Dec 19, 2005

ファッションに見る価値観の相違と、不用意に口出しすることの危険性

【レビュー】『電車男スタイリング・バイブル』のコメント欄がちょっと面白いことになってる。

「アキバ系をオシャレに改造!」みたいなノリの本について、おそらく想定されていたであろう読者層のKammy+氏が辛辣なレビューを書き、そこに著者の人がコメントを付けて……という展開。

コメントを見て著者の方が色々カルチャーショックを受けているところが興味深い。オシャレ側の人は基本的に、オシャレは楽しいもの、服選びは楽しいものという価値観を持っているから、「いかに無難な服を選ぶかに必死」「服選びなんて苦痛で仕方がない」というマイナス思考の非オシャレ側の考え方をなかなか想像できない。また、「オシャレはみんなのもの」と彼らは思っているけれども、非オシャレ者にとってオシャレとは自分の容姿を嘲笑い攻撃する口実に使われるものでしかなく、つまり「敵の文化」として捉えられている、ということも。

これらの価値観の相違を認識しないままに「キミもオシャレになろうよ!」と呼びかけても、その呼びかけが届くことはない。なぜなら、勘違いで呼びかけているにすぎないから。あるいは、善意で呼びかけているつもりでも、受け取る側には「小馬鹿にされた」としか感じられない。いや、事実、小馬鹿にしているも同然だろう。目線を合わせて理解する努力を怠って、頭ごなしに語っていたのだから。

モテ界に生まれ育った人は、オシャレ界に生まれ育った人は、軽い気持ちで非モテや非オシャレに触ろうとすると火傷することになる。非モテも非オシャレも、想像よりずっと深い心の闇を抱え、想像よりずっと複雑な人間性を有している。高みの安全圏からものを言いたいだけなら、マスメディアだけに閉じこもるのがいい。マスメディアには検閲されないコメント欄もトラックバックpingもない。ただ送り手によってコントロールされた情報があるだけだから。双方向のコミュニケーションが容易で、且つ、その内容が第三者からも見て取れる、Webとかblogとかそういったメディアを軽い気持ちで使おうとすると、火傷することになる。

まあ敵とか味方とか、あっちとかこっちとか、考えるのがそもそも間違ってるというかおかしいことなんだというのは、正論なんだけれども。土曜日の結婚披露パーティでの司会の芸人さんの何気ないラブハラスメントのように、敗者を貶して笑いを取ることが常態化し、且つそれが自然なもの・奨励されるべきものとして受け入れられているこの世の中では、コンプレックスは増幅されこそすれ、解消されることなど無いのではないだろうか。だから、脱ヲタした人がヲタを馬鹿にするといった、コンプレックスを引きずったままの行動、敗者への攻撃の再生産が起こるのではないだろうか。

電車男がウケたのは、そこに流れる童貞非モテアニオタマインドにそれなりのリアリティがあったからだと思う。物語の素性が明らかになっていなかった頃、これを無条件に受け入れてしまった者は少なくなかったはずだ。

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