしてしまう。
そもそもこんな「大失態」を演じてしまったのも、褒められておだてられて調子に乗ってしまったからだ。僕自身がそうだから分かる。僕らはいつも鬱屈した感情を心に秘めている。自分がやっていることが世間から何ら評価されないことに苛立ちを感じている。ショボい「ナンチャッテ自己表現」しかしていないくせにいっぱしの表現者を気取っていやがる。卑屈なことを言うフリをして内心では「俺様はもっと賞賛されるべきだ」とおこがましくも考えている。不健全な状態。膨れあがる自尊心と欲望で高まる内圧を、「現実は冷たいんだよ」という理屈で無理矢理フタをして押さえ込んでいる状態。そこにかけられる甘いセリフ。高まりきった自尊心がピーと音を立てて一気に吹き出す。
そう。たった一カ所だけ認められた、ほんのそれだけで、ああこの人は俺のすべてを認めてくれるんだ、だなんて勘違いをしてしまう。今まで全然認められていなかった反動がそこに吹き出す。
その結果がああいう醜態に繋がる。
要は、アレだよ。普段無口でロクに会話に乗ってこないくせに、ヲタな話題が少しでもふられると、いや、場の誰かが話題に出しただけでも、途端に元気になって饒舌になって、頼まれてもいないのにベラベラベラベラといつまでも知識自慢を垂れ流す。あれの程度が酷くなっただけで、質としては同じ物だ。
起こるべくして起こった悲劇。避け得なかった悲劇。そんな風に思うよ。
そんな風に歪んだ内圧を高めなくて済む、自尊心を満たしたい時に満たしたいだけ満たせるって事。それが、「非モテ」の文脈で言うところの「モテ」の一側面なのかもしれない。そういう意味において、ある程度の「モテ」を体験できた(ている)お陰で、僕はまだバランスをギリギリ保っていられてるんじゃないかと思う。それらが失われればたちまち僕も「あちら側」に転げ落ちていくことだろう。かつていた場所に戻ってしまうだろう。今ですら、水を向けられれば調子ぶっこいていらんことまで喋る性質は、これっぽっちも直っていないのだから。