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の動向はもえじら組ブログで。
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武器付きのアレが届きましたが、肝心の本体の方が昨年末の段階から一歩も進んでない件。
プログラムを書くことについて、自虐っぽい事をたくさん言ってきたけれども、そのくせどうして今までこんなことすら自覚できていなかったのか。
それは多分、何だかんだ言って、プログラムを書いて何かする・何かできる・何か作れるという事が、自分にとって唯一誇れそうな要素だったからなんだろうなと思う。それを否定してしまったら後には何も残らなくなってしまう(運動はできないし、異性にモテるわけでもないし、オシャレになれるわけでもないし、絵だって流行りの絵柄に追いつけてないし、かと言って他の誰も真似できない個性的な絵を描けるわけでもないし、Web制作の世界でも気付いたら取り残されてたし……)からなんだろうなと。自分にとって最後の砦だったから、ダメな所を直視しないようにしてたんだろう。
あと、逆に、「ダメでもいいや」って思ってる所もあったと思う。普通、この歳になると部下ができたり、部下じゃなくても後輩で新人が入ってきたりして、追いかけられたり追い抜かれたりする不安を抱えながらそれをバネにして「上司」とか「先輩」として成長していくものなんじゃないかと何となく思ってたけど、気がついてみたら、今まで自分より後から入ってきた若い人と仕事をするという事が全然無くて、基本的に自分が常に下っ端だったから、その現状に甘んじていた、そういうところがあったと思う。本当は歳相応の能力を身につけられていない、成長できてないのに、「下っ端でもそんだけできてんだから、大したもんだ」みたいに自分も他人も下駄を履かせて見ていたんじゃないか、って気がする。
なんとなくそれなりに順調に生きているような気がしていたけれども、色々な事がうまくいかなくなってメッキがはがれてきて、自分自身の事なんだけどなんというかとてもガッカリしている。失望している。
regression(後退バグ。修正のために加えた変更が原因で新たな問題が発生すること)のせいで体力・精神力を消耗する事が重なり、自動テストドリブンな開発の重要さを身に染みて感じた。プレゼンでも言ったけど、「やってりゃ良かった」と後悔してばかりだ。まさかこんなに手こずる羽目になるとは当初は思っていなかったから。
自動テストはregressionの発生を防ぐ(正確には、regressionを残したままでいることを防ぐ)素晴らしいメソッドだ。と今になって改めて思う。
でも、どんなコードでも機械的に自動テストにかけられるわけではない。機械的に自動テストを実施するには、自動テストを実行しやすい設計になっていなければならない。自動テストを実行しやすい設計とは、粒度が小さい=オブジェクトやらメソッドやらが可能な限り細かい単位で分割されている設計のこと。テスト対象となる部品自体が可能な限り自己完結していて、外部的な要素は必要に応じてすべてパラメータとして与えるようになっていること。横着して一つの関数内からグローバル変数やら何やらを参照しまくっていると、その関数のロジックそのものをテストすることができない。
そういうわけで、自動テストドリブンな開発には気を遣わなければならない。気を遣わないといけないから気力を消耗する。だから、せずに済むのなら、しないままでいたい。でも、そう考えているうちに「自動テストを作成する&テストを実施しやすい設計にするコスト」と「やっつけで作って、その都度メンテナンスするコスト」の関係が、「前者>後者」だったのがいつの間にか「前者<後者」に逆転してしまうようになっていて、メチャメチャ後悔することになる。
今まで自分のやってきたことは9割方、自動テスト無しでもどうにかやってこれていたし、そもそも、自動テストの重要性とそのための設計の指針が分かった今改めて見返してみても、自動テスト化することが困難な物が多かった、と思う。だから、自動テストを前提にしてコードを書くという習慣が身についていない。自動テストが最初から不可能な事が多かったから、自動テストのできない設計にするしかなかったから、自動テストのできない設計にすることが当たり前になってしまっている。
でもいい加減、その悪習を断ち切らなければならない。25歳ももうすぐ終わりの、四捨五入すれば三十路の、今更も今更で手遅れ感がとても強いけれども、やらなければいけない。今まで自分がやってきた方法は通用しないということを自覚しないといけない。できて当たり前の事が今まで全くできていなかったという事、本当はこの面子の中で飛び抜けて一番遅れているという事、それなのに対等であるように勘違いして思い上がっているという事、今まで他人事だと思ってた「ダメな人の典型」に自分がまったく当てはまっているという事、全部認めないといけない。
そういうわけでとりあえずUxUはマジオススメ。
ついに親の意見キタ - コデラノブログ 3で知った。こないだの当時未成年だった被告人への死刑判決といい、なんていうか、まだまだまともな人はいるんだ!と分かって胸が熱くなったよ。
事前に出てた絵からは話の中身が想像付かなくて、いわゆるディズニーディズニーした感じのやつなのかなあと思ってたんだけど、たまごまごごはんのレビューで「えぇぇぇぇ?!」と思って実際見てみたら案外ワロタ。
1話2分のショートアニメなので、気軽に見れる。
こんな記事があったんか……
Pop Styleブログ 宇多丸×掟対談
名前が挙がってる曲を聴きながら読むとなかなか感慨深い物があります。
2008年4月17日から19日にかけての社員旅行で行った、猪苗代湖~磐梯山~喜多方~会津若松あたりの記録。文章は後で書く。
おお、これは……戻る/進むサムネイルでそのうちやりたいと思ってた事そのまんまだ。自前サムネイルを持つのをやめて、これのサムネイルを参照するようにしようかなぁ……
『わからない』と言う人間は、2種類しかいないんだ。
わかれない人間と、
わかりたくない人間。 どちらかなんだよ。
「分かりたくない人間」な人に「分からない(から教えて)」と言われた時、「分かれない人間」から「自力で分かるために必要なプロセス」「分かり方」の教えを請われたと勘違いして一生懸命「分かり方」を説明するんだけど、その人が求めているのは「分かった結果の成果物」「答え」であって「分かり方」になんてちっとも興味がなかった、だから「分かりたくない人間」のその人はなかなか求めている物が得られなくてイライラするし(「あいつはいつも話が回りくどくて困る」とすら思ったりする)、教える人はなぜこうして何度も教えてやってるのにいつまで経っても「分からない」のか、「分かるために必要なプロセス」を身に付けられないのか、とイライラする。不幸なディスコミュニケーションだ。
その人が「分かれない人間」なのか「分かりたくない人間」なのかを初っぱなの段階で見抜くことが、うまく生きていく上で必要なのかなと思った。
なんでも評点:人は選択肢が多いほど疲れることが判明 ― だからネタ探しは重労働。能動的なネットが受動的なテレビに勝てないのもこのため?
実感としてなんとなくそうだよなとずっと思っていたので、それが実験によって示されたというのは、ほっとしたというか、合点がいったというか、言葉にするのが難しいけど、「選択できるのが良いことだ」とオウムのようにそればっかり繰り返すことの愚かさを科学的に指摘できる材料が一つできてちょっとグッと来る、そんな感想を持った。拡張機能を何千個と並べてそれだけで良しとしてちゃいけねえよと。
でもこれはFirefoxにとっては武器にもなり得るよね。多機能な製品ほど精神を疲弊させる、その点素のFirefoxは機能がそんなに多くないから楽に使えるよと。必要になったら人に勧められた拡張機能をその都度入れればいいのだから、と。