たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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ショップQQで買い物をするとき、税込み価格が103円になる時と104円になる時がある。
99円ショップなのに実際は98円の商品も混ざっていて小数点以下一律切り上げ(または四捨五入)なのか、レジ係の人の気分次第で小数点以下を切り上げたり切り捨てたりが変わるのか。
謎だ。
Webサイトの管理担当者がSSL 2.0の危険性を理解していないうんぬんの話を見てて思ったこと。多分前にも似たような事書いてると思うけど。
この人に限らず技術系の人って、他人が賢くあることを期待しすぎてると思う。特にセキュリティ関係の人のその手の言動が目に付く。セキュリティ上の危険性について啓蒙することの正しさを信じてやまないからなのだろうけど。かつても自分自身、W3C信者としてあちこち突撃かましてたしね。
TBEをハックしてFirefox 2で動くようにしてしまった人がいるよーです。アホちゃうか! 作者ですら投げてしまった物を……(褒め言葉)
ということでDebian使いな人にお願いしてパッケージをダウンロードしてしてもらい、あわよくば変更点を取り込ませていただこうと思ってとりあえずFx 2でちゃんと動くかどうかを試してみたら、なんか、ツリーモードとかばっさり削除されてましたショボーン。やっぱり自分で作りなおすしかないのか……
美しさを追求するという事は、醜さを排除するということであり、差別するということだ。差別を認めないということは、醜さを容認するということであり、美しさの追求を放棄するということだ。
ということは、差別を容認・推奨する右翼は美しくて格好良くなり、差別を否定する左翼はダサくて醜くなるのではないだろうか。美しくて格好良いものは右翼的であり、ダサくて醜い物は左翼的なのではないだろうか。
――という暴論を思いついてみた。
マウスジェスチャやなんかの「覚えないと使えない機能」を、僕があんまり使う気になれないのは、「自分の脳の容量を消費してそれらの機能の使い方を記憶しておく」だけの価値をWebブラウズという行為に対して見出していないからなのかもしれない。
その代わり僕は、タブの表示を変えるだとかの「目に見える機能」は比較的よく使う。「HDDの領域と画面上の表示領域を消費してそれらの機能を付け加えておきたくなる」程度には、Webブラウズという行為に価値を感じているようだ。
ターゲットとしている層のユーザが、どの程度Webブラウズという行為に価値を見出しているのか、という観点、「よりPCを使いこなせている」とかの習熟度によってではなく、PCの利用目的とその重要度によって、ユーザを区別するという観点からも、ブラウザのUIの作り方を考えることはできるのだろう。その観点から見ると、Firefox(の初期状態のUI)は比較的「Webブラウズにあまり重きを置いていない人」向けの、Operaは「Webブラウズを重要と考えている人」向けの作りになっていると見ることができるかもしれない。ということを、ふと思った。
僕ら非モテは、女性とコミュニケーションを取る機会が非常に少ない。男だらけの職場であるとか、その趣味のオフ会に行って喪男しか集まらないとか。にもかかわらず、いっちょ前に恋愛への渇望だけはある。そのため、女性と接する機会がない現状に強い不満を感じ、飢餓状態にある。心のスポンジがカラッカラの乾燥状態にある。
だから何の偶然か女性と接する機会を得ると、その女性を求める感情が「単なる飢餓感からのもの」なのかそれとも「社会的にそうあるべきとされている恋愛感情」なのかを吟味する間もなく、その女性に飛びついてしまう。心のスポンジの奥底までその女性のことを染み渡らせていいのかどうかを考える余地もなく、毛細管現象で心のスポンジの奥底まで自動的にその女性のことが染み渡っていく。
つまり一言で言えば、非モテは惚れっぽい。
そして非モテの中には、自身がそういう性質を持っているということをはっきりと自覚している、言うなれば過剰自己分析型の人が少なからずいる。僕自身もそういう人間だと思う。
そういう人間は、ある女性に対してときめいた時に「これは、恋……? いや違う、単に飢えてるから誰にでも反応してるだけなんだ、その人個人のことを想ってドキドキしてるわけじゃないんだ。これは、その人のことを好きだからドキドキしてるんじゃないんだ。」と自分で自分の感情を分析して、「そんな下らない感情で他人に迷惑をかけてはいけない」と自分にブレーキをかける。その結果として、誰に対しても一定のライン以上好きになることはなく、誰か女性個人を好きになることができず、にもかかわらず渇きと飢えはなくなることはない。そうして、「あの人を彼女にしたい」ではなく「誰でもいいから彼女が欲しい」という考えだけが継続して存在し続けることになる。
この事に対して、「本当に好きかどうか」なんかを気にする事に意味があるのか?と、シロクマ氏は問うている。そこでここでは、「本当に好きかどうか」を気にすることの無意味さを検証してみようと想う。
非モテ(の中のある種の人達)の特徴(優しい男は損ですかより抜粋)→それってアスペルガー症候群?
まあ即アスペルガー症候群だと言い切ってしまうのは短絡的すぎるしこれは冗談なのだと思うけれども、社会生活を送ることが著しく困難なレベルとまでは言えないけれども軽度のそれであることが疑われる、とか、その傾向がある、とかいうことは言える場合もあるんだろうな。と思う。
これを「全くのデタラメでありこじつけだ」と断言してしまうというのは、「そんなの努力が足らんだけだ」「根性が足りんのだ」と竹刀持ってケツをひっぱたいて無理矢理走らせるような人がしてることと同じことのようにも思う。
でも「それでいいんだ」と言ってて世界が回るのかな?という疑問もある。ビジネスの現場ではやっぱり非モテは求められてなくてモテの人の方が必要とされているようだということは、つまり、非モテは社会不適合者。非モテなんか世界にイラネーヨ、ということなのだろうし。
大抵のことには価値を見出すことは多分可能で、非モテにも価値を見出すことはできるのかも知れない。でもそうして自分達で見出した価値に社会が価値を認めない限りは結局、価値が無いことに変わりない。
タブバーを縦置きできなくて困ってる人が僕の書いたタブ縦置きスタイルを実践しようとしてるのを見て、「うわーちょっとまってくれー」と言いたくなった。僕の書いた記事のアレは、拡張機能を全く導入していない素のFirefoxであることを前提にしていて、拡張機能によってXUL部分の構成が変わってしまっている場合、正常に機能しない恐れがあるから。
ちょっとしたXULとCSSの知識があれば「変更されたXUL」に合わせてuserChrome.cssの記述をいくらでも書き換えられるんだけれども、それを持ち合わせていない人にとっては手探りで闇の中を歩くようなもので、自分が生きるためのはした金のためだけに、そんな暗闇に小さなカンテラを持って人を連れ込み、深みにはまったところで火を消して人を置いてけぼりにするような真似をする自分のような人間は、火の中に投げ込まれるべきなのかも知れない、と思った。
FreeBSDのatacontrol(8) の必殺コマンドとかいうのを使うとBIOSレベルで認識されないHDDを認識させることができるとかできないとか……
そもそもFreeBSD自体使ったことがないし使えないから僕にはこういう「技術力のある人ならではの裏技」を実践できないわけですけれども。お金払っても全然構わないんで、ここまでできる市販のツールがあればいいのになあと思う。
弟の逝ってしまったHDDもこの方法を使えばもしかしたらデータを救出できたのだろうか。逝ってしまったのも何もべつに僕のせいではないんだけれども、この知識が自分にあれば力になってやれたのかもなあ、と思うと、ちょっと切ない。
みやきち氏の沸点の低さもどうかと思うけれども、こしあん氏の無邪気さもどうかと思って、この事例を教材にして自分の言動には気をつけたいものだなと思った次第です。
とかなんとかこうして書いてしまう僕の「無邪気さ」もそーとーなものだと思いますね。