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の動向はもえじら組ブログで。
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非モテと共同体より。
ここまで書いておいて何なんですけど、今の非モテの人の特徴というのは、「ルサンチマンを苗床にして右や左の政治思想に傾倒、あるいは宗教にハマる」という行動を取らないところじゃないかと。これがオウム以前だったら宗教に救いを求めたり、学生運動華やかなりし時代だったら左翼に身を投じていたのかもしれない。つまり、どんな時代にも非モテはいた。「恋愛でつながれないから思想(or信仰)でつながりたい」とか、「俺が正当に評価されない(モテない)のは社会が悪いせい。だったら思想で世の中を変えてやる」とかね。
今はそれらがどれもこれも信用ならないってことがわかってしまって受け皿がなくなってるんですね。それで信じるに足るものが見つからず迷走してるのが今日の非モテの状況じゃないかと思ったりもします。
あ、これ凄く納得。なぜなら少なくとも自分はそういうところがある。「Web標準」とか「オープンソース」とか「Firefox」とかその辺に傾倒してる動機のいくらかは、単なる反体制的感情、というかルサンチマンに基づいてる。
そういう感情に基づいてベタボメしてた物が、実は冷静に見たらそんなにいいものでもなかったと気付いたとき、結構ショックを受けるものだ。それでもなお自分で目を瞑って耳を塞いですがり続けるか、別のすがりつく先を探すか。どっちにしても、現状から目を背けてることに変わりはないんだよな。
そういう社会的な逃げ場がもう残されていないから、もっと小規模な、個人的な逃げ場、何があっても絶対自分を見捨てないでいてくれる人、そういうものを僕は求めるのかも知れない。
ということに気がついてしまったので、タブのツリー表示実現に向けて久しぶりにゴリゴリ書いてます。
擬似ツリー表示の時は、タブの並べ替えのアルゴリズムをいじらなあかんとか、ユーザによるタブの並べ替えを制限する必要があるとか、今のままの実装では困るところがあったので、そこにも手を加えつつ。もうちょっとでお目見えできそうですよ。
はっきり言って内部的にはオーバースペックな感じだったタブのグループ化機能、無茶して実装しといて良かったなーと思った瞬間でした。
H.264すげー! ていうかAACすげー!というエントリを見てQuickTime Player 7 for Windowsで試してみた。
QuickTime PlayerのA/Vコントロールの機能のひとつに、対応形式であればなんでも音程を変えずに再生速度をコントロールできるというものがあるのね。初めて知ったよ。試しに手持ちの.mp3な楽曲ファイルを再生させてみたら、ちゃんと音程変えずに再生速度だけ速くなったりゆっくりになったりしてくれた。
.mpgの動画では音程が変わってしまった。これが動画のエンコーディングがH.264で音声トラックがAACになってる動画だったら動画でも音程が変わらない、というのがリンク先の記事の要旨なのかな。
BPMがやたら高いユーロビートな曲をこれで半分の速度で聴くと、なんだか変な感じだな。
非モテと保守反動とか革新とかの話へのはてブのコメントに対して僕がボヤいたらエントリ立ててまで反応しなおして下さった。律儀な人だなあと思いつつ、非常に興味深い話になっていたので楽しく読ませていただいた。
ユーザを安全圏から無責任な発言をすることに慣れさせ、こういう発展を阻害する、議論の発展の可能性の芽を摘み取ってしまうのは、はてなブックマークの悪いところだ。
……と、まとめてしまうのも乱暴な話だ。なぜなら、エントリを立てて何かを発言すると、自動的に、誰かから言及されるリスクを負うことになる。発展的な議論を行うことは義務ではない。人には、そういうリスクを負わずに自分の考えを自分の名の下に表明する自由がある。はてなブックマークはその自由の体現なのだろう。
著者以外が送るTrackBackについてというエントリで2年以上前に議論済みのことだったのね。blosxom導入したのがワリと最近だから、意識の圏外にすっ飛んでた。
結論的にはどうなっとるのかよく分からんけど、とりあえず僕は便利だと思ったので、今後は「他人のサイトのエントリを自分宛に自分で送信したTB」ということを明記した上で利用していこうと思うのだけれども、やっぱリ問題有りですかこういう態度は。
13年前に行われた、小学校で3年間豚を飼ってその最後をどうするか自分たちで決めさせるという教育のドキュメンタリーについての話は、考えさせられる物があったなあ。あと、何でも全部先に答を言ってしまう先生は良くない先生だとかそういうのも。石原都知事の教育観とか。
子供の教育というのは、刺されたり撃たれたりとかそういったホントにヤバイ危険から隔離した上でトレーニングを積む、というのが本質なわけですよね。教師がカリキュラムを組んで教え込むというのは、その本質を受けて実践する上での一つの表現形でしかなく、絶対そうでなくてはならないというものではない。
「数学の因数分解の理屈を、数学の因数分解として実生活で使うことはそうそうない。でも、小説や映画など別の分野で転用することができる。そういうトレーニングを詰め込み教育でたくさんやることが必要だ。」本当に大事なのはここなんだろう。それなのに、その大前提とか本質を、教える側が見失ってしまう。
あと、教師でもないし人の親でもない僕のような小僧がこういう事を考えるっていうのも、大事なことだと思うんだ。必ずしもそのままの形での実践を前提にするんじゃなくて、他のことで活用できるような応用可能なものであると捉えて。
久しぶりにTab Mix Plusの設定を覗いてみたら、また機能が増えてた。
今のところ、TBEになくてTMPにあるのは以下の機能かな?
さて、これらの機能をTBEにも取り込むべきか否か。
最初に挙げたやつは便利そうなので是非とも取り込みたい。あとステータスバーのプログレスバーを隠す設定。実際使ってみるとこれはこれでいいね。タブ上でのクリックに機能を割り付けるのは、まあ、やろうと思えばできるんだけど……どうしよう。これ以上セレクトボックス増やして大丈夫かな。
「ウィンドウのマージ」は、ウィンドウ間でのタブのドラッグ&ドロップで代用して貰うことにしたい。(選択→)処理 というTMPの操作を取り込むのはちょっと面倒。タブのスライドショーや「新しいタブ」で開いたタブにフォーカスしないとかは、いまいち「それを使ってどのようにWebブラウズが便利になるのか」が分からないんで、微妙なところだな……
哀さん以外誰も何も言ってくれないので凄く気になってんですけど、設定のしやすさとかってどうなんすかね? TBEでは、内部的にはbool値の組み合わせで設定してるようなものも、GUIでは「選択肢からラジオボタンで選ぶ」形で表現するよう心がけてたりしてんですけど。あと、「~しない」系のチェックボックスを「~する」に反転して、可能な限り「~する」に揃えてたりとか。こういうのって無意味なのかな。こっちは努力してるつもりでも、利用者からしたら「どーでもいい」ことなんかな。
コールドゲーム(著:荻原浩)(Amazon.co.jp)読んだ。こないだの親指さがしみたいなどうしようもないのだったらどうしよう(意味不明)、と戦々兢々としてたんですが、杞憂でした。おもろかった。
高3の夏、復讐は突然はじまった。中2時代のクラスメートが、一人また一人と襲われていく……。犯行予告からトロ<ruby><rb>吉</rb><rp>(</rp><rt class="読み">よし</rt><rp>)</rp></ruby>が浮かび上がる。4年前、クラス中のイジメの標的だったトロ吉こと廣吉。だが、転校したトロ吉の行方は誰も知らなかった。光也たち有志は、「北中防衛隊」をつくり、トロ吉を捜しはじめるのだが――。やるせない真実、驚愕の結末。高3の終わらない夏休みを描く青春ミステリ。
以上、カバー後ろのあらすじより。
笑えて、ちょっとほろっと来て、考えさせる物があって、首筋のあたりがゾクッと来る。そんな小説でした。赤いモヒカンとか、ギャグとしか思えないんだけど、凍り付いた笑いしか出ないというかなんというか……
明治セックル維新 新政府御性文帖→価値観の多様化について。本文だけでなくコメント欄のやりとりにこそ注目したい。
社会で主流となる価値観が変わったにもかかわらず、その変化に追随せずそれまで主流であった価値観を堅持すると、その人にとってその社会は生きづらくなる。そのため、自分が変化に追随するのではなく社会の側を元に戻すことでその人にとって住みよい社会を取り戻そうとする……というのが、保守反動という立場だ。
故に、非モテ者が、自分自身が「脱非モテ」=「モテ化」しなくても住みよくなるよう社会の側を変えることを望む――具体的には例えば「見合い」や「地域の共同体」といった既に存在感を失ってしまったかつての文化や権力を復活させるというのは、望むと望まざるとに関わらず「保守反動」にあたるものだと言えると思う。
とはいえ、今現在「非モテ」で悩んでいる人の多くはかつての「共同体重視、個人軽視」の価値観の社会は肌で感じていない若い世代なのではないか、本格的な保守反動というよりは、街宣車を乗り回すような右翼に憧れる若者達に近いのではないか、とも僕は思う。
ひょっとしてそういう世代にとっては、その運動は「保守反動」などではなく、「自分が体験したことのない理想社会の実現を目指す運動」すなわち「革新」と捉えられているのだろうか?
ていうか、保守反動も革新も結局同じことなのか? 極右と極左は同じ物だとかそういう話とは別の意味で、反動と革新は世代が変わるごとに立場が入れ替わる物なのか? 例えば共産主義なんてのは、個体の幸せよりも種の幸せが優先される、本能的に生きる動物の時代にまで遡る壮大な反動運動なのではないのか?
そう考えると、なんだか一つこの世界のシステムの実態が見えてくるような気がするよ。(普通の人はもっと早くに気付いてるものですよ? 23にもなるまで気付かないなんてどうかしてるんじゃないですか?自分)