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の動向はもえじら組ブログで。
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顕名・実名の人の言及に対して匿名の人が「失礼」というのは成立するのか?で紹介されていたやりとりを見て思ったこと。
自分自身がかつて2chとかでやったことを振り返ってみても、今2chで見られるやりとりを見てみても、匿名で物を書いて、その内容にケチを付けられた時、必死になって自己弁護するのも、悪かったと言って素直に謝ってみせるのも、どっちも滑稽だなあ馬鹿馬鹿しいなあと思う。
過ちを認めないで必死で自己弁護する姿が滑稽なのはまあ大抵の場合そうだと思う。けど、素直に謝ることまで滑稽と感じるのは何故か。それは、謝る意味が全然どこにも全く感じられないから。謝ることの目的は何だ? 「俺は過ちを素直に反省できる人間なんだぜ」と周囲にアピールしたいのか? でもどうせ名無しじゃん、信用を築く必要なんてどこにもないじゃん。「相手の気持ちを鎮めるため」? あんたが元の間違った書き込みをした人間だとどうやって証明するんだ(ID強制表示の板はともかくとして)。相手がまだそのスレにいるってどうやって確かめるんだ。「自分自身、間違ったことをしておいて平然としているのはポリシーとして許せないから」? そんな自意識を公共の場に持ち込むなよオイ。
2chにせよはてな匿名ダイアリーにせよ、匿名で何か書いたとして、その内容が間違っていたのなら、ツッコミに対しては関知せず、そしらぬフリをして別の「名無しさん」として再び流れに加わるのが、「ツッコまれるようなアホな事を書いたこの名無しは俺とは別の名無しだから関係ないね」という顔をしてスルーするのが、匿名メディアの、自然な在り方・使い方なんじゃないのかなーと、僕は思うのですよ。
まあ、そういう考え方自体もただ僕自身の印象を投影してそう思い込んでるだけなのかもしれませんけどね。
「僕には実績がない」というと「何言ってやがる」と反論されることがあるんだけど、僕はどうやら、自分のすることについては「お金を生み出せなければ実績とは呼べない」と心の奥底では考えているようだ。
書いた本は重版されてないようだから採算が取れたかどうかも怪しいし、会社の仕事は僕のしたことが直接お金に結び付いたことは原稿料くらいしかないし、その原稿料も雑誌が潰れてるんじゃあ結局売り上げに貢献できてなかったって事だし。パソコン教室の先生のアルバイトをしてたときだって、他の先生の稼ぎにおんぶにだっこしてもらってたようなもんだし。
だからこそ僕は、お金になりそうな仕事となると力が入るし、頓挫してしまったらとても落胆する。
僕の手元に入る金が増えなくてもいいから、僕の周囲にいる人達や僕に関わった人達、金を払った人達が報われるように、せめて、なってほしい。そういう風にしたい。そうなって初めて、僕は僕の仕事を「実績」と捉えられるようになるんじゃないかと思う。
コメント書いた後から、Amigomr氏が新しいエントリで事実上の決別を明言されていたことに気がついた なんだ自分……まるっきりアホやん。
僕から見ても、ああ若いなあ、と感じた。かつての自分を思い出す。「(誰)」とか「(謎)」とかのジャーゴンを公の場で使って内輪ウケしてそれ以外の人を消極的に拒絶するサインを無意識下に放っていた人達に対して、「過去ログ読め」とか「まず自分で調べろ」とか「そもそもこの用語は云々」と含蓄を垂れ流すとかの「技術系」コミュニティに対して、激しい反発を感じ、それらを正すことを己の使命と感じていた頃のことを。しがらみに囚われていない素人ならではのストレートな意見こそが世界を変えるのだ、それを受け入れられない奴らは自己保身のことしか考えていない、と考えていた。NOを表明することで、厳しく非難することで、正義の鉄槌を下しているつもりでいた。その快楽に酔いしれていた。あの頃の僕は。
今でもそういう気持ちを全くなくしてしまったとは思いたくない。それを全くなくしてしまったとしたら、現状に流されるだけの人になってしまったということだから。
ただ、あの頃からちょっとずつ思うようにはなっていて、時間が経つごとにだんだんハッキリとしてきた、一つの思いがある。それは、自分の最終的な目的がどこにあるのかをハッキリさせなきゃいけないっていうこと。そうしないと無駄ばかり大きくなって、得る物がないということ。
普段は社内で言われたことをハイハイとこなすだけなんで、たまに社外の人とコンタクトを取る時には異常に緊張する。
社会に出てもう2年経つのに、電話の受け方もメールの書き方も全然まったくさっぱり分からない。社外の人宛の仕事のメール書くときは一言一句これで本当にいいんだろうかと悩みに悩む。上司(=社長)に「これでいいんでしょうか?」といちいち確認してからでないと怖くて送れない(いや実際には確認してもらわず勝手に一人で送ってる場合が普通なんだけど、確認してほしいといつも思ってるってことです)。社内の人づきあいとか、結構アバウトにやってても見逃してもらえてるから、空気の読み方とか全然身についてない。いつも私服だから、スーツはいつまで経っても似合わない。ネクタイの締め方すらも覚えてないから、本見て締めた後にそのままほどかず置いてある(ぉぃ)。
ビジネス上のつき合いというものが分からない。接待で飲みに行くという事も無いし、仕事つながりの人と飲んでも「なんだよ俺の酒が飲めねえってのかよ」と強要される事も無い。普通に「飲めないんですよ」と断って相手が「あ、そう」と引き下がりそれで別に関係が壊れたりなんかしない、という付き合いしか経験したことが無い。体育会系のノリというものが全然分かっていない。
ある程度以上の規模の会社だと、就職直後には新人研修というのがあるらしい。どんな世界なんだろうか。高橋しんの「いいひと。」でスポーツ用品メーカーの新人研修風景が描かれてたけど、ああいう感じなんだろうか。想像がつかない。
大企業で働いている同級生と会った時にはそういう差を痛感するし、まだ学生の知人友人と会った時に僕の様子を見た彼に「社会人っていってもちゃらんぽらんなんだな」なんて思わせてしまって彼の将来に悪影響を及ぼしてるかもしれないと思うと、罪悪感すらある。
甘やかされてるよなあ、ぬるま湯に浸かりすぎてるよなあ、と思う。たまに。
【朝日】「いい加減なやつを気楽に食べさせてほしい」…日本食認定問題
こういう反応(元記事の内容ではなくて、認証制度批判を批判してる方)見て、よくよく考えてみると、馬鹿だなーお人好しだなーと思う。馬鹿でお人好しな僕がそう思うくらいなんだから本当にそうなんだと思う。
いや、まあ、ちゃんとした日本料理はこういうものですよっていうのを示していくのは大事だと思うよ。今や日本は文化を輸出する国だから。
でもこの方法がどれだけ実効性があるっていうんだろう? 批判を受けないようなやり方でどれだけ実効性を保てるっていうんだろう? 「偽物を排除するわけではない、本物を認定するだけだ」って言うけれども、「偽物の本物」が出てきたときにはどうするんだ?
「本物の日本食ですよ」という認証マークを偽造して商売しだす奴って、絶対出てくるでしょう。今ですら厚顔無恥な事をやってる人間が、その程度のことをためらうはずがないと思うんだけど。そこで「ためらうはずだ」って考えちゃうのが、もう、どうしようもないお人好しですよ。恥の文化の日本人的発想。その発想の範囲内で考えてちゃ意味がない。
安売り・偽造されるような認証マークじゃ意味がない。取り締まって初めて価値が出る。偽の「本物日本料理」認証を使ってるところを片っ端から訴訟に持ち込んで、全勝して、「本物日本料理」認証の価値を維持していかなければ、この認証には全く意味がない。そういう意味で、この制度の実効性を保つために「スシポリス」は絶対に必要になる。国際的に非難を浴びるくらいのやり方で強引に進めないと意味がないんじゃないの? 僕ごときでもそう思うのに。
そこまでしないんだったら、本当に、ただの時間と金の無駄にしかならないと思う。数年と経たないうちに認証制度は形骸化して、「本物の認証店」と「偽物の認証店」の区別がつかなくなると思う。何の「仕事」もしない天下り先が増えるだけに終わると思う。
……っていうのは悲観的すぎる見方でしょうか?
考えてみたらこれって、警察とかのサイトが無断リンクを禁止してるから却って無断リンクに価値を与えてしまっているという話と似てるかも。
ちょっと実家に短期帰省中なのですが。
東京に引っ越した当初は、エスカレーターの左に立って右は歩く、というルールに違和感を感じたものですが、たまにこっちに帰ってくるとつい左側に立ってしまう自分がいて、なんだかんだで順応してるんだなあと思い知らされます。
あと東京だと若いカップルも熟年カップルもふつうに手繋いで歩いてるのをよく見掛けるんだけど、大阪だと全然見掛けないなあ、ということにも気がついた。土地柄なのでしょうか。
ものすごく久しぶりに銀行口座の通帳記入をしたら(実はまだ東京で口座開いてなくて、こっちのローカル銀行の口座を使い続けてる)、最後のページまで一気にびっしり埋まってしまいました。
あとこれは極めてどうでもいい話ですが、僕の部屋に父の荷物がどんどん増えていて足の踏み場も無くなっています。これは、帰ってくるなという暗黙の意志表示なのでしょうか。
そもそもパソコン雑誌やWEBで評判になってる代物は別段最新って訳じゃ無いって話。(私も優越感に浸るのは三度の飯より好きな方だが)
ラボのなかでクローズドで開発されていてその成果も表に出ていないか出ていても僕ら一般大衆の目に触れる・手に届く所には無いという風な場合、地球以外のどこかの星で人類の科学よりずっと高度な科学技術を持ったETが暮らしている、というのと主観的には違いが分からない訳で。ラボの中の最新技術というのは異星人からもたらされたオーバーテクノロジーみたいなものなわけで。そういう意味では、MozillaもOOoも最初はオーバーテクノロジーからスタートしたようなものなわけで。
「最新」とだけ言うとまた意味が違ってきそうな気がするけど、なんだろう、うーん。べつにprototype.jsもscript.aculo.usもRubyもRuby on Railsも僕が開発した訳じゃないしそもそも一遍たりとも関わったことが無いくせにこんな事言う資格無いわけだけれども、「僕達一般大衆の血肉になっている範囲の最新」とか「僕達一般大衆が生み出した物の中の最新」とか、それはそれで価値があるものだと依然として思うのですよ。
「ブログに載る(略)よくある」既出指摘されると怒る若人には済まないがその通りだったり。基本は黙って商品化。しかもしばしば特許化。良いアイデアや先進技術はHTMLではなく製品で表現。社会貢献は製品の効用と納税。
Google従業員が仕事のことをblogに書かない。富士通の人の批判は「梅田的blogプロパガンダ」に囚われ過ぎ。など冷ややかな意見もあり、自分はこちらに注目した)
技術とか全部オープンにしてて、競合するクローズドな所に比べて儲かってる所って、実際あるんかね? ギークに好かれてるGoogleは大儲けしてるけどコアの製品技術は秘密だし、Mozillaは儲けてるって言っても実際にはGoogleに飼われてるだけみたいなもんだと思うし。
オープンにした場合、大抵は金を消費して減らすだけで、新しい金を生み出すことには繋がっていないんではないか、という気がする。
ただ、金は生み出せないかもしれないけれども、別の形の何かは生み出せるのではないかとも思う。例えば、便利で有用で守秘義務とか特許とかでがんじがらめになっていなくてみんなで自由に使い回せるコードなんかは、「スポンサー自身が金を儲けるために金を出してくれるスポンサー」に飼われた状況下では、生み出しづらいことも多いのではないかと思う。
資本主義社会に生きる僕らだから、金を生み出せない物には価値がないと考えがちだけれども、でも、本当に生み出したい物は何かと問うた時に「金ではなく豊さだ、幸福だ」と考えて、そして最終的に豊さ・幸福を生み出せるのであれば手段は問わないと言えるのであれば、オープンにすることにも意義が感じられると思う。
っていうかbrazilさん自身も、こう書いている。
ブログを書くことで、良い仕事に参加できた。
素晴らしい人にも出会えた。
今は、金は儲かっていないが、いずれどうにかなるだろう。
「スポンサー自身が金以外の価値を手に入れるために金を出してくれるスポンサー」に飼われて、金を燃料にして、豊かさや幸福を生産する。そういう世界に多分僕はちょこっとでも関わっているはずだ、俺はカネにしか目が行ってない奴とは違うんだぜフヒヒヒそんな俺カコイイ、とかなんとか考えて、僕はちっぽけなプライドを満足させることにしています。
Anthyは赤松健を一発変換できるのにATOKはできないんですね。
「痛いニュース」のコメント欄で赤松氏がトークライブで語った内容の一部が紹介されてたのに気がついて、見てみた。
熟女の話で流されてる感があるけど、赤松氏自身がラブひなを「ひきこもり養成漫画」と認識していたという事がハッキリ分かって、自分の中で判断がつかずモヤモヤしていたところが一つスッキリした。この手のジャンルでここまで大ヒットした作家が他にいるのかどうか僕はよく知らないけど、ここまで読者の「こうあって欲しいなあという欲望」を的確に刺激しまくる漫画を、素で作っていたのだとしたらそれは相当頭のおかしい人だと思うし、狙って作っているのだとしたら(そして事実はこちらだったようだ)なんとも罪作りなことだなと思っていた。
どんな漫画であれ映像作品であれ、作者自身のやりたいこと・言いたいことが込められていて、その味付けとして読者への媚びがある、という原則があるからこそ僕は漫画家や映画監督やなんかを創作者、表現者、クリエイターだし、作品は作品たり得ると思っている。でも完全に自分を殺してただ読者ウケのよいものを生産し続けるのなら、それはただの工業製品ではないのか。特に赤松健は、スタジオ方式をとることで究極的には赤松氏自身がいなくても漫画を生産し続けることができる体制を整えてしまっているとも聞く。まさに「工場」ではないのか。
というよりも、そういう工業製品だったからこそ、赤松健の漫画は売れたのではないか。僕らは赤松健の漫画をありがたがって買っていたのではないだろうか。
そういう赤松健という工場を僕はここで非難したいわけではない。それよりも僕が非難したいのは、そういう工業製品に傾倒した僕自身であり、傾倒したファン達だ。工業製品であると僕は知らなかったけれども、でもそこで感じていた嫌な感覚の矛先は間違いなく自分自身に向いているからこそ、僕は、反吐が出たんだ。