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萌えるふぉくす子さんだば子本制作プロジェクトの動向はもえじら組ブログで。

宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能! シス管系女子って何!? - 「シス管系女子」特設サイト

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「シス管系女子」の本のおまけについて - Feb 09, 2015

シス管系女子の本の宣伝も兼ねて。

まんがでわかるLinux シス管系女子 (日経BPパソコンベストムック)

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売り上げランキング: 10,129

本の企画が動き出す前、本誌付録の「まとめ読み」を実際に見てみたときから、本編だけだとギュウギュウ詰め感あって読んでて辛いと思ったので、敢えて各話間に必ずおまけという名の緩衝材を入れることは僕の中でずっと決めてた。一般的な漫画単行本でも各話間におまけがあるのでそれを真似た、とか、ページ数が少ないのをごまかすための水増し、とか、そういう性質も無いとは言えないけど、それよりはやはり、読みやすさへの配慮という切実な動機が大きい。

おまけを入れることを提案した後、先方からは「全ページに何かしら役立つ情報を入れたい」という意向を聞いていたんだけれども、上記の通り緩衝材としての役割を強く意識しての提案だったから、「緩衝材が必要だ」とか「キャラクターを好きになってくれた人もいるはずだから絵のコンテンツにも需要はあるはず」とかなんやかやゴネて、最終的に、各話が終わった後の1ページ目には本編の内容に関係する補足情報や豆知識を、2ページ目には内容と関係無いイラストや蔵出しの設定画といった、お役立ちとはほど遠い情報で「ヌキ」を作るというスタイルに落ち着いた。

そこまではよかったんだけど、悩んだのは、その2ページ目の方に何をどこまで入れるのかっていう点で。

途中までは、裏話とかキャラの設定とか思いつく限り色々盛り込もうかって思ってたんだけど、仕上げに近い段階になって「やっぱやめよう」って思って、文字部分をだいぶ削除した。そのとき思い出してたのは、ずっと昔に「るろうに剣心」の単行本を読んで感じてた事。仮に誰が見ても明らかにそうだろうなってバレバレだったとしても、「このキャラのデザインは綾波レイの影響が~」とか、わざわざ言わないで欲しかった。読んでてすごく気持ち悪かった。今にして思えば、あれは読者が知りたいであろう事・見たいであろう物を読者向けのサービスとして提供していたのではなく、作者自身が語りたくてしょうがなかった事をあの場所で発露していたという事なんだろう。商品であるはずの物の中に垂れ流されていた自意識に、僕は「ウッ」てなってたんだと思う。自分自身が、人から認められたい欲の強い自意識過剰なタイプの、相手が興味なさげにしてるにも関わらず自分の喋りたい事をベラベラと一方的にまくし立ててしまうタイプの人間だという事を考えると、同族嫌悪のような物だったのかもしれない。(なので、そういうのは商品の中ではなくこういう所で垂れ流しておきます(垂れ流す事自体をやめるという選択肢が無いあたりが救いようのないポイントである))

正直、最終的にコンテンツとして入ってる物の中にはまだまだ、読者が見たかった物ではなく僕が見せたかっただけの物があると思う。見せたかったっていうか、むしろ、これしか見せられる物が無いんですみたいな。全部を描き下ろしで埋めるのは無理だったので、大変申し訳ないけれどもそこはどうかご容赦頂ければ幸いです……次の本は出るかどうかも含めて未知数だけど、2年目以降で衣装の着回しがほとんどになって新規に衣装の設定を起こしてないというのもあって蔵出しできる素材が圧倒的に少ないので、描き下ろしが増えるんじゃないかと思う。思うっていうか、多分そうしないと成立しない。最近はフキダシに入れてる顔アイコン的なやつを使い回すようにしてて、労力を削減した代わりに、絵を描くモードに頭を切り換えるまでのウォームアップができていない気がするので、ウォームアップがてらイラストを描くようにして少しでも描き溜めて、次に備えておきたく思う次第です。

卒業して10年くらい経って、大学で立ち上げ期から関わってたサークルを再訪して思ったこと色々 - Nov 02, 2014

卒業以来行ってなかったんだけど、母校であるところの大阪電気通信大学の大学祭に行ってきた。サークルのプチ同窓会的な趣旨。

それで、僕らが創設した後も今に至るまでずっと続いているサークル「コミックアート」の今を見たくて、サークルの展示に顔を出した。 落描きコーナーがあったので、しれっと描いてみたりもした。

それを渡す時に「実は初代なんすよ」と明かして、超かしこまってる現役生の皆様方に先輩風ビュンビュンに吹かせて、適当に思いつくままいろんな話をペラペラ喋ったんだけど、あまりに垂れ流しで喋りすぎて脈絡なさすぎたんで、帰りの道すがらちょっと自分の中で話を整理してみた。

サークルの文化の継承のこと

展示の部屋に入って最初に思ったのは、「おお、ほんとに10年続いてるんだ……!」という感慨。

次に思ったのは、「でも、変わってない……っていうより、後退してるのかも……」という軽い落胆。

社会人感覚だと10年って意外とあっという間だし、人の入れ替わりがないことも結構あると思う。 自分がいるのが、毎年新卒をコンスタントに採用してますっていう事が無い小さい会社だからなのかもしれないけど。 そういう状況だと、こういう事は会社としてやりたくないとか、会社としてこういう風に進んでいきたいみたいなことは、一度合意した後はけっこうそのままブレずにいられる。 でも、そうして形成された文化を後から来る人達にどうやって伝えていけばいいのか?という問題はある。 人の入れ替わりが無いから伝える必要が無い、伝える必要が無いから問題も無い、というのでは、高齢化が進んで先細りしてしまうだけ。新陳代謝がない事自体も問題だし。 弊社の目下の課題は、そういう感じ。

大学(のサークル)だと、望むと望まざるとに関わらず、基本的には毎年人の入れ替わりが発生する。 だから新陳代謝という点では悩まなくてもいいんだけど、文化の継承の問題はやはりある。

今回、現役世代を見ていて思ったのは、ノウハウはある程度継承されているようなんだけど、その背景にあった思いはどこかで途絶えてしまったのかな……ということ。

僕らはサークルを創設した世代なんだけど、当時あった既存のオタク系サークルが「既存作品のファンの集い」的な性格が強くて(あと、漫画を専門としてやる感じでもなかったので)、それに絶望して「もっと真面目に絵を描くサークル活動がしたいんやー!!」って思って作ったサークル(会長達がサークルを立ち上げたところに、僕がその噂を聞きつけて後から参加した)で、自主的な活動だったから大学から下りてくる予算なんか当然無いし、伝統的に引き継がれてきたノウハウのような物も無かったし、ほとんどゼロから作り上げるしか無かった。 大学祭の時の展示をどうするか?とか、会誌はどうやって作ればいいのか?とか、そういう部分については僕が高校の漫研の時の文化を色々と持ち込んだんだけど、それ以外の部分、会則作りだったり、(作画技術やシナリオ制作技術などの)技能向上を目的とした「勉強会」の継続的な開催だったりとかは、ほんとに手探りだった。 とにかく、自分達がやらなきゃ誰もやってくれない、教えてもくれない、自分らがやらなかったら何にも進まない、そういう危機感が強かったと思う。 特に、当初の絶望の元だった「ああはなりたくない」「あそこには負けたくない」っていう思いが強かった。

世代を重ねて、10年が過ぎて。 僕が持ち込んだ「こうやれば展示の体裁は整う」「こうやれば本の体裁は整う」といったノウハウは引き継がれていたし、本の表紙がカラーになってたりしたし、アンケートも採ってたし、ノウハウが引き継がれているのは間違いなく感じた。 また、缶バッヂ作りのように、今まで無かったことにも手を広げているのも感心した。 メンバーも相当数に増えたらしいし、合宿はちゃんとした合宿所を借りてやっているという話も聞いたし、「すげえ! ちゃんとしてる!」って思った。

でも、熱は下がってるのかなって思った。 少なくとも、危機感的なものはあまりないのだろうなあと感じた。

というか、まあ、最初の世代の僕らの危機感が異常だったとも言えるんだろうけど。 最初の世代と、後の世代って、そういう物なのかもしれない。 僕らがあまりに「差し迫った危機感」ドリブンで色々やり過ぎたものだから、サークルの公認化やメンバーの増加などによって、差し迫った危機が去って危機感も薄れていったのかなあ。 だとしたら、差し迫った危機感の有無に頼らないで向上心を保ち続けるという文化を、僕達は作り、後の世代に託さなくてはならなかったのかもしれない。

あと、話していて、当時と今とでは色々状況も変わってるんだよなあっていう事は思った。 今はPixivなんていう便利なサービスもあるし、(今時流行らないかもだけど)いわゆる「公式サイト」を作るのにも、GitHub Pagesあたりを使えば、複数人でコミット権を持ってコラボレーションできる。 Circle.msを使えば同人イベント参加もオンラインで申し込めちゃう。 あの時これがあれば……っていうのは、改めて考えてみると、結構ある。

現役世代の人達もPixivは使っているとのことだったけど、それは多分「今のトレンドとしては、絵描きは当然のようにPixivを使うものだから」っていう事なんじゃないだろうか。 それはそれでいいんだけど、一般教養の授業で教わったアンケートの取り方の技術をアンケートの改善に活かしてみるとか、そういう「工夫」としての新しい技術の導入にも、取り組み続けていて欲しいなあ、と思う。

向上心といえば、僕ら世代が卒業する前くらいに、その(勝手に)ライバル視してたサークルの方でクーデターがあったとかで、それ以前に比べてすっごく真面目に取り組むようになったらしくて、最後の年にあっちが出してた制作物は、かなりレベルが高くなってたと記憶してる。 「あそこよりは勝ってるから大丈夫」みたいに思ってたらこりゃあアッという間に追い越されるぞ……!っていう思いで背筋がヒヤリとしたんだった。

僕らが一旦絶望した所でもそういう事が起こったくらいだし、自発的な改善が行われることは今後もあるだろう。 そのとき、そうして行われた改善を彼らがさらに後の世代に継承していけるかどうか、そこが重要なんだと思う。

先輩世代が口出しすることそのものについて

色々偉そうなことを言ったんだけど、あんまり先輩世代がデカいツラするもんでもないよなあ、ってのは思う。

今回も、現役世代の人達があまりにかしこまってるのを目の当たりにして、逆にこっちが申し訳なく思ってしまったほどだった。 僕自身が上記のライバルサークルに仮入部した時の「先輩の意味の分からない横暴、体育会系的な上下関係」にウンザリした記憶を思い出してしまって、自分がああいう風になってしまってるのかなって思うと、すごく申し訳ない気持ちになる。

僕は「先輩がデカいツラして居座り続けること」による「現役世代の萎縮、負の文化の継承」をすごく恐れていて、だから一線を退いた者はさっさといなくなるべきと思ってる。 僕らの時は「上の世代」がいなかったから、そこら辺まったく気にしないで好き勝手できてたっていうのは、初代ならではの特権なんだよね。

この辺のこと、Mozillaがらみでも、後世代の人に言われたんだった。 後世代にしたら、「良い文化を継承しないまま居なくなられることの方が困る」って。 でも、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉があるくらいに、良かれと思って焼いた世話がただの迷惑になってしまう事はあまりにありふれているし、何度か自分の知っていることを相手に伝えようとしてバーッとまくし立てて辟易させてきたことを思えば、僕自身が「できた先輩」になれるとは到底思えず、むしろ「よくいる駄目な先輩」の方としか思えず。 過干渉にならない程度の距離感って、難しい。

絵描き、漫画描きを送り出す場としてのサークルのこと

以前に初代会長が訪問したときに聞いた話だそうだけど、過去何人か、在籍者でプロの漫画家としてデビューした人はいるらしい。

いわゆるプロデビューを目指すようなレベルの意識・動機っていうのは、サークルの文化として育てていくような物でも無いんだと思う。 それはサークルに入ってくる時点で「持っている人」と「持っていない人」がいるという物で、その点についてサークルができる事は、動機を持っている人のやる気を削がないことくらいなんじゃないだろうか。

サークルとして積極的にできるのは、絵を描いたり話を考えたり漫画を描いたり本を作ったりっていう、ノウハウの伝達がせいぜいだと思う。 ノウハウを必要としている人がいた時に、伝達できるノウハウをサークルには維持していて欲しい、と僕は思う。 聞いた話では、今、勉強会の文化はあんまり引き継がれていないようだった。 技術向上を図るための勉強会を重視する、という事は僕らが拘っていたはずの部分なので、それが途絶えているのは悲しい。

絵でお金を貰うということ

現役生で、イラストレーターになりたいと思っていると言っていた人がいたと思うんだけど、今の画力がどうかっていうのと関係無く、それでやってくのは今は(これからは)すごい厳しいだろうなって思う。

今Pixivのトップページ見たら、美麗なイラストを描いてる人達が星の数ほど居るのが一目瞭然なわけで。 「今登録したら何々っていうレアカードが貰える!」ってCM打ってるようなオンラインカードゲーでイラスト描いてるような人達。 選手層はとんでもなく分厚い。 でも、そんなハイクオリティの絵でも(酷い会社には特に)安く買われてしまう。

僕が読んでるプロの小説家の人のブログで、小説教室の講師もされているそうなんだけど、その方は、教室の生徒さんで持ち込みとか営業とかを自主的にする人が少ないという事を書かれていたと記憶してる。 今回同行した初代会長も、イラストレーターで賞への応募や営業までしてくる人は全然いないという話をしていた。

Pixivで綺麗なイラストを上げているけれども自分からは応募したり営業したりはしない。 そういう人の中には、ゲーム制作会社や出版社でお金や権限を持ってる人に偶然見出されて評価されてデビューする、っていう流れに期待してる、待ちの姿勢の人が結構いるんじゃないだろうか。 そんな典型的な憧れ産業だから、搾取・買い叩きの対象にされてしまうんじゃないだろうか。

ちょっと話はズレるけど。 描いた絵はどんどん公開してフィードバック貰った方が上達するよ、だから学外に出てでもどんどん絵を人に見せていった方がいいよ、ということを現役当時の僕らは言っていたと思う。 「学外に出て行く」という事だけを見れば、Pixivに絵を公開している時点で、それはできていると言えなくもない。 でも、「人目にさらせてるか?」っていうと、疑問だと思う。 あれだけ美麗なイラストが溢れているPixivの片隅に絵をアップロードしたところで、一体どれだけの人の目に留まるだろうか。 トップページに並ぶようなクオリティの絵が膨大にある中で、自分の描いた絵は本当に人に「見てもらえている」だろうか。

僕の友人で、高校生当時はそれほど画力が高いわけでもなかったけれども、絵を専門に学び直して、その後プロの絵描きとしてゲーム業界で働いている人がいる。 彼は多分、学んだ成果の絵を持って回って就職活動したんだと思う。

本当の意味で仕事に繋げるためには、そういう自分からの効果的なアピールが重要なんじゃないだろうか。 運任せ、人任せにしないで、自分から主体的に掴み取りに行く。 Pixivに投稿して埋没したまま白馬の王子様が来るのを待ってても、チャンスはやってこない。 そういう事なんじゃないかと思う。

あと、待つにしても、見つけて貰いやすい待ち方というのもある。

Pixivのように既に大勢がいる中に、後からノコノコ参加したって、よっぽどの事が無い限りは埋没するだけだ。 ああいう場では、「絵が描けること」は「当たり前」でしかない。 その1次元の評価軸での激戦区に飛び込んで、既にプロで活躍している人達と張り合って目立つってのは、相当困難なことだと思う。

僕はPixivはロクに使えていなかったけど、「技術がそこそこ分かって」「漫画も描ける」という複数のキーワードに引っかかったことで、記者さんの目に留まったらしい。 連載が継続している今は、そこにもうひとつ「解説ができて」という評価も加わっているのかなと思う(というか、そうであって欲しい)。

絵の上手さや発表数の多さという評価軸では僕は上位にはいないけれども、他の評価軸も合わせることで、僕は浮かび上がって来れた。 1つのことだけやっていなかったということが、僕にとっての武器になったのだと思う。

僕みたいな半端者ではないちゃんとしたプロの漫画家として活動している別の友人も、メインの絵柄とは別の絵柄も練習していて、その毒気のない絵柄と、歴史関係に強い……というか、歴女というプロフィールの2つがあったことで、継続的な仕事に繋がったようだった。

既にみんながやってるのと同じ事をやるより、誰もやってないことをやる方が目立つ。 当たり前のことなんだけどね。

絵を描くということ

プロがどうとか色々描いたけど、当然だけど、誰もがプロを目指す必要は無いと思う。

スタンスとして、楽しく絵を描いていられればそれでいい、ってのは全然アリだと思う。 楽しく長く絵を描き続けていられれば、それに越した事はない。 辛くなってやめちゃうよりも、楽しく描き続けている方がいい。

というか僕自身、今まさに原稿料を頂いて漫画を描いているけれども、「プロの漫画家になろう」とは思っていなかったし。 それどころか、今こうしてやっている仕事も、どっちかっていうと「絵の比率が高い技術記事の執筆」だと思ってるくらいだし。 もえじら組の活動を細々とやれていればそれでいいかな、と、連載の仕事を貰う前は思ってた。

長く続けるためには、別に、メチャメチャ美麗で上手な絵を描ける必要ってのはないと思うんだよね。 ただ最低限、自分の絵に自信を持てるポイントがあった方がいいっていうか、自分の絵って絶望的にヘタクソだなって思わずにいられる程度にはなっていた方がいいっていうか、そういう風には思う。

描かれた物が何であるかが分かる程度の描写力。 右向きの顔を描くときに紙をいちいち裏返して確認しなくても大丈夫な程度のデッサン力。 何度も描いて消してを繰り返さなくても狙ったところに狙った線を引ける身体制御能力。 そういう地味な基礎画力があると、絵を描く事そのものを苦痛に感じる程度はだいぶ減じられると思う。 あと、そういうのができてない絵を見たときに「自分の方が基礎はできてる!」って思えるのも結構大きい。

僕自身は突き詰めると、自分が見たいけど他の誰も描いてくれない物を形にしたいっていうのと、「俺TUEEEEEEE」感を味わいたいっていう2点が、絵に関しての大きな動機だと思ってる。 自分の見たい物を形にするのなら、どうせやるなら、上手にできてた方が、観客としての自分が見てて嬉しいじゃないすか。 それでできれば「俺TUEEEEEEE」ってなりたいじゃないすか。 その方が楽しいじゃないすか。

苦手は克服した方が、より「俺TUEEEEEEEE」って思えるようになると思う。 何と言っても、「克服した俺SUGEEEEEEE」って思えるわけだし。その事実は揺らがないわけだし。 右向き描けないから左向きしか描かない、とか、背景描けないから背景描かない、とか、凝った構図は描けないから必ずバストアップしか描かない、とか。 自分で後から見てて、つまんないし情けないじゃないすか。 っていうかそんなの、自分自身が見たかった物じゃないでしょう? 自分が見たい物を手に入れるには、自分で描くしかない。 自分が上手くならなきゃ、自分が見たい物は見れない。 自分が上手くなれば、自分が見たい物を見れるようになる。

だからやっぱり、画力はあるに越した事はないと思うんだよね。 そういう喜びに繋がるためにも、勉強会の文化はあって欲しいなあって思う。

読者(閲覧者)を楽しませるということ

これは当日話した内容ではなく、後から「ああ、こういう話をしておけば良かったかなあ」と思った話題。

主に会誌を見てて、「読者を楽しませる努力はもっともっとしていいんじゃないか?」って事を思った。 僕らの世代がそれをできていたのかっていうのは完全に棚に上げて言っちゃうんだけど。

「大同人物語」で平野耕太氏が書かれていたんだったと思うけど、学校の部活やサークルの出す本、いわゆる「学漫」は、クソだと。 自分達が作りたいから作ってるだけで中身がない、読者がまったく楽しめない、お金を出して他の人に買って貰うには値しない、そういうジャンルだ、と。

前段で書いた事と矛盾してるんじゃないか、自分が楽しくなるようにすればいいんじゃないのか、っていう風に思われるかもしれないんだけど、そうじゃないんだよね。 独り善がりでただ作りたいから作るっていう事をしなさいって話じゃないんですよ。 作る事そのものが楽しいっていうのは、そんなもん当たり前なんですよ。 でもそれでは「作る人の視点」だけしかない。 そこに「読者の視点」も加えて、「自分が読んでも楽しめるような物、自分が欲しくなるような物を」作るのって楽しいでしょ、「読者を楽しませられる俺SUGEEEEEEE」ってなったら楽しいでしょ、って話なんですよ。

そういう風に思うのは、僕自身が大阪で育って、両親からの影響はなかったけど学校の同級生だったりテレビだったりから事あるごとに、「おもろいモンが正義。おもろくないモンはあかん。笑かしたら勝ち。スルーされたら負け。」という感覚を刷り込まれてしまってるからなのかもしれないんだけど。 その通りに実践できる・成功できる確率が低くても仕方ないとは思うけど、そうしようっていう思いは持ってて欲しいなあって思うんですよね。

あと、これも前段の話の繰り返しだけど、「今の自分で描ける物を描こうとする」んじゃなくて、「今自分が見たい(読みたい)物を描こうとする」って事は、ほんとに大事だと思う。

今自分ができる範囲でやろうとすると、何もスキルが身に付いてない段階だったら、表現の引き出しなんてそんなに無いじゃないすか。 斜め45°のバストアップの美少女しか描いたことありませんって人が、自分にできる範囲で物を作ったら、そんなもん、エロゲーの立ち絵が並んでるようなコマにしかならんくてあたりまえですよね。 そんな物を自分は見たかったのか? って話ですよ。 そうじゃないでしょ。好きな漫画みたいに、ダイナミックな構図だとかいろんなアングルだとかいろんなキャラだとかいろんな表情だとかを見たいに決まってるでしょ。

そういう「素直に自分が見たい物」を描けんのか? って話ですよ。 できないんだったら、描けるようになるしかないじゃないすか。 ……っていうのが、技術の上達に繋がるんじゃないかと僕は結構思ってる。

実際、僕も今でも、ラフ段階で微妙に今まで描いたこと無い物・やった事ない事が要求されるようなネーム切っちゃって、四苦八苦してうんうん言いながらそれを完成原稿まで仕上げて、って事を結構やってますし。

まったく目標や課題を定めずにただただ「画力を上げるんじゃ―――!!」って闇雲に努力するよりは、「今これを描けないけど描きたい・描かなきゃいけない」っていう状況を作ってしまった方が、頑張るための力を注ぐ方向を間違えにくく済むんじゃないだろうか。 というのが僕の思うところです。

動物園 - Jul 02, 2014

この間、動物園行ったんですよ。天気いいしどこかに出かけたいけど適当な所が思いつかないなあ、どこがええかなあ、そういや動物園もう何年も行ってないなあ、って。

大人になって動物園行っても楽しめるんだろうかどうなんだろうか、と思いつつ行ってみたんですが、当初の想定以上に楽しんでしまいました。年間パスを買ってもいいかもと思うくらいに。

だって(園にもよるけど)可愛い動物いっぱいいるじゃんすか。ミーアキャットが目の前でちょこちょこ走り回ってすっくと立ち上がってキョロキョロしてまた走り去っていったりとか、レッサーパンダが樹上でぐでーっとしてたりとか、ペンギンが腹ばいで寝てたりとか。たまらん。超癒される。まあアニマルセラピーとかいう物があるくらいですしね。

ほんで思ったんですけど、年間パスってそう悪い選択肢でも無いんじゃないかなあって思ったんですよね。例えば東京ズーネットの4園だったら4回行ったら元が取れる(ちなみにすみだ水族館だったら2回で元取れる)んですよ。心が荒んできた時にフラッと行って癒されて帰ってくるって使い方ができるわけですよ。ペット飼うより手軽。住む所がペット可の物件かどうか気にしなくていいし、ごはんやらトイレの世話やらをしなくていいし(動物園任せ)。美味しい所だけ楽しめるわけですよ。なんて都合のいい存在。

まあ気軽に行きやすい所に動物園があるならっていう大前提があるといえばあるんですけどね……

デスマーチテックキャンプをきっかけにしてモヤモヤと考えた事 - Jun 18, 2014

この「デスマーチテックキャンプ」という闇を生み出した背景が

これか……

うさんくささ

記事を紹介している記事やブックマークコメントで、この人の事を「山師」と評している人を見かけた。山師。辞書的には投機的事業をする人の事で、転じて、詐欺師の事を指す言葉だという。そこまで強烈な断定ではないにせよ、「うさんくさい人」というニュアンスを込めてその言葉を選んだのだろうなあ、とは思う。

これを見ていて、なんとなく、ある友人を想起してしまった。そういえばその友人も、「うさんくさい」と冗談まじりに評されるような所はあった。僕はその友人を今非難するつもりではなく、単に、ふと想起させられたというだけなんだけど、何がそう感じさせたのかは、うまく言語化できていない。

  • 「部外者・異質な存在であるところの自分だからこそ、その固定観念をぶち壊して革新できるのだ!」と突っ走っているのを、エンジニアとか技術とかをより多く知っているであろう周りの人達が「それは筋が悪くて駄目だ」って言ってる、っていう構図、なのだろうか?
  • その人自身はきっと悪意からではなく善意でやっているつもりなのだろうけれども、やり方であったり結果であったりが残念な事になってしまっている、という構図の方、なのかもしれない。
  • もっと一般的に言って、問題の当事者でない人が、当事者はきっとこういう事で困っているはずだ、とか、当事者はきっとこうなっていると嬉しいはずだ、とか、(見当違いの)仮定・断定をしてしまっている、という事についてなのかもしれない。
  • それが個人の枠内で収まっていなくて、イベントの主催であるとか、会社を興すであるとか、他の人を巻き込んでいる、という事についてなのかもしれない。

……と、色々挙げてみたけど、一言では上手く言い表せずにいる。

技術的に、筋がいいか悪いか

っていうか僕自身、僕よりも多くのことを知っている人から「それは(技術的に)筋が悪い」と言われるようなことを、素人の浅知恵でよくやっているようなので、そういう意味では全然他人事ではないとも思うんだけど。

「権威と化した先人の言うことに唯々諾々と従っていては、その縮小再生産しかできない。けれども、闇雲に既存のものを否定しても、それは、既に誰かが試して、駄目だったと諦めた道かもしれない。とは言っても、先人が諦めたのにはその時なりの理由があって、今では状況が変わっていて、今こそ挑戦すべき時なのかもしれない。でもでも、まだ時期尚早かもしれない。」……こういう鶏と卵な話って、世の中にはありふれてる。ダイナブック構想だとか、ハンドヘルドPCだとか、ウェアラブルがどうとか、湧いて出てくる度に訳知り顔の古参が「また出てきたよ……あれはもう何年も前にだれそれが通って失敗した道なのに。あんなのオタクのオモチャでしかない。」って辟易して、事実その通り失敗して消えて、また湧いて出てきて、そんな繰り返しの末にiPhoneが大流行するわ僕はいまAndroidなスマホをガンガン使っているわしてるし、世の中の人達はGoogle Mapsや!Ajaxや!HTML5や!って「再発見」して今Office 365で十数年ぶりにOutlook Web Accessを使っているし、何年かに一回は電子書籍元年がやって来ている。

そういう事例を知ると、何か「うさんくさげなもの」に出会った時に自分自身が直感的に「うっ、これはあかんやつや」と思ったとしても、自分の嗅覚の方が、「筋の良し悪し」を見分ける自分の目の方が間違っているのかもしれない、と思えてきてしまう。

それで、このデスマーチテックキャンプの人がほんとに「否定されるべき駄目な事例」なのかどうかまで、僕には分からなくなってきてしまうんだよね。 色々なことに、特に人の感情とか機微とかに鈍感な僕だから分からないだけで、普通の感性を持った人には、本能と言っていいようなレベルで分かる事なのかもしれないんだけど。

フェアネス

「筋がいいか悪いか」とはまた別の言葉として、「フェアネス」がキーワードになるのかもしれない。 フェアネス、辞書的には公正さのことで、多分合法とかそういう事だと思うんだけど、僕は個人的には、もっと一般的に「人の権利を侵害しない」とか「人に迷惑をかけない」のようなニュアンスを持って捉えている気がして、まあともかく、そこら辺の概念。

「YouTubeはグレーゾーンに踏み込んだから他者を出し抜けた。我々もあんな感じで、現行法ではグレーや黒でも他に一歩先んじたサービスを作ろう!」といった見方は、フェアネスを軽視しているように思う。

これをキーワードにすると、パッと思いつく別の事例がいくつかある。

僕の中では、このあたりの人々は同じカテゴリーと認識していて、今回のデスマーチテックキャンプの人もなんとなくそのカテゴリーっぽいという印象は持っている。 (とかなんとか言ってる自分自身も結構不義理をしているので、僕の事を「フェアネスに欠けている」「うさんくさい」「信用するに値しない」と思っている人もいるのだろうけど……)

リスペクト、尊敬、尊重

あるいは、「自分が理解できない物」に対する態度なのかもしれない。

一般的に言って、自分が理解できない物を、自分が理解できる尺度に無理矢理当てはめて評価しようとするというのは、礼を失した行為であると思う。 「ようわからんけど、要するに、こういうことなんやろ! オッケーオッケー!!」と乱暴に切り刻んで、分かったフリをする(本人はそれで分かった気になっているので、フリではないんだと思うけど)と、大事な物が抜け落ちてしまう。 それをよしとするのは、その対象を軽視している事に他ならない。

自分が理解できない物を、自分には理解できないと認めて、自分が持っている尺度では計れないという事実を受け入れて、その上で、それでもなおそれには価値があるのだという事を認め、尊重し、敬意を払って、どうやって共存していくかを考える必要がある。

……っていうのは、僕とは異なる趣味・嗜好・価値観・考え方・バックボーンを持っている妻との共同生活を送る中で、僕自身もここ数年ようやっと意識するようになった事なんだけど。

それまでも、そして今も、自分自身がそういう決めつけやあてはめをやってしまう方ではあるので、やはり他人をことさら断罪できるわけではないんだけど、自分が理解できない物や考え方に対する敬意の払い方というのも、自分がその人にコミットするかどうかを考える際の1つの判断基準になるんじゃないかなあ、と思う。

結論として

色々な判断材料に基づいて、「うさんくさい」に留まらず、明確に批判・否定する人もいる。

このデスマーチテックキャンプの人が、ただのうさんくさい人なのか、それとも革新をもたらす人なのか。残念ながら僕はまだ分からないでいる。 自分の観測範囲で多くの人が「危険な香り」とか「嫌な予感」とか散々アラートを発しているのだけれども、優柔不断でフワフワしている僕は、そこまでの断定ができずにいる。

まあ、でもとりあえず、「自分とこの人の行く道は違うのだな」という事だけは分かる。

(この「行く道が違う」っていう表現、ガンダムUCでミネバがリディをフッた時のセリフ由来なんだけど、色々便利な言葉だなあって思う。「お前は間違ってる!!」と断定できないけど同意もできない時に、今後も使いそう。)

全力でこの人の言う事に乗っかりたいとか、協力したいとか、そういう風にはどこか思い切れない、一線を引いたおつきあいまでに留めておきたい感じというか。 彼が成功者になった暁には羨むかもしれないけど、でも、袂を別った事は後悔しないだろう感じというか。

ともかくそんな感じで、自分はつくづく保守的で優柔不断な人間なのだなあ、という事を意識させられた出来事なのでした。


たらたら書いた後でデスマーチテックキャンプの運営会社の評判を見てみたら、ログインして無くても見える冒頭切り出しの部分だけでもかなり壮観な眺めで、「うっ、これはどう見てもあかんやつや……」と思った。(綺麗なオチ)

OSCでふぉくす子のプレゼンをやってきました - Mar 03, 2014

オープンソースカンファレンス2014東京の一コマとして3月1日に行われた「チャンネルはオープンソースでっ!(ちゃんおぷ)」の「応援キャラクター大集合!」という企画に、ふぉくす子のプレゼンターとして出てきました。

当日の話

1年くらい前に日本OSS奨励賞を頂いた場所で、今度はふぉくす子のプレゼンをするだなんて、誰が想像できようか。とか、実はフォクすけを最初に書いたのも僕なんですよねとか、その辺の話を面白おかしく盛り込めれば良かったのですが、当日はめちゃめちゃ緊張してて頭真っ白でそれどころじゃなかった。っていうか自己紹介の一言があるという事自体を僕は本番が始まってから知った(ふつうにクラウディアさんが自己紹介して、さくらインターネットの人が「さくらインターネットのだれそれです」と言って……という流れができていた)ので、もえじら組のPiroですだなんて名乗るわけにもいかず、3分の制限時間があるということもあって、普通に「プレゼンターの結城です」とつまらない自己紹介をしてしまいました。

しかも、焦ってそのままの流れでプレゼン資料に画面を切り替えてもらってしまったので、現場にいたふぉくす子さんは全然画面に映らないということになってしまいました。「この衣装はうんぬん」とうまく話題を持っていくようなこともできず、わざわざ朝も早くから山の中まで来てもらったのに申し訳ない限りです。

あとフィギュアの話に触れる時に実物を「コレです」って出そうと思ってて会場にも持って行ってたんですが、そろそろリハーサルだからということで荷物置いて軽装で現場まで行ったらそのまま本番までそこにいることになってしまったため、写真だけの紹介になってしまった、というのも心残りな点です。

そんな感じでグダグダのうちに3分を使い切ってしまったのですが、当日のニコ生のタイムシフト視聴(41分頃からふぉくす子の紹介)Togetterとか見た感じでは叩かれてるとかそんな事は特になかったようで、ほっとしました。

イベント後の撮影会でもふぉくす子を撮ってる人が結構いてくれて良かったです。ただ、撮影会の場所となっていたのが自然光の入らない薄暗い場所、しかも掲示板の前という酷いロケーションだったので、記念撮影以上のことはできない感じだったのは残念でした。2Fの受付近辺は吹き抜けで自然光もいっぱい入ってたので、ああいう所を選んでやれば屋内でももうちょっとマシだったんじゃないかなあ。あんなところでやるのはモデルさんに失礼だと思いますよ、ほんとに……

ふぉくす子が表舞台に出るということについての思い

ふぉくす子が表舞台にこうして出てくるというのは、僕としては結構画期的なことであったと思っています。

僕がMozilla Japanに半常駐してた時には既にふぉくす子ももえじら組もあって、当時色々やってたちょっと変わった広報活動の方針決めなどにも口出しさせて頂いていたので、ふぉくす子を表舞台に出そうと思えば出せる状況ではありましたが、当時僕はそれは絶対にやらないつもりでした。それどころか、僕という人間がMozilla Japanの広報活動に関与している事自体もなるべく公言しないでおくべきだと思っていました。

秋葉原でCD-ROMを配布した時(そういえば、この時のCD-ROMを作るためにProtable Firefoxのことを調べたのが、後のFx Meta Installerの開発に繋がったのでした)に、事前事後も色々と批判があって、Mozilla Japanの組織として「今後はこういうのは無しの方向で」的な空気がなんとなくあったのは事実です。

でも、そういう分かりやすい「失敗」が無かったとしても、当時まだ知名度自体がそんなに無かったFirefoxに必要以上にオタクなイメージがまとわりついてはいけない、エロ同人なんかやってる人間が関わってるということが悪意ある人間に知れてしまったらそれを叩きの口実にされてしまう、という恐怖感というか危機感が僕にはありました。だから、フォクすけの作者が僕だという事も公言していなかったのでした。

それから月日が経って、今ではフォクすけもFirefox自体もそれなりの知名度があるようになりました。しっかりとしたブランド価値が築き上げられた今であれば、この程度の事でそのブランドが崩れ去るようなことは無いだろう。そう思えるようになってきたので、僕は最近になってようやくこのあたりのことをおおっぴらに言えるようになりました(周囲に咎められていたのではなく、本当に、自分から「これは言っちゃいけない」とタブー視していたのです)。

また、クラウディア窓辺のように他の所も萌えキャラを使ったプロモーションをオフィシャルにやるようになってきた、という社会情勢の変化もあります。要するに、他の所がこうして大々的にやってるんだからふぉくす子も大丈夫やろ、と。そういう話です。

どうでもいいんですが、クラウディアさんは1985年生まれという設定になっているので、もうあと数年でさんじゅっさいになってしまうわけですけれども、大丈夫なんですかねこれ。(そこらへんを気にしてか、だいたいのキャラは誕生月と日は決まってても誕生年は不明ということになっているので……)

こういう企画そのものへの批判について思う事

今回の企画についても、「ヲタが公の場でオナニーしてんじゃねえよ」「おっさんが綺麗な女の子集めて持て囃してんじゃねえよ」的な批判の声はいくつか見かけました。以下はそのひとつ。

まず思うのは、モデルとして参加していた彼女らは基本的にオファーがあって業務としてあの場に居合わせただけ(ふぉくす子はノーギャラですが……)なのであって、媚びるな云々は筋違いということです。ドワンゴの女子マネージャー弁当手渡しもそうですが、こういったことの責はすべて依頼者側にあるというのが僕の認識です。

で、それ以外の話ですが、実際にイベントの裏側を現場で多少見ていて、確かに、内輪ノリとかホモソーシャルなイベントという空気があったのは否めないと思います。おっさんが若い女の子にデレデレして鼻の下伸ばしてるのは、まずそれ自体がみっともないし、そういうみっともなさを許容する空気があるということ自体が女性参加者を余計に遠ざけることになる、という批判は、まあ、あってもしょうがないなと思います。レースクィーンとか、モーターショーやアニメイベント等のコンパニオンとか、そういうのと同じ物を求める下心というかなんというか。(と、話題に出した所でふと思ったのですが、レースクィーンとかモーターショーやアニメイベント等のコンパニオンとかは実際の所どのくらい女性参加者を遠ざけるものなのでしょうか? そういうイベントに行った事がコミケ以外で全然ないので自分にはよく分かりません。)

ただ、OSCが参加者の人達の善意やボランティアに支えられているイベントであるのなら、支えている人達の「俺はこれがやりたい」という思いが結果的にOSCの方向性を定めていくのであって、「これこれこういう壮大な目的のためにお前らは自分のやりたいことを我慢して我々の指示に従え」なんて事を主催者側が言いだしたら、成立しなくなるのでしょう。だから、これはこうあるほかに無いのだと思います。

というか、OSCがホモソーシャルではいかんという指摘自体がもう的外れなのかもしれない、とすら僕は思っている部分があります。

ここ数年は僕自身、今回のように特別な用事が無ければOSCには積極的に顔を出そうという動機がありません。それは開催場所が遠いから(そもそも、イベント会場が都心からだと電車を一時間も二時間も乗り継いでいかなければいけない場所にあるという時点で、外の人を相手にする気が薄い内輪のためのイベントという性格がかなり前面に出ていると思いますが、まあそれはさておきます)というのもありますが、OSSが自分や自分の周囲の人にとってはもはや当たり前のこと・当然の選択肢の1つになっているからというのが最大の理由です。今自分が仕事でお付き合いさせて頂いている企業さんはどこも「どうしても秘密にしないといけないクリティカルな部分以外は成果物をオープンにして全く構わない」というスタンスですし、クックパッドなどの「金を稼ぎ出している部分はきちんと他にあった上で当然のように技術をオープンにしている」会社はいくつもあって、少なくともオープンソースは「非常に、非常に珍しい物」ではなくなっているというのが今の僕の認識です。成果の技術をオープンにする事には一定の合理性があるという認識がある程度広まっていて、様々な企業や個人が自然な行為としてそれをやっているのであれば、その流れは勝手に広まっていくわけで。

そういう社会情勢の中で敢えて「オープンソース」だけをかけ声にして集まろうというのだから、濃い人が集まるのは仕方がない。その上でさらに各自のボランティアなのだから、そりゃもう濃縮されて余計に濃いことになっちゃうわけです。でも、「オープンソース」の中心がOSCやそこに集う人達だけの間ではなく、普通に回っている経済の中の方に既に移っちゃってるんだったら、もうOSCはそういうものってことでいいじゃん、と。オープンソースというものに全く理解がない社会の中で孤軍奮闘して頑張ってきた人達の同窓会になっちゃっててもいいじゃん、と。そんな事すら僕は思っています。

という僕の認識もまたずいぶん偏っていて、実際にはそんな事は全然なくてオープンソースはまだまだエヴァンジェリストが引っ張っていかないといけない感じなんですかね? だとしたら僕は今ものすごく恵まれた環境にいるんだなあ……

技術系コミュニティ一般の話に広げると、技術やっててヲタ文化に関心が無い人が居られる場所がないのは良くないなあ、とは思ってます。流行りの漫画のジャーゴンまみれにしなくても話を面白くすることは多分できるはずで、そこでジャーゴンに走ってしまうのは、人の関心を引く発表内容や資料を考える手間の省略、手抜きでしかない。無自覚な内輪向け感覚は、こういう事に限らず、なくしていった方がいいと思います。自分がどっかのお料理教室に行くことにしたとして、先生が料理業界の常識だとか流行りの話題だとかを知ってることを前提にして僕のようなよそ者完全置いてけぼりで喋ってたら、嫌だし多分行きたくなくなりますしね。「同質な者同士が馴れ合うための場所」と「広く様々な人を迎え入れて交流するための場所」とはキッチリ分けて考える、分別のある人でありたいものです。

液晶ペンタブレットを使った(PCに接続して) - Jan 21, 2014

液晶ペンタブレット買った話と、Androidモードで使った感想の続きで、運用編その2です。

正月休みが終わって帰宅し、いよいよデスクトップモードでの本格利用です。Androidモードの感想は「液晶ペンタブレットという未体験の入力装置の感想」でしたが、こちらのエントリは「Intuos 4と比べてどうなのか」という話がメインです。

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液晶ペンタブレットを使った(Androidモードで) - Jan 20, 2014

液晶ペンタブレット買ったという話の続きで、運用編その1です。

お正月の間は、少しでも液晶ペンタブに慣れようと思って練習していました。Cintiq Companion Hybridは単独でAndroid端末としても使えるのが特長の製品で、お正月の間はこれだけ持って出かけていたので、自動的に練習はAndroidモード上で行うことになりました。単独では使えないCintiq 13HDだと、こうはいかなかったですね。

なのでこのエントリではAndroidモードの話をお送りします。とは言いつつ、液晶ペンタブ一般に適用できそうな話も入っていますので、Cintiq 13HDの導入を検討されている方の参考にもなるかもしれません。

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液晶ペンタブレット買った - Jan 17, 2014

液晶タブレット買いました。僕もついにCintiqユーザ! 「#!シス管系女子 Season2」第5話、日経Linux 2014年3月号掲載分からは新作画環境にてお送りいたします(予定)。

以下、3エントリに分けてCintiq Companion Hybrid導入の経緯やレビューを書いてみます。

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もらって嬉しいプルリクエストと、もらって残念な思いをするプルリクエスト - Nov 10, 2013

人格攻撃をしたくて書いてるわけじゃないですよ、という事はまず最初に表明しておきます。

GitHubで公開してるプロジェクトについて、幸いなことに時々プルリクエストをもらえる事があるんだけれども、その時に、何のストレスもなく「Merge」ボタンを押せる時と、そうでない時とがあるなあと思ってた。

その差は何なんだろう?と思ってたんだけど、今回treestyletabのargumentsを使っている箇所を書き換えるプルリクエストをもらって、それに関してやり取りをした事を通じて、「あ、こういう事かな」と思った点が1つあった。

それは、「相手の考えを尊重する態度が見られるかどうか」。

ロケールの翻訳であったり単純なtypoの訂正であったりというパッチではそういうのはまず見えてこないんだけど、今回のように設計のポリシーにまで踏み込んだパッチだと、互いの思惑がずれていることが見えてくる事がある。今回の場合、僕と彼とでは「こうあるべき」と思っているコードの姿がずれているんだなと思った。また、「ああ、僕がこれほど大事に思っていることが、彼にとっては些事に過ぎないと見えているのだなあ」という残念な思いも感じた。

考え方が違うことがすべて悪だとは思わない。JavaScriptの古い仕様であるargumentsから、ES6のRest argumentsへの置き換えを進めるというのは、古い物ばかり見てしまっていて且つ保守的な自分からはそういう発想がまず出てこない(大抵、どうしようもなくなってからようやく重い腰を上げる感じです)ので、自分の目が届いていないところについて「こういうのもあるよ」と教えてもらえるのは、正直、とてもありがたい。

ただ、僕が大事だと思っている事についてバッサリ切り捨てるような態度を取られるのには、いい気がしない。arguments・Rest argumentsで全部の引数を引き渡すように書くべきか、それともすべての引数をきちんと定義しておくべきか、という議論では特にそれを強く感じた。

僕は僕なりの考えを持って、過去に悩まされた色々な事例からの反省であったり、現実的にどこまでメンテナンスに時間をかけられるかという葛藤であったり、どういうコードであれば僕の思う「How」を正しく書き記せるのかであったり、といった事を考えた結果としてああいうコードを書いていたのだけれども、それらの一切合切を無視して「こうあるべき」と別のスタイルを押しつけられることに、僕はどうしても不快感を感じてしまった。コードを自分と同一視していて、自分自身を否定されたかのような感覚すらあったのかもしれない。最初の1回だったら、まあそういう前提が共有されているはずもないので、齟齬があるのはしょうがないと思うんだけど、2度にわたって否定されると、「あ、この人は僕のいろんな思いを尊重しようというつもりが全然ないんだな」と感じて、急速に心が冷たくなっていく、そんな感じがした。

何年もコードを書いてきたんだとか、自分がここまで育ててきたんだとか、そんなクソくっだらない個人的感情に基づいた見栄でもって、真理を歪めてはならない、というのは、その通りだと思う。でも、とても残念なことなんだけど、僕は大義のために自分の命や思い入れをためらいなく差し出せるタイプの人間ではなく、むしろ個人的な感情の方をこそ大事にしてしまうタイプの人間のようなのだ。僕はそういう頭の悪い人間ではないのだ・もっと賢くて理性的な人間なのだと思い込もうとしてたんだけど、実際にはそうではない・そうなれないのだなということを、31歳の今では痛感している。

思い返してみると、僕がかつて「技術系コミュニティ」という物に激しい拒否感を持っていたのは、それが理由だったのかもしれない。唯一絶対の真理として論理的な正さを偏重し、そうでない価値観は無意味と切り捨てる、そういう傲慢さや冷酷さのような物を僕は嫌っていたのだと思う。まあ、そういう自分の想いでもって彼らを・世界を変えたいと思っていたというのも、また同種の傲慢だったのだなという事も今では分かる。我か彼かではなく、どちらの価値観も並行して存在していてよいのだ、そういうカオスを受け入れることが大事なのだ、という事を認識できるようになったのは、それよりずいぶん後になってからのことだ。

ともかく、そういう残念な人間である僕にとって、一緒に作業をしたいと思える相手はやはり、僕の思いをなるべく尊重してくれる人という事になるのだなあ、と思うし、また自分が他の人と一緒に作業する時も、ある一面から見た時だけの正義をいたずらに振り回すことなく、最大限相手の思いを尊重して事にあたっていきたいなあ、と思う、そんなことを改めて考えた出来事だったのでした。

世の中には、ぬるま湯に浸かっていては駄目だ、自分の間違いをビシビシ指摘してくれる厳しい人と一緒にこそいるべきだ、という言説もある。僕はそれは、基本的にはいい事言ってると思うんだけど、でも、そこに相手を尊重する態度があるかどうかってのが、結構重要なんじゃないかと思ってる。

相手を尊重した上で、その思いを遂げるためにはもっとこうした方が良いよ、というアドバイスをしたり、その思いはこれこれこういう前提がおかしいよと新しい視点を示すというのは、僕にはまだ受け入れられるんじゃないかなって思う。でも、そうでなく、お前は間違っているからこうするべきだ、と、僕の思いを歯牙にもかけないでその人の思う正義であったりあるいは誰か第三者が掲げる正解であったりに沿って特定の行動を押しつけられるというのは、ストレスになる。その「厳しい指摘」がどっちであるかというのは、論理的な正しさだけを見ていると分からないと思う。

俗な言い方をすると、それが「愛があるかないか」って事なんじゃないだろうか。「厳しい指摘」をする時に、「指摘する側である自分の自己愛に溢れた指摘(独り善がりな指摘)」ではなく「指摘される相手への愛がある指摘」をする、というのは、なかなか難しいことだと思うけれども、せめてそう心がけたいとは思ってる。

また、逆に言うと、自分に向けられた「厳しい指摘」をすべて受け入れるでもすべて拒否するでもなく、その中で「愛のある指摘」を上手くより分けることができれば、他人の言説にいたずらに振り回されて疲弊することも、世界全部を敵に回しているかのような疎外感を感じることも、ないのかな……とも思う。

結論:愛は地球を救う!

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