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の動向はもえじら組ブログで。
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弟にゲームのダウンロードの仕方を教えてもらったので、Vアプリ版リッジで遊んでみた。
いやあ懐かしいなあ。効果音が無いのは寂しいけど、結構よくできてるね。っていうかこの小さなマシンで3Dのものがこれだけグリグリ動くことに今更驚いてる。(←知識レベルがオサーン)
暇つぶし用にはいいんじゃないかな。
心理的なホームとアウェーの話から派生して、考えたこと。
改めて考えてみると、現在僕は、およそ4段階で身だしなみのレベルを変えているようだ。
完全な「ホーム」と言えるのは、1番目の段階だろう。不精髭ものばしっぱなし、寝癖もそのままでいる。下手したらパジャマでずっといたりとかもする。
2番目の段階になると2分くらいで寝癖を直してヒゲを剃る。服は、パジャマではなくもうちょっと普通の格好をするけど、擦り切れた服(あるいは母がそれを繕ってくれた物)や、はるかに流行遅れのダサダサのものだったりする。
3番目の段階になると、10分くらいかけて髪型をもうちょっと気合入れて整える。いきがってワックスなんかつけてみたりする。服も、擦り切れたり汚れたりしてない比較的ましな物、自分で「これはよそ行き」と決めて買ってきた服を選ぶ。
4番目の段階になると、普段は使わない眼鏡(僕は「勝負メガネ」と呼んでいる。オッサン臭い普段の眼鏡より若干若々しい感じだと自分では勝手に思い込んでいる)をかけたり、3番目の段階よりもさらに時間をかけて髪型を整えようとしてみたりする。
まあ、実際に表に出る「出来栄え」的には、3番目も4番目も大して変わらないオタク臭いオッサン然とした容貌なんですけれどもね。例え外観に反映されなくても、まるでトンネル掘削用シールドマシンが自分の進んだ後にトンネル内からセグメントを固定していくが如く、自分の内側に防護壁を塗り固めることで、ささやかながらそれを自分の心の支えにするわけですよ。閑話休題。
「脱オタク」を意識し始めるまでは、身だしなみ的には2番目の段階までがせいぜいだったと思う。そして、普段会わない人に会ったりオフ会に行ったりするのにも、2番目のレベルの身だしなみで挑んでいた。
今改めて思うに、その頃は、オフ会だろうが学校だろうが買い物だろうが何だろうが「素の自分」で普通に挑める場所、心理的なホームグラウンドと考えていたのではないだろうか。飾らない素の自分を世間が無条件に受け入れてくれるものだと、無邪気に信じていたのではないだろうか。
実際にはそんなことは無いのだと、どこかで僕は気がついたのではないだろうか。「世間」は飾らない素の自分を所構わず晒け出す人間に冷やかな視線を浴びせるものだと、気がついたのではないだろうか。あるいは、他人の視線を過度に怖れ、そうであると思い込むようになってしまったのではないだろうか。ともかく僕は、他人と会うときに「ホーム」の気分ではとても居られなくなってしまった。素の自分を晒け出すことに恐怖を感じるようになってしまった。世間に全てをあずけられなくなってしまった。
これは、「自己(ホーム)」と「他者(アウェー)」との境界が自分の中ではっきり形成されたことの顕われではないだろうか? 他者は他者、自己は自己と区別できるようになったということではないのだろうか?
赤ん坊は、世界の全てが自分のためにあると思い込むという。腹が減ったら泣き叫び、おもらしをすれば泣き叫び、そうするだけでぬくもりのある自動機械があれこれと手を焼いてくれる、理想の世界。赤ん坊にとって世界とは自分であり、自分は世界の全てである。そこにホームとアウェーの区別などない。
他者の前に出るときにアウェー気分になれないという、幼児性の抜けきらない状態こそが、大人としては本当に危険な状態なのではないだろうか?
べつに、全てのオタクルックの人がそういう幼児的な人間であるとは思わない。そういう人間もいるかもしれないが、そうでない人間の方が多いであろうと僕は考えている。たまたま外観・容姿の点について注意が向いていないだけで、内面的には自我が確立されているのだ、と。また、その逆の「オシャレなことはオシャレだけれども頭の中は幼児さながら」という人間も多数存在していると、僕は思っている。
ただ、身だしなみについていつでもどこでもホーム気分でいることは、そのように解釈されかねないリスキーな行動と言えるのではないか、ということを、ふと思いついた次第なのです。
冬コミ前後から正月までの間にモヤモヤ考えてたことを出し尽くしてしばし呆然としてみる。
で、思ったこと。
頭ん中で考えてる間は「俺って今すんげえイイ事言ってね?!」と舞い上がってても、実際に出力すると「あれ……僕の言葉ってこんなにショボかった?」となるものだなあ。
実際に作品を作らず「頭の中では超大作の構想を練ってるんだぜ」とか言ってる人って、大抵アテにならないよね。
冬コミ後の打ち上げの時やなんかに刺身☆ブーメランさんこと金子さんと話していたこと。
こういう感覚は生粋のオシャレの人や真性モテの人には、もしかしたら理解できないのではないか。
我々非オシャレ人間にとって、「ユニクロ」や「近所の床屋」は、飾らない素の自分で行くことのできる「心理的なホームグラウンド」だ。それに対して、「メンズノンノが置かれているような本屋のコーナー」、「美容院」は「心理的なアウェー」である。シロクマ氏はユニクロの広告において「ファッション」の匂いのする要素が排除されていることに注目されているが、この「ファッションの匂い(=今の自分には欠けている、自分の物ではない、他人の物でしかない要素)」が、ホームとアウェーとを分けている決定的なポイントであるように思える。
素の自分そのままでアウェーに繰り出すことはできないので、ユニクロや床屋で多少なりとも「よそ行きの自分」「いつもの自分ではない、弱味を隠してガードを張った自分」に武装する必要がある。あるいは、自分で武装する代わりに、既に強い戦闘力を持っている友人なり案内者なりを助っ人に雇って、彼に矢面に立ってもらう必要がある。
脱オタクファッションガイドの基本方針がまさにそうだけれども、「脱オタク」の文脈において、まず真っ先に美容院に行き髪型を整えよとアドバイスする人は少なくない。それは、ファッションにおいて髪型が服装よりも大きな影響を与え得る(いくら良い服でも髪型が駄目ではマイナスにしかならない。逆に、服が多少みすぼらしくても、髪型が良ければそれは「ラフな格好」として好意的に見られる)からという実利的な側面もあるのだが、それ以外にも、一人でアウェーに乗り出すことができる心理的な強さを生来的に持っているかどうかを試すという意味も、あるのではないかと思う。それは、自分一人でアウェーに繰り出せる強さもサポートしてくれる助っ人も持っていないキミには一生脱オタクなんかできやしないよ、という冷酷な宣言でもあるのだけれど。
脱オタクファッションガイドは、勇気も助っ人も無い人間がアウェーに繰り出せるよう、まずはその第一歩たる髪型の改善に抵抗無く取り組めるよう、再三に渡ってその重要性を説いている。それだけしつこく説得されて切羽詰まらなければ、何も持たない初心者は踏み出すことすらできないのだということが、ここから窺える。
「オシャレになるのなんて簡単だ」「脱オタクなんて簡単だ」そう言い放ってしまえる人は、自分がホームグラウンドだと思っている場所が彼らにとってはまだまだアウェーであるということ、彼らがアウェーに踏み出すためには決死の覚悟が必要であるということ、自分が彼らにそれだけの覚悟を必要とするようなことを奨めていること、自分が意図するしないに関わらず彼らの喉元に鋭い刃を突き付けて決断を迫っているのだということを、理解すると良いだろう。
もう出版社さんの新刊案内に情報出てるしってことでここで宣伝しておくか。下田洋志・大和徳明共著「Firefoxを究める256のテクニック」定価2100円(税込) 1月中旬、秀和システムより発売予定です。
内容については、Firefox 1.5でこんなことがしたいなあとかこんな目的に合う拡張機能はないかなあといったニーズに対して回答を示すという形の、逆引き形式拡張機能カタログとなっております。一応、簡単な改造で済むようなものについては、.jarなファイルを展開してゴニョゴニョしたりuserChrome.cssでゴニョゴニョしたりといった方法も紹介しています。
巻末付録という形で、DOMインスペクタの使いかた・JavaScriptでのDOMインターフェースの使いかたの簡単な解説、それらを使っての「オリジナル改造」のちょっとした手引き、オリジナル改造の内容を拡張機能として配布可能な形にする手順なども収録しています。
まあそのなんつうか、あれですよ。中級〜上級ユーザにとっては当り前の事をさも特別な事であるかのように飾り付けて紹介する。そんなありがちな本。
Firefoxまとめサイトを見て自分で情報を集めたり、至れり尽くせりの鈍重な拡張機能を投げ捨ててJSActionsでカリカリにチューンしたり、といったことが既にできてる人にはあんまりというか全く役に立たない本だと思います。一応、初心者から中級者の域に達しようかというくらいの人を想定したつもりです。ということで、不要なのに間違えてお買い求めになられたりしないようご注意ください。嘘です。不要でも間違いでも買ってください。著者にお金が転がりこんできますので。わらい。
あと、自己顕示欲がやたら強い僕が執筆に関わっている関係上、無意識のうちにタブブラウザ拡張やらコンテキストメニュー拡張やらの重くてウンコな拡張機能を妙にプッシュしてたりしますので、そのあたりの姿勢が気に入らない方は書店で見かけ次第2100円支払ってゲットして裏庭で焚書してやってください。(←それでも買わすんかい)
こういうこと、前にも書いた気がするなあ。
実名もしくはその人格を特定するIDとして機能する名前のもとに行動することは、それだけでリスクになる。何か馬鹿な事をすれば、過去に築き上げてきた信頼の全てを失うことになる。後からいいことをしても、過去の失言・失敗を蒸し返され、信頼を築くチャンスを奪われる。名前と発言とを結び付けて生きることは、自分の弱味を晒すということである。
匿名で行動することは、それらのリスクから逃れるもっとも手軽な手段だ。ID名付きで何もしないで、匿名でだけ行動すると、信頼が築かれID名に紐付けられることはなくなってしまうが、その代わり失う物もなくなる。失う物がないのは、守る物がないのは、ある意味最強だ。
最強の武器を自らかなぐり捨てて、ID名のもとに良い発言も悪い発言も継続して行い続けている人は、勇気ある人として尊敬に値するのではないかと、僕は思う。
まあ、そのあたりの事が分かっていない、あるいは分かったふりをしているだけの、ただの馬鹿なのかもしれないけど。僕みたいな。
正月も明けてみなさんいい加減まったりし飽きた頃かとは思いますが、そんな世間の流れなど全く無視して、今頃になって、もえじら組のために参加してきた冬コミの事など書いてみますよ。
旧年中は実に沢山の事がありました。社会人らしくない社会人一年生として、自分の人生を歩み始め、身の引き締まる思いでおります。
年末にはいわゆるマンガ同人誌を初めて制作し、予想以上の好評を頂くことができて、絵描き者としても実りの多い年でした。
相変わらずご迷惑をおかけすることがあるかとは存じますが、今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
もし多くのアメリカ人が本当に「ユニークさ」を重視していてやたら自信たっぷりなのであるとすれば、ユニークさを重視することと自信たっぷりであることの間には関係があるのではないかと思うようになってきた。というか、自分自身がそう思うようになりつつある。
ユニークというのは、ここでは「面白い」とかそういう意味合いではなくて、「一意な」という意味ね。
これは思いつきで書いているだけだけれども、いつでも何でもユニークであることを指向する、ユニークな生き方をすることを心がけると、その生き方の足跡自体が強固なアイデンティティになり、無根拠な自信すなわち自尊心が育つのではないだろうか。
ユニークであることを指向しないということは、誰かの後追いだとか、同じ生き方を踏襲するとか、そういうことになる。他の人と同じようなルートを通るということは、そのルートの通り方の巧みさを比較することができる。順位を付けることができてしまう。「今の自分の順位が上位であること」を自分自身の拠り所にしたとしても、その順位から転落する可能性は常につきまとう。下位に転落した瞬間にアイデンティティを喪失してしまうことになる。また、常に他人と比べられ、追い越され追い抜かれる恐怖に怯え続けることになる。
ユニークな生き方というものを考えると、その恐怖から解放される。なぜならユニークな足取りというものは、誰もマネできない(しない)から誰とも比べられない。誰にも「勝てる」ことがない代わりに、「追い抜かれる」心配もない。
それ故に、ユニークな人生経験を持つ人は、無根拠な自信に満ちあふれるようになるのではないだろうか? または、自分に自信がない人は、安全で無難な選択をしがちだと思うけれども、そこで敢えて冒険的な選択をすることで、コンプレックスから解放され、自信を身に着けられるようになるのではないだろうか?
あるいは。今の自分の人生が十分にユニークであるということに気づく、もしくは、ユニークな人生であると考えるようになれば、自信を持てるようになるのではないだろうか?
僕が最近、何かとネタ人生を突き進もうとしたり、チャンスと見れば特攻したりしているのは、そのせいなのかもしれない。