Feb 11, 2007

ひきこもり養成漫画工場

Anthyは赤松健を一発変換できるのにATOKはできないんですね。

「痛いニュース」のコメント欄で赤松氏がトークライブで語った内容の一部が紹介されてたのに気がついて、見てみた。

熟女の話で流されてる感があるけど、赤松氏自身がラブひなを「ひきこもり養成漫画」と認識していたという事がハッキリ分かって、自分の中で判断がつかずモヤモヤしていたところが一つスッキリした。この手のジャンルでここまで大ヒットした作家が他にいるのかどうか僕はよく知らないけど、ここまで読者の「こうあって欲しいなあという欲望」を的確に刺激しまくる漫画を、素で作っていたのだとしたらそれは相当頭のおかしい人だと思うし、狙って作っているのだとしたら(そして事実はこちらだったようだ)なんとも罪作りなことだなと思っていた。

どんな漫画であれ映像作品であれ、作者自身のやりたいこと・言いたいことが込められていて、その味付けとして読者への媚びがある、という原則があるからこそ僕は漫画家や映画監督やなんかを創作者、表現者、クリエイターだし、作品は作品たり得ると思っている。でも完全に自分を殺してただ読者ウケのよいものを生産し続けるのなら、それはただの工業製品ではないのか。特に赤松健は、スタジオ方式をとることで究極的には赤松氏自身がいなくても漫画を生産し続けることができる体制を整えてしまっているとも聞く。まさに「工場」ではないのか。

というよりも、そういう工業製品だったからこそ、赤松健の漫画は売れたのではないか。僕らは赤松健の漫画をありがたがって買っていたのではないだろうか。

そういう赤松健という工場を僕はここで非難したいわけではない。それよりも僕が非難したいのは、そういう工業製品に傾倒した僕自身であり、傾倒したファン達だ。工業製品であると僕は知らなかったけれども、でもそこで感じていた嫌な感覚の矛先は間違いなく自分自身に向いているからこそ、僕は、反吐が出たんだ。

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