たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
しまった。「落札後何時間(何日)以内に連絡がない場合は購入の意志無しと見なす」旨の記述を見落としていて、マイナス評価が付いてしまった。いつの時点でかアカウント作りなおして、ヤフオクにはまだほとんど使ってなかったから、「新規」から「-1」に……基本的にほとんどのオークションは評価がマイナスだと入札できないから、事実上のアカウント凍結だ。出品者の人にも「詫びとかはいらないから、もう二度とオークションに参加するな」ときついお叱りを受けた。
ノークレームノーリターン、とか、開封済みキズ有り、とかの条件が付いてる物は今までにもあったけど、何時間(何日)以内に落札者側から改めて連絡が必要、というパターンは初めてで、前提として「落札したんだから当然購入の意志有りに決まってるだろう、みんなそう考えてるもんだろう」という風に思い込んでいたから……というのでは言い訳にもなりませんね。こういう事がないように、良い子じゃなくて良い大人の皆さんは毎回ちゃんと全部読んどきましょう。という反面教師のエピソードなのでした。
自分の借金が原因で禁治産者になった、とか、ブラックリスト入りした、とか、破産した(クレジットカードが作れないetc.)、というのも多分こういう感覚なんだろうなあ。僕の場合ヤフオクがなきゃ生きていけないってわけじゃないからまだ「人生の中で選択肢が一つ減った、できることの可能性が一つ消えた」だけで済んでるけど、アクセスできなくなったそれが生きていくのに必須の物だったら……と思うとgkbrだ。今回のようなことですら「いやあこれこれこういう事情があったんだよ、僕はそんなに言われるほど悪くないんだよ?」と自己弁護に走ってしまっているのに、ライフラインを絶たれたらそれはもう比較にならないくらいみっともない取り乱しっぷりになってしまうんじゃないだろうか? その自分のストレス耐性の無さが、怖い。
追記。一つ前に取引完了してた別のオークションでの+1評価のおかげで、アカウント凍結状態からは復帰できたぽ。でも「二度とオークションに参加するな」って言われたのが結構腹にずっしり来てるので、当面は使う気になれない……
追記。メールで直接やりとりのヴァーリトード
って言われるとなんかもっと殺伐とした世界を想像してしまうよ! しかし思い返してみれば昔(作り直す前の旧アカウントの頃)はヤフオクもメールでやりとりだったんですよね。今のアカウントになって久しぶりに使って、「取引ナビ」とかYahoo!ペイメントでの簡単決済とか色々便利&安全(っぽく)になってたから驚いた。少額ならYahoo!プレミアムじゃなくても入札できるそうだし、参加の障壁がめちゃめちゃ低くなってるんだろう。そんな時代に、たかが1つのアカウントの命運でやきもきするというのが、むしろナンセンスなのだろうか。
初詣の時に偶然出会った方との帰り道で話していた時に、自分の事ばっかり話してしまっているなあと思いながら、それでもやっぱり自分の事ばっかり話していたんだけれども。
よく、ヲタは承認欲求が強くてとにかく「見て見て!!」と他者の迷惑を顧みず自分を押しつけたい衝動のままに喋るから自分語りばっかりになるんだ、というけれども、それだけじゃないと思うんですよ。
なんていうかね、聞き方がわかんない。どうすれば自然に相手の手持ちの話題を、相手が不快に・不安にならない範囲で引き出せるよう水を向けられるのか、分からない。どう聞けばいいかわかんない。なのに沈黙は怖いから、その沈黙を埋めるために、自分から喋るという道を選択してしまう。自分語りで。
それにさあ。ホットリーディングで相手の個人情報を引き出して詐欺にかけようとする人って、いそうじゃないすか。あからさまに根掘り葉掘り訊きまくるのはもちろん怪しいけど、一見柔和な人当たりのいい人を装って実はどんな餌なら食いつきそうかを慎重に調べてる、そんな人だっていそうじゃないすか。そう思うと、何を訊くのも怖くなってしまうんですよ。何か訊いた瞬間に「なんだこいつ、初対面のくせに個人情報を訊き出そうとして……こいつ怪しいぞ」って思われるんじゃないかって。疑われるんじゃないかって。だったらまだ、自分の事ばっかり一方的に喋る空気の読めないバカ、の方がマシなんじゃないか?ってちょっと思ってしまう。見くびられる方が、疑われるよりいいんじゃないか? って。
ちなみにこのエントリのタイトルは最初「ヲタは何故~」だったのですが、僕個人の例だけを挙げて一般化するのは宜しくないなと思ってこのように改めた次第です。コンテキストとしては「会話する時にどうして人の話を聞かずに自分の事ばっか喋るわけ?」っていうのを意図してましたが、このタイトルだとなんだかWeb上での発言一般の事を指してるようにも読めますね。内容まで読めばそれは誤解と分かるとは思いますけれども。
6話まで見た。
原作1巻までしか読んでない状態なのでひょっとしたら外してるかもだけど、原作のエピソードをきっかけにさらに自然な形で発展させているような印象を受けた。これが本当にアニメオリジナルなんだったら、本当に、見事な「アニメ化」だと思う。あれだけハマってたAIR(Adobeのアレじゃないよ)のBS-iアニメ化の時にもぐうの音も出ない見事な「アニメ化」を見せてくれた京都アニメーションだけの事はある、ということだろうか。
そのアニメなんだけど、なかなか面白い。時間取ってガッツリ見るほどとはあんまり思わないけど、無限ループで環境ビデオとして流してたいような感じ。(ってこれ誉めてんのか?)
しかし、面白いんだけど、それだけに、見てて辛い。無邪気に楽しめない事が辛い。これを面白いと思える事が辛い。これ「ならば」面白く思えてしまう、ことが辛い。
素直に「面白い」と思う中で時々、かわいらしい美少女・女子高生として描かれているこなたやかがみの言動が、あくまで我ら醜いヲタの醜い姿の投影にすぎないと気付いてしまう。すると、彼女らの姿は微笑ましく見えるのに、方や、その投影元である自分の姿はとても格好悪くだらしなく他人様に見せられたもんじゃない、という事を意識してしまう。「ただしイケメンに限る」という言葉があるけれど、それと同じだ。「ただし美少女に限る」。彼女らがする姿なら、許せるし笑えるし微笑ましい。自分がする姿は、とても許せないし笑えないし痛々しい。
「げんしけん」の男性陣(除・コーサカ)なんかがそうなんだけど、やっぱ、見てて耐えられないんですよ。うっわぁ痛々しい……って。自虐的な笑いになってしまう。なのに、こなたやかがみだったら、同じ事をしててもそうはならない。その事が、とても辛い。なんで自分はこなたやかがみじゃないの? どうして自分は、この痛々しい姿を第三者から見て微笑ましいと思えるような人物像じゃないの? どうして自分はクッチーだったり久我山だったり斑目だったりの方なの? って。ぶっちゃけそんな風に思ってしまう。
そんな風に思ってしまうから、この作品自体も、「自分達のヲタ言動を美少女に投影する事で微笑ましいゆるゆる日常ギャグに見せて、本質的なキモさだとか痛々しさだとかをごまかして、目をそらさせる、そのために書かれて(描かれて)いる」、歪んだ自己弁護のように見えてしまって、素直に楽しめなくなってしまう。穿った見方に囚われてしまって、素直に楽しめなくなってしまう。
まあそれでも、ヲタである事をやめられはしないし、やめたいと心底思う事も多分無いし、この作品そのものを面白いと感じるのは変わらないんですけど。
他人の目を気にしすぎ? その通りですね。
このストレス耐性の無さを直したい。検証してないテストをアップロードしたことをちょっと叱られただけで、もう、こんな風に考えてしまっている。
こうして書き出して、スッキリするのと恥を晒すのとを同時にやってみる。こういう感情を抱えたまま嫌味なコメントを書いたりして「行動の端々から」こういう感情を持っていることを「見抜かれる」くらいなら、最初から全部出しておいた方が僕は気が楽だ。自分でも気付いていないことを他人に「見抜かれる」事が一番怖いから。
自分が上記のようなことを思う一方で、bugzillaですでに活動してる人はこう思うんだろうなという内容の予想。
そう。モンスター顧客なんだよね今の自分は。「自分は悪くない! お前らが悪い!!」と、責任を誰か他人のせいにしたくてたまらなくて、理屈の合わないことを言ったり思ったりしている。いま世の中に溢れてるモンスターペアレントとかそういうのもみんな、僕と同じように、ストレス耐性が異常に低いせいで起こってる人格障害みたいなもんなんだろうな。
コンスタントに読み進めてます。
とりあえず4巻まで来たけど、竹地の幼稚さと卑怯さってホント自分ソックリだなあ! ここまで精緻に描かれちゃあ言い訳のしようもないぜ! という感じです(ついでに言うと見た目も似てる)。今すぐ首吊って死にたくなるね。でももう手遅れだ……このマンガはすでにベストセラーになってるみたいだから、日本中のマンガ読みが僕の醜態を見てるわけだ。ホント死にたい。
何で死にたいかって、自分ごときの人間性はこのマンガ1作品を読めばもうほとんど完全に網羅されちゃってるんじゃないかって思うからですよ。可逆圧縮された僕=竹地 みたいな。いや、むしろ、僕は竹地君のように中学生で脱童貞はできなかった訳だから、包含関係にあるのかもしれん……竹地⊃自分 みたいな。マンガに描かれたキャラクターより薄っぺらい人生経験って何なわけ? みたいな。
あーレビューでしたそうそうレビュー。いやもうなんつうか感想なんか書けないよ。自分のちんこ見ながら自分に「こいつをどう思う?」なんて、聞いてどうすると。そんなわけで、自分のちんこを切り落とせないのと同じように、やっぱりこの作品は処分できない永久所持組入りです。
「JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた」
ということを実際に曲を演奏しながら検証する動画と、JPOPのみならずヲタ好みの曲までもが同じ法則に則っていたことを証明する動画が、紹介されている。
王道進行に則ってさえいれば売れる、ということで下らない曲を粗造乱造する日本の音楽業界の人間を批判しつつ、そのような下らない曲までも名曲と区別が付かずにありがたがって買い求める馬鹿な消費者をも、言外に批判しているわけだ。(買う馬鹿がいなきゃ、駄目な物が売れるわけがないからね。)
音楽の分野に限らずこういう話はよく出てくる(ユニクロとか)と思うけど、そういうのを見る度にいつも思うことがある。
この人のように音楽の専門家には「王道進行に則っていようがいまいが、本質的に名曲かどうかが分かる」のだろう。でも僕のように音楽の才能がない凡人には、「名曲であろうがあるまいが、王道進行に則っているかどうかしか分からない」んだよね。服に至っては、「流行に則っていようがいまいが、本質的にカッコイイかどうかが分かる」プロのファッション専門家や、「本質的に格好良かろうが悪かろうが、流行かどうかは分かる」一般人にすらも劣る、「本質的な良し悪しも流行かどうかすらも分からない」という有り様だ。
そういえば現代芸術というのは、いかにして価値観をひっくり返すかの優越感ゲームになっている、とどっかで言われているのを見た記憶がある。既製の便器に署名したり、演奏しないでピアノの前に4分半座ったりして、それを芸術と言い張った人達の話は知ってる人もそれなりにいるんじゃないだろうか。こういう人達の言う所の「一般人には違いが分からないだろうが、俺達には理解できる芸術性があるのだ。本質的にそれが名作かどうかが俺達には分かるのだ。」っていう話は、凡人の僕にはなかなか理解できない……真の意味を知ることができないのはもちろんのこと、概要すらも分からない。
僕が僕の耳で聞いて「いいな」と思った曲が音楽の専門家から「王道進行に則っていること以外に何もいい所がないクズ」と言われ、同時に、専門家が「これは名作だ」と褒めそやしている物と「クズ」との違いが僕には分からない。「いいな」と思った曲の中に、専門家が良いと言う物と悪いと言う物とが混在している。
彼ら専門家が物を選ぶ時と同じ基準で僕は物を選べていない。彼ら専門家が見ている所とは違う所しか見ないで物を選んでいる。権威たる彼ら専門家が「そこを見て物を選ぶべき」と言っているポイントで判断することができなくて、彼らが「そこで選ぶべきでない」と言っているポイントでしか物を判断できない。自分の素直な判断を信じると非難され、馬鹿にされる。
なのにその一方で、「人の言うことを気にせず自分の素直な判断を信じればいい」と、その専門家の人は言うのですよ。うん、たしかにあんたはあんたの「素直な感性」に従って物を選べば難なく「正解」できるんだろうよ。でもね、僕のような人間が自分の「素直な感性」に従って物を選んだら、「失敗」してしまうんだよ。あんたの言うことに従って行動したら、あんたに「ダメ」って言われるんだよ。訳わかんない。学習される無気力、って言葉をあんたは知ってるかい?
という風に事あるごとに考えるので、僕はその度に、何とも言えないイライラを感じる。
Jinkunさんに言われたこと。
僕は、JNK Worldに顔を出していた10年前くらいが一番たくさん絵を描いていた時期だと思う。今では、年に2回、コミケに合わせてもえじら組の活動をやってるくらいだ。当時色々と偉そうなことを言ったりしたりしていた僕が、今そんな体たらくであることを知ったら、Jinkunさんも川家さんも僕を軽蔑するんじゃないか。そんな風に思っていた。
でも、Jinkunさん曰く、今の僕の方が楽しそうだという。
そういう風に言われたことの理由は、多分、絵を描くことに対する意識の変化があるんだろうと思う。
当時の僕は「これしかない」と思っていた。絵を描くこと以外で、世界に確かに自分が生きたという足跡は残せないと思っていた。だから自分で色々縛っていた。右向きの顔を反転無しで描けなくてはならない。エロに頼ってアクセス数や販売部数を稼ぐのではなく、絵の質や世界観やそういったもので支持を得なくてはならない。誰からも認められる物を目指さなければならない。高尚でなければならない。そんな風な拘りがたくさんあった。今から思えば、下らない拘りばかりにも思えるけれども、当時は、真面目に拘っていた。
でも、興味の中心がWeb標準とかWeb技術とかに移ってしまって以降、絵を描くことに対して割く時間が減ってしまった。いや、もしかしたらそれは逆で、自分より下の世代で自分よりずっと情熱がありずっと絵が上手い人達がどんどん出てくるのを見て、「もう敵わない」と悟ってしまい、絵の世界から逃げてしまっただけなのかもしれない。
転機になったのは、もえじら組の活動だったと思う。
哀さんの勧めでIRCNetの#汚れの巣や#順列都市に常駐するようになり、いつかの「CSSコミュニティ」の人達と気軽に連絡を取れるようになり、Junさんとinugamixさんの結婚があり、inugamixさんのふぉくす子がその界隈である種のアイドルとなり(良い子はW3C子の事には触れちゃダメ!)、界隈内外のいろんな人がふぉくす子の絵を発表するようになり、ここは誰かが音頭を取って同人誌でも一発作るべきなんじゃね?という空気になって、コミケ出展経験があり自分で絵も描いており一番時間的に余裕があった僕が首謀者となって、成り行きでプロジェクトが始まって。ネトランがふぉくす子をフィギュア化し、気合いの入ったコスプレ衣装まで制作されて、祭りの空気はどんどん盛り上がり。僕は物凄く久しぶりに、ファン活動として絵を描くことの楽しさというものを感じていたのだと思う。
触れちゃダメ、と書いたけどやっぱり触れる。W3C子での失敗はやはり大きかったと思う。ビジュアルイメージが無かったものにビジュアルイメージを付ける、キャラクターをデザインする、という事における「敗北」。僕のやり方が色々まずかったのだと思うけれども、僕がビジュアル化したW3C子は僕のせいで死んでしまい、inugamixさんがビジュアル化したふぉくす子はいろんな人に愛された。その時悟った。僕には、広がりを生み出すオリジンを作ることはできない。そういう才能がない。だから、誰かが作ったオリジンにぶら下がって、それをネタにして楽しむことしかできない。僕は無力だ。僕にはそもそも無理な事だったのだ。いいかげん、身の程を知り、分をわきまえるべきだ。
それからは、気負いがだいぶなくなった、と思う。下手でもいい、上達してなくてもいい、絵柄が古くてもいい。下品でもエロでも全然構わない。好きなキャラを好きなように描いて、同じようなことをしている人達の祭りに参加し、祭りの空気を楽しむ。自己表現のための・自己顕示欲を満たすための手段、生贄としてではなく、それ自体が目的である、絵を描くこと・漫画を描くこと・そしてそれを発表することの、そのものの楽しさ。そういうことを今は感じられているんじゃないか、と思う。
元々あった霧吹き?は100円ショップで買ったもので、目が荒いというか大量の水がドバドバ出るため、アイロンがけに使おうとしたら乾いたはずの洗濯物がビショビショになってしまった。ということでもっと目の細かい霧吹きが欲しくて、池袋まで行ったついでに東急ハンズでそれらしい物を探してみた。
売り場を見てみたら、詰め替えボトルのコーナーにそれらしい物がたくさんあったのだけれども、目が細かいかどうかまでは分からなかった……一種類だけ「ミスト状になります」と書いてあったのがあって「これかな?」と思ったけど確証が持てなかったので、ダメ元で店員さんに声をかけて聞いてみた。「アイロンがけの時に使うような目の細かい霧吹きを探してるんですが、一番目が細かいのはどれですか?」と。そしたら、そのうちの一つを「自分が試した中ではこれが一番細かかった」と教えてもらえたので、それを買うことにした。
買ったのは、ノズルを押すとプシューと中身が吹き出してくる普通のヘアスプレーみたいな形をした奴。タグにはthe SCENTPUMPとか書いてあった。892円。輸入物らしい。市販のヘアスプレーの入れ物と違ってキャップに長い足が付いていて、キャップを押したり引いたりすると自転車の空気入れみたいに空気が入っていって圧縮される。で、キャップを外してノズルを押すと、圧縮空気の圧力によって中身がプシュート吹き出す、という物だった。面白いことを考える人もいるもんだなあ。実際に水を入れて試してみたら、確かに目の細かい霧状になって水が出てきた。これはいい買い物をした。
聞いた店員さんがたまたま「当たり」だったのかもしれないけど、商品知識が豊富な人が売り場にいるというのは素晴らしいことだと思った。またここで買い物をしたいなと思った(乗せられてます)。
あと、今までの自分だったら、こういう場所で右も左も分からない状況になったら、悩みに悩んでカンで選んで買って帰って期待外れで後悔、というオチになっていたんじゃないかと思うけど、自然に人を頼ることができたという事実を改めて意識して、深い感慨を覚えた。
ここに来るまでにどれだけの事があっただろう。自分のホームでない、アウェーの場所に飛び込むという事。恐怖を乗り越えて人に話しかけるということ。したいこと・求めていることをきちんと伝えて、自分から相手にできる限り協力して、相手の協力を引き出して、一番いい結果を得られるようにするということ。
自分一人で全てを抱え込んで、人の手を借りずにパーフェクトにこなせるようになることを目指すのでなく、(人の手を借りないとどうにもならないことから目を背けて、その時の自分にできることの範囲が世界の全てだと思い込む、のではなく、人の手を借りないとどうにもならないことも含めての世界だと認識して、自分にはコントロールできない事がたくさんあるのだと認めて、)必要に応じてアウトソーシングすることで自分も相手も利益を最大化し、閉じた「個」として生きるのではなく流動的な「状態」として生きるということ。
自分一人じゃここまで来れなかった。ゆずほさんとかいろんな人が手助けしてくれてやっとここまで来れたという気がする。
Piroさんのモテぢからは……9/100点 「無人島遭難級」です。だそうです。我ながら「お見事!」という感じです。狙って出せる点数じゃないね。
こういう話といい一つ前のエントリといい、僕という人はホントに後ろ向きで悲観的なんだねとよく言われるし自分でもそう思っているつもりだったけれども、先日カウンセリングを受けた時に掘り下げていった感じでは、むしろ過剰な自己愛に溢れてる。過剰な自己愛に溢れてるから、自分が一番じゃないことが嫌だと。でもプラス方向で一番になれない(努力のできない人間だし、才能もない)から、マイナス方向で一番になろうとして、「自分より下」を認めない。「自分より上を認めない」ことはできない(あまりに滑稽だしね)けれども、「自分より下を認めない」ことだったら簡単にできる。多くの日本人が自分が世界全体の中で見れば上位の裕福な位置にいるということ・自分よりも下に例えばアフリカとか中国の田舎とかにもっと沢山の人がいると言うことに気付きもしないで生きている、ということからも、「自分より下を視界の外に追いやること」がどれほど簡単かは容易に想像が付くでしょう。
とにかくそんな風に自分大好きで根本的な所では自分の外に視線が向いてないんだから、他人と心を通わせるだの他人を振り向かせるだのの「モテる力」なんてあるはずがない。いろんな意味でこの結果は示唆に富んでるなあと思うわけですよ。