たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
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見て不愉快になる物は見なければいい、と人は言う。例えば自分に対する陰口が書かれた匿名掲示板。例えば自分に向けた悪意が積み重ねられているソーシャルブックマーク。自分の目に入るところにそれを入れなければいい、そう言う人は多い。中にはシステム的にそれをやってしまう人もいる。リンク先のさとうさんはそういう人のようだ。
しかしそれができない心の弱い人もいる。僕はそういう人間だ。
自分に向けられた悪意の具体的な姿を一度も知らなければ、それが存在することなど思いもしないで、幸せに生きていけるのかも知れない。でも、一度でも知ってしまったら、それが種となって、不安はどこまでも成長していく。気分をゼロから1に変えるのは大変だけれども、1から100にも1000にも増幅するのはたやすい。一度不安の種が蒔かれたら、たちまちそれが心の中全てを埋め尽くしてしまうほどに生長する。
だから僕のような人間は必死になって、1や100や1000あるものを0に戻そうとする。唯一絶対の答えを解き明かして前提から否定しようとしたり、不安の種の温床を消し去ろうとしたり、異常な反応を示す。平たく言えば、簡単に釣られる。誰が釣り糸を垂らしてもガンガン食いつく、入れ食い状態。時には数十・数百もの釣り糸を口から生やして無様な姿を晒したりもする。
不安を増大させる係数が無駄に大きいんだ。普通の人より加速度的に早く不安が増大するんだ。
まるでガソリンのように、一度火が付いたら爆発するまで燃えさかってしまうんだ。
そういう病気なんです、多分。
11ページあったものをどうにかして10ページに収めて著者校正を返した直後に、ページが9ページしか確保できなかったんでもう1ページ削れとのお達しが。
あちこちを削ったり図版を減らしたりという手もあるんだけど、可逆圧縮で限界まで圧縮したところをさらに削るわけだから、もはやここから先は非可逆圧縮の世界になってしまうわけで、どうせ非可逆にするんだったらあちこち少しずつ欠落させるよりはごっそり一カ所欠落の方がまだ他の部分を大事にできるだろうと思って、大きなネタを一つ削る方向でどうかと打診してみた。次回にその内容を持ち越せればいいんだけど、持ち越せなかったらどうしよう。
まあ、可逆圧縮で残した部分も大して質は高くないんですがね! あ、それでページ数減ったのかな……
既に有名どころの拡張機能で使われてるかも知れないけど、XULでのフェードイン・フェードアウトのやり方。deckとの組み合わせのバグがあることに気がつかず、往生こきました……
ふと思い立って、Windowsでシンボリックリンクを作るためのユーティリティを入れてみた(正式名称は「リンク作成シェル拡張 for Windows 2000/2003/XP」)。Windows NT系の隠し機能であるハードリンク(一つのファイルに複数の名前を付ける)とジャンクション(ファイルシステムレベルで実現されるショートカット)を使って、シンボリックリンク風に扱えるようにするというもの。Vistaでは最初からそういう機能が付くみたいだけど。
Ubuntu(Linux)ではショートカットが無くて最初からシンボリックリンクがデフォなのでそれを使ってるんだけど、慣れてくるとこれが便利なんだよなあ。ファイルシステムレベルでリンクを解決してくれるから、アプリケーションからも透過的に使える。Firefoxのプロファイルでいうなら、設定ファイルをエディタでちまちまいじらんくても、標準のプロファイルの場所にシンボリックリンク作ってリネームすればそれでおしまいだし(微妙な使い方)。開発とかやるのにさりげなく便利だと思う。
今実際にやってみた例。プロジェクト用のフォルダの中に置いた作りかけの拡張機能のフォルダへのシンボリックリンクを、今使ってるFirefoxのユーザープロファイルのextensionsフォルダの中に作って、ファイルの編集・テスト・確認後のプロジェクト関係のフォルダへの書き戻しの手間を省略するという使い方。かなり限定的だな……バージョン管理システム使ってたらそもそもそっち使えばいいじゃんって事になるし。
まあいいよ。僕は旧世紀の人だから泥臭いやり方で。
益田さんのはてブでちょうどクリップされてた好意の返報性の話が、先のエントリに関係しているのではないかと妄想してみた。
普通の人は、返報性がない相手との関係性を早めに断ち切れる(相手が自分に対して関心が全く無いと分かったら、自分の方からさっさと手を引ける)のではないだろうか。切り捨てても次がある、多くの人とコミュニケーションの機会を持てるという予想が成り立つから、潔くなれるのだろうか。だから結果的に相手からの好意の返報の確率が適度に高くなって、「好意を示したら大抵は好意で返してもらえる」という考え・経験則を得るに至るのではないだろうか。
対する非モテは、返報性がない相手との関係性を断ち切ることができない(相手が自分に対して関心が全く無いと分かってもなおアプローチを続けずにはいられない)のではないだろうか。「脈有り」の相手と「脈無し」の相手とを見分けられない、相手の心理を見抜く力に欠けているのではないだろうか。もしくは、自分にコミュニケーションのチャンネルを開いてくれる稀有な存在であるからそんな相手であっても切り捨てられないのだろうか。だから結果的に相手からの好意の返報の確率が一般人のそれよりも低くなり、「好意を示しても好意を返してもらえない」という考えを強くすることになるのではないだろうか。
つまりは対人コミュニケーションスキルの欠如が全ての原因という話?
愛に見返りを求めてはいけない、ただ与えることに歓びを感じよ、と言う人は多い。しかし僕は思う。そう言う人は、見返りを得ていることに無自覚なだけなのではないのだろうか? ひょっとして、本当に見返りがなくただ与えるだけの愛を実践することで、その人自身が却って不幸せになりはしないだろうか? 考えようによっては、僕の非モテ性はまさにそのことによって養われたかも知れないのだ。
僕は心情的には非モテの性質を持っていると思うけれども、顔が醜いことを理由に見ず知らずの女性に罵られた経験は記憶の限りでは無いし、奥手で告白なんてしたことがないから当然「玉砕」「フラれた」経験もない、全く友人がいないわけでもない、そんな感じで、汁だくの非モテな人に比べると明らかに当事者性に欠けている。モテと非モテを数直線上に置いたなら、プラスの方ではないだろうけれども、かといってマイナスでもない、初期値ではゼロに近い位置だったのではないだろうか。
しかし僕はいつの間にかそこからマイナスの方に移行してしまっていたようである。何故、当事者性がないのに僕は非モテの性質を持ち、非モテの心理状態に(近いところに)あるのだろうか。もしかしたら、対異性の経験・恋愛に関する社会的言説以外の理由で、僕は非モテ性を得てしまったのではないか。そんな風に考えてみた。
最近、ここに書けないようなことばかりが日常を埋め尽くすようになってきてる気がする。あるいは、「これは書いてはいけない」と自制できるだけの感情制御能力を身に付けつつあるのかも知れない。
毎日を虚ろに過ごしてるだけだろ、というツッコミは無しの方向で。
弟に借りて読んだマンガ4、デトロイト・メタル・シティ 1(Amazon.co.jp)。
悪魔系デスメタルバンドのギターヴォーカル「ヨハネ・クラウザーⅡ世」の悪魔的言動と、その中の人・根岸宗一23歳とのギャップが愉快過ぎる、世界初のデスメタル系ギャグらしい。
オシャレでフワフワした世界を求めつつも、しかし自分の中に渦巻くドロドロとした破壊衝動を否定しきれない根岸君の、明暗クッキリな二面性がまたイイネ。BECKとかが好きな人にもオススメかと。
弟に借りて読んだマンガ3、よつばと! 5(Amazon.co.jp)。
こういう時間を過ごしたいものだなあ。体力0になる限界まで遊べる、そうして毎日毎日を精一杯に楽しむよつばが、素直に羨ましい。
いきってるってなに?
とかピュアな瞳で根元的な問いを投げかけられて答えに窮する周囲の大人の表情が笑える。