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の動向はもえじら組ブログで。
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友人にずっと前から勧められてたので読んでみた。「四年生」の続編なんだそうだけど、こっちだけ読んじゃったよ……いや読み始めたら止まらなくなっちゃってね。
あらすじ。アキオと芳乃は同棲中の大学4年生カップル。しかし卒業を目前に控えてアキオの単位不足が発覚。同棲解消して、芳乃は東京で社会人一年生に、アキオは大学五年生に。遠距離でやっていくものかと思いきや、アキオはドロドロの四角関係に巻き込まれたり、芳乃はナイスミドルな妻子持ちに一目惚れしたりで、あっちこっちで別れたりひっついたりと泥沼な恋愛模様を描きまくる……という感じ。「げんしけん」で爽やかな青春オタクライフを描いた木尾士目のダークサイド全開です。
先日2巻が発売された「隣死臨死!!江古田ちゃん」は相変わらず切なくて面白いのだけれども、他人、特に女性、もっと言えば若かったり綺麗だったりする人のする事の裏をいちいち勘ぐらずにはいられなくなってしまうのが困る。
どうでもいいけど、「りんし」と入力して変換したら「隣死臨死」とは変換できないのに「輪死」は出てくるAnthyってどうなのよ。なんだよ輪になって死ぬって。
追記。変換できないから正しい漢字を思い出せなくて間違って書いてしまったよ。家に帰ってATOKで正しい漢字を知って慌てて修正した。んもうっ、Anthyのバカバカバカバカっ!!(ツンデレ風に)
この歳になってくると、同じフィールドで自分より年下の人と出会うことは珍しくなくなってくる。
10代であれこれやってる人は珍しくても、20代であれこれやってるひとは全然珍しくない。「若くて凄い人」は、本当に年が若くて物凄く実力がある人も多いんだろうけれども、そう評される人の中の一部は確実に、単に早熟なだけなんだろう。大人になってからしはじめるはずの事をちょっと早めに始めてしまっただけで、他の人も大人になってくれば、差が全然なくなる。
差がなくなるだけで終わらず、追い抜かれてしまった場合は、もっと悲惨だ。早熟なだけなのに、相対的に現時点で「凄い」だけでしかないのに、「自分は永続的に絶対的に凄い」と勘違いしてしまって、それ以上自分を磨くことを怠ってしまったら。気がついたら後から来た人にガンガン抜かれていって、もう追い付くことなんかできなくなってしまっていたりする。
そして、今の地位を守ることだけに固執するようになる。後から来て自分を追い抜いていく人達を見て、ただひたすら妬むばかり。
分不相応に肥大化してしまった自尊心、いや、もはやただの見栄でしかないそれを、小さく削るしかないと分かっていても、削れない。削る痛みに耐えられない。ヤスリで皮膚をごりごり擦るような鈍く長い痛みに耐えられない。
削る痛みに耐えられないから、まるごと捨てる。根っこから引き抜いて全部捨ててしまう。プライドのかけらもない人間、いっちょあがり。
でも肥大化した自尊心が上に乗っかってる状態がいままでデフォになってしまっていたから、またすぐに自尊心が元の大きさまでふくれあがってしまう。
まったく、始末に終えない。
いや、もしかしたら、もはや非モテでも非コミュでもなんでもないのかもしれんのだけど。ていうか多分そうなんだと思う。最近僕が自分の事を省みてみて思うのは、結局、自意識の問題なんだろうってことだから。まあそんなことはどうでもいい。
若くて綺麗な女性に対面すると、緊張する。
「綺麗な」っていうか、なんていうんだろ、いわゆる「女子力の高そうな」っていうんだろうか。化粧ばしばしに決めて、オシャレで、っていう。ある意味で、非現実的な。実用主義とか質実剛健とかとは対極にあるもの。男でも女でも、人の目を惹き付ける要素。対人関係における、ある意味で、武装のようなもの。
例えば、「うちのかあちゃん」には無くて、蛯原友里にはあるような要素。江古田ちゃんに言わせれば、「猛禽」的な、何か。
日頃そういうものを前面に押し出している人と接点が無くて、常にドリーム見て、飢えているような状態だからだろうか、「彼女」というポジションに今の彼女が収まってくれるまで、僕はずっと、「若くて綺麗な女性」「綺麗な女性」下手すりゃ「自分に優しくしてくれる(=人として接してくれる、という程度ですら十分「優しい」。僕と対面してドン退きしない人なら、誰でも「優しい」。そう僕は思ってしまう。)女性」なら誰でも、その人と仲良くなって付き合って云々といった想像をしてしまっていた。
「彼女」がいる今ではそういう考えは起こらない、いや、もしかしたら意識してそうしてるのかもしれないんだけれども。
その代わり、そういう浮かれた感情と同時に沸き上がっていた黒い感情が、浮かれた感情が無い今では、それだけが殊更強く感じられるような気がしている。
ほとんどのリサイクルは実際には資源の余計な浪費にしかなっておらず、「資源を大事にする自分」という理想像を手に入れるための消費行動に過ぎない、というのはよく聞く話だ。
しかしこれを知ってもなお僕は、物をゴミ箱に捨てることに抵抗を覚えるし、資源ゴミの日に資源ゴミを出すと「赦された」気分になる。理屈で自分に言い聞かせたいんだけど、なかなか言うことを聞いてくれない僕がいる。
「思い入れ」という人間性の非効率を見ても思ったけど、理屈に合わない事と分かっていながらも、自分の心の中のバランスを保つためだけに、人は無駄な事をするんだろう。
Split BrowserのAPIのドキュメントを用意してみた。まあ、こんなもん使う人がどれだけいるんだか、はなはだ疑問なんだけど……
「諦めた」と宣言したそばからナンだけど、あの後もう少しがんばって、どうにか対応してみた。aioContent
のリダイレクタになるオブジェクトを定義するだとかの珍妙なテクニックを駆使しまくって、やっとのことで。
AiO Gesturesのためだけに7KBくらいはコード書いた気がする……あまりにハック用コードが膨大になってきたから別ファイルに分離しちゃったよ(リンク先の半分あたりから先は全部AiO Gestures用のコード)。
著作権の保護と言いますが、注意深く見てください。著作権を守れって声高に叫んでいるのは著作者やクリエーターではなく、真ん中に入って仲介している人たちですよ。
<object width="320" height="256"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/RZ6jiQNa3f0"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/RZ6jiQNa3f0" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="320" height="256"></embed></object>
最後の「イエーイ」で吹いた。何度見ても効くわこれは……
しかしながら、(※引用注:Firefoxは)裏を返せば何をやるにも面倒、とも言える。ふとした思いつきでメニューやショートカットを増やしたい衝動に駆られたとき、すらすらとスクリプトを書けない私は、探すか諦めるかの二択を迫られる。Operaであれば出来るか出来ないかの二択。出来るならちょっとiniファイルに書き足すだけだし、出来ないなら諦めるだけ。決断にもそう時間は要しない。
スクリプトを書く必要は必ずしも無くて、拡張機能で大抵の問題は解決できると思うんだけど、それはともかく、この出来ないなら諦めるだけ
というのが明暗を決めるのかもしれない、と思った。
僕自身を振り返ってみると、PCのこと、ソフトウェア、自分の作業環境というか自分の「デスクトップ環境」に関しては、諦めが悪いというか執念深い気がする。今の環境を捨てて新たな環境を構築し直す労を惜しんで未だにWindows 2000を使い続けているし、ハードウェアトラブルで環境を作り直さないといけなくなった時もレジストリをごりごりいじってどうにか今までの環境を極力引き継ぐようにしたし、もっと前は、Windows 98から2000に移行する時も仮想マシンの中にWindows 98環境をそのまま再現してレジストリの内容をひっぱってきたりしていた。画像編集には今でもFanfare Photographerを使っているし。テキストエディタはマクロを作り込みまくったせいで秀丸から抜け出せずにいるし。
諦める時って、ある意味ではスッキリするんだけど、ある意味では悲しくて悔しい。他人に屈した、負けを認めた、そんな気がしてしまう。ガキっぽい対抗意識をガンガンに燃やしてしまう僕だから、諦めないといけない場面が比較的少ないFirefoxにのめり込むのかもしれない。