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一般にオタクは、自分の見える・自分の見ている範囲のことだけにしか目を向けなくて、それ以外のことには疎いという傾向があると言えるだろう。
例えば僕は、今はやりの芸人の名前をほとんど知らないし、今週もっとも売れたCDが誰のものなのかとか、今冬どういったファッションが流行なのかとか、全然知らないし、知らなくて支障を感じていない。それらの情報が無くても成立する閉じた世界だけで生活する、絵描き同人オタクだからだ。
また、自分の世界の価値観を他の世界の人にそのまま押しつけがちであるというのも、オタクの特徴の一つだろう。「自分が好きな作品の、オタク視点から見ての素晴らしい点」を無理解な人にとうとうと語ったりというのは、その典型だ。
だが「他の世界の人との関わり方」という点に注目してみると、マジョリティのオタクとマイノリティのオタクとでは、明らかに異なる点があるように思える。それは「他の世界の人に自分達がどう見られているか」への関心の有無についてだ。
思うにこれは、マイノリティのオタクが身に付けた護身術の一つなのではないだろうか。
殺人犯・宮崎勤がたまたまアニメや漫画を趣味としていたことで、マイノリティであったアニメ・漫画オタク達が、皆殺人鬼であるかのように語られた時代があったと聞く。コミケ会場まで出向いて、TV越しに「ここに10万人の宮崎勤がいます!」と言い放ったTVレポーターまでいたという。この状況下でアニメ・漫画オタク達は否応なく、「アニメ・漫画オタク以外の一般人」から「無害な存在」として認識されるよう努める必要性に迫られた(「一般人がアニメ・漫画趣味そのものと犯罪との関係についての認識を改めるよう努める」のがもちろん正論であり本来望ましい行動であるが、マジョリティの支持を得てもはや事実上の真実と化してしまったこの言説は、マイノリティの手で全面的に覆すことは不可能である)。
マイノリティのオタクは、圧倒的に弱者だ。それ故、常にマジョリティの顔色を窺っていかなければならない。もしそれを怠れば、宮崎勤と結びつけられ吊し上げられアニメ・漫画オタクと同様、社会的な抹殺に近い仕打ちを受けることになる。
だがマジョリティのオタクは、そのような恐れを抱く必要がない。弁明のチャネルはいくらでもあるし、そもそも「自分までもがその範囲に含まれる」カテゴリを丸ごと攻撃対象と名指しする人間はそういない。マスコミで吊し上げられるのは決まって、「アニメ・漫画オタク」「フィギュアオタク」「ペルー人」「建築業界」のように、マスコミ自身の本質が絶対に含まれないカテゴリだ。マジョリティはマジョリティであるというただそれだけの理由で、攻撃の対象から外される特権を有しているのだ。
だからマジョリティのオタクは、最初に挙げたような「オタクの忌避すべき傾向」を、隠すことも改めることもなく丸出しにして、他の世界の人間(=マイノリティ)に対して露わにするのではないだろうか?
そんなことを、Kammy+氏のエントリに未だ新たに書き加えられていくコメントを見ていて思った。
まあ、そんなとこです。
Kammy+氏のレビューに乗っかってあれこれ書いてたけど、きちんと目を通してからでないと批判する資格は無いと言われるのも何なので、税込み999円出して買ってきましたよ電車男スタイリング・バイブル(Amazon.co.jp)。
さて通読してみた感想はというと、概ね購入前の印象と同じだ。とはいえ、立ち読み段階で読んでいなかった部分については、想像していたよりも、対象読者である「現在オシャレでないが、オシャレになりたいと思っている人」に対して好意的なスタンスで書かれているようには思えた。少なくとも、悪く言おうとしてそう書いたわけではないのだろうということは何となく分かる。
ただ、この本のコンセプトを「電車男と呼ばれるような人も含めて、オシャレになりたい人に届けたい(A)。その人たちはこういう内容の本を求めているはずである(B)。」と2段階に分けて解釈すれば、Aから導かれたBの内容がAの実態に即していない、という感想については、通読する前後で変化はない。例えて言うなら、「熱意は分かるけれども、バットの振りどころが外れてるなあ、所々ではキャッチャーの頭をぶっ叩いてしまってたりもするなあ」といったところだろうか。
まあ最近、余所様のサイトのコメント欄にまで出しゃばって偉そうなこと書いてるけどさ。
女性ブログのキャバクラ化→わたしがサービス提供者です と読むと、自分のしてることって大概こういうことなんじゃないのって気がしてきた。すなわち、聞いてくれる人にタラタラ持論を垂れ流して、その人およびその人に関わる全ての人に迷惑をかけまくるという。
自分の城から外には出ないようにしたいんだけどね。そうしてれば少なくとも、ここまでわざわざ地雷を踏みに来る人以外には被害を及ぼさずに済むから。
ファッション界の人は、服のファッション性について「楽しむもの」「自分から関わるもの」という認識で考えているようだ。対するオタク非オシャレ陣営は、服のファッション性を「人に嫌われないための手段」「迫られてやらされるもの」と認識している。この差は大きい。
こういう状況で「ファッションを楽しみたいと思っているオタク非オシャレ」を探したって、そんな人はいるわけないのだろう。ファッションを楽しむという視点は、ファッションに対して恐怖感や嫌悪感を抱いている人に、宿るはずがない。
言い換えれば、恐怖感や嫌悪感さえ取り除くことができれば、オタク非オシャレであってもファッションを楽しむことは可能なのかもしれない。実際、「脱ヲタして以来、ファッションが楽しくなった」という人もいると聞く。
その過程を無意識のうちにすっ飛ばしてしまったところが、件の本の問題点であり、そして、世間と非モテでの見解の食い違いの原因である、という気がするのだが。
このサイトへのアクセスの様子というのを見てて思うんだけど、まあ一番多いのはGoogleで偶然あるいは狙って辿り着くケースみたいなんだが、それ以外では、いわゆる個人ニュースサイトからのアクセスというのが圧倒的に多い(そこでとりあげられた日には)。
入門Ajaxが初心者にオススメできない理由でmalaさんはカトゆー家断絶を挙げているけれども、この手の個人ニュースサイトに人々が寄せる信頼は絶大だ。朝日や毎日といった新聞社、2ちゃんねるのスレ、の次くらいに情報ソースとして信頼されてるのではないかという気がする。「何か自分を楽しませてくれるネタ」を提供してくれるものとして。そこにははてなブックマークやなんかのソーシャルブックマークサービスのように縦横無尽で流動的な情報の動きはなく、一人のコンテンツ提供者が垂れ流すものを大勢の視聴者が享受するという、マスメディアのような一方向のコミュニケーションが主体だ。
情報の入り口を既存マスメディアに握られずに済むというのがWebの新メディアとしての魅力だと誰かが言っていたような気がするけれども、それでも結局僕らは、誰かにコントロールされた情報を受け取るだけという、楽チンな状態にいたいんだ。自分の中に入ってくる情報のほとんどが既にニュースサイト運営者の色眼鏡を通過したものであることを、そのうち忘れてしまったりして。
自分でWebフィードを管理して自分だけの情報ソース群を作るなんていうのは、それを仕事にしてる人か、そんなことに時間を費やすことのできる暇人だけなのだろう。でもそういう人の方が、当然だけど、個人ニュースサイトに依存する人よりもいち早く鮮度の高い良い情報を手にすることができるのだろう。
これが情報格差というやつですかね。もしくはビジネスの種。境界を踏み越えたり境界のあちらとこちらを行き来したりする力を持った人が、境界を越えず・越える術を知らず自分の今いる位置に安住する大勢から、金あるいはそれに代わる価値あるものを吸い上げるという構図。
かくいう僕も、吸い上げられる側なんですけどね。
【レビュー】『電車男スタイリング・バイブル』のコメント欄がちょっと面白いことになってる。
「アキバ系をオシャレに改造!」みたいなノリの本について、おそらく想定されていたであろう読者層のKammy+氏が辛辣なレビューを書き、そこに著者の人がコメントを付けて……という展開。
コメントを見て著者の方が色々カルチャーショックを受けているところが興味深い。オシャレ側の人は基本的に、オシャレは楽しいもの、服選びは楽しいものという価値観を持っているから、「いかに無難な服を選ぶかに必死」「服選びなんて苦痛で仕方がない」というマイナス思考の非オシャレ側の考え方をなかなか想像できない。また、「オシャレはみんなのもの」と彼らは思っているけれども、非オシャレ者にとってオシャレとは自分の容姿を嘲笑い攻撃する口実に使われるものでしかなく、つまり「敵の文化」として捉えられている、ということも。
これらの価値観の相違を認識しないままに「キミもオシャレになろうよ!」と呼びかけても、その呼びかけが届くことはない。なぜなら、勘違いで呼びかけているにすぎないから。あるいは、善意で呼びかけているつもりでも、受け取る側には「小馬鹿にされた」としか感じられない。いや、事実、小馬鹿にしているも同然だろう。目線を合わせて理解する努力を怠って、頭ごなしに語っていたのだから。
モテ界に生まれ育った人は、オシャレ界に生まれ育った人は、軽い気持ちで非モテや非オシャレに触ろうとすると火傷することになる。非モテも非オシャレも、想像よりずっと深い心の闇を抱え、想像よりずっと複雑な人間性を有している。高みの安全圏からものを言いたいだけなら、マスメディアだけに閉じこもるのがいい。マスメディアには検閲されないコメント欄もトラックバックpingもない。ただ送り手によってコントロールされた情報があるだけだから。双方向のコミュニケーションが容易で、且つ、その内容が第三者からも見て取れる、Webとかblogとかそういったメディアを軽い気持ちで使おうとすると、火傷することになる。
まあ敵とか味方とか、あっちとかこっちとか、考えるのがそもそも間違ってるというかおかしいことなんだというのは、正論なんだけれども。土曜日の結婚披露パーティでの司会の芸人さんの何気ないラブハラスメントのように、敗者を貶して笑いを取ることが常態化し、且つそれが自然なもの・奨励されるべきものとして受け入れられているこの世の中では、コンプレックスは増幅されこそすれ、解消されることなど無いのではないだろうか。だから、脱ヲタした人がヲタを馬鹿にするといった、コンプレックスを引きずったままの行動、敗者への攻撃の再生産が起こるのではないだろうか。
電車男がウケたのは、そこに流れる童貞非モテアニオタマインドにそれなりのリアリティがあったからだと思う。物語の素性が明らかになっていなかった頃、これを無条件に受け入れてしまった者は少なくなかったはずだ。