たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
自分の知ってる例だけでの話だけど、腐女子(オタク女子)といっても普通にオシャレに気を遣っている人が多い。知ってるオタク男子にも、オシャレな人がいる。そういうのを見てると、別にオタクだからってオシャレに気を遣っちゃいけないってことはないんだ、とか、オタクだからってオシャレに気を遣ってる人のことを異質なものと退けなくてもいいんだ、とか、そういう風に思う。境界なんてあいまいなものだと改めて思う。
もっとみんなで境界をかき乱そうじゃあないか。レッツ混沌。
あやまちがないこと、清廉潔白であることなどを「むびゅう」、そういう性質のことを「むびゅうせい」と言うけれども、これを「無膠性」と書くのは誤りだ。正解は「無謬性」で、偏が「月」ではなく「言」。
「膠」はニカワとも読んで、固まるとかもつれるとかそういう意味。「謬」はあやまちのこと。この事からも、「無膠」が誤りで「無謬」が正解であることは分かる。
Googleで「無膠性」で検索したらどっかの新聞社のページにおもいっきりハッキリ「むびゅうせい」と読み方が書いてあって、騙されそうになりましたよ? ンモー。
よくアドバイスに出てくる「清潔感のある格好ならいいと思うよ」は「さわやかな容姿ならいいと思うよ」を言い換えただけではないのかという話。
以前、それってピントのずれたアドバイスじゃね?と書いたけど、ピントはずれてなかったんですね、むしろ。言葉の裏に秘められた意味をちゃんと読みとれていなかった僕は読解力がないと思いました。女心の分からない腐れオタクのPiroですこんばんは。
そういえば26日の会談でも、「さわやか系に」とかそんな言葉が先方の口から出ていたような気がする。時代の風潮なんですかね。
ここまでのまとめ。
んで、今日、その著者の方とお会いしてきましたよ。「変身」決行の前の打ち合わせということで。
色々興味深い話が聞けたと思う。特に口止めされてなかったから暴露しちゃいますよ?(鬼)
僕は僕でまた思いつきで色々ベラベラと。
異なる世界の人と話すと、今までハッキリとは見えていなかったことや、確信を持てなかったことに、確信めいたものを持てるようになってきたりする。
まあ会って話して思ったのは、氏のあのノリは悪意と言うよりは、ヲタに対する無知故のただの無神経(←暴言)。例えるなら「パワフルなかーちゃん」的な印象を受けました(←失礼)。
見方を変えれば、ヲタがあまりに神経質すぎるとも言えるかもしれない。
上に書いた「タブー」に無意識のうちに触れてしまいかねないのが、価値観の異なる人同士のコミュニケーションの難しさですね。しかしそこに拘泥してても建設的な話にはならんでしょう、と、僕は思います。
決行の日へ続く。
広く浅くがモットーです。嘘です。極める集中力と持続力が無いだけです。
まあ、こんなにわかファンが多数発生するせいで一時的にでもそれ関係の需要が伸びて結果的にはその分野の金の流れや人の流れが潤うんだったら、大目に見てくれると嬉しいです……
録画を今ごろ見た。
こないだ深夜にやってた九州地区の予選を見たときは、障害を全然越えられない物が多くて「なんだかなあ……」という感じだったけど、やはり全国大会は違いますね。スゴイのばっかりだ。見世物としては上位の大会の方が当り前だけど見応えある。
一番好きなのは、優勝した津山高専のSimple Structureかな。あれだけシンプルな外観で、スピードが速くて、倒れたときにも起き上がれるような汎用性の高い腕を持ってて(あの腕をハードル越えに使う時、ハードルを掴むだけじゃなくて、降りるときにハードルが倒れないように後向きに蹴る動作もしてましたね)、一つの障害を越えるのに一つの機能を持つタイプのマシンには無いコンセプトの美しさがある。
まあ他校のトラブル続き(準決勝のバトン落下、決勝の自動ロボット暴走などなど)に救われたという強運も見逃せないわけですが。わらい。
Ver.1.0の方のゼータが出たのが10年くらい前になるの? 当時はマスターグレードでカトキ版!とえらい騒ぎになっていたような記憶がある。映画の「新訳Ζ」に合わせて最新の技術で全面的にリニューアルされて登場したという、そんなMG Ζ Ver.2.0を、自分へのクリスマスプレゼントとして衝動買いしてしまいました。
徹夜で組み立ててた後爆睡してた。
昨日友人の言で初めて気づいたこと。
ベジータはツンデレ。
「お、俺は別にお前を助けたい訳じゃないぞっ! お前を倒すのは俺だっていうだけなんだからなっ!!(頬を染めながら)」
萌えますか?
Kammy+氏の別のエントリに寄せられたコメントを見ていて気づいたが、嫌悪と恐怖を明確に区別したがる人がいるようだ。だが僕は、嫌悪と恐怖、嫌悪と軽蔑は、どれも同質の感情ではないかと思う。
「恐怖」とは、嫌悪の対象を己の力では退けることができない時、嫌悪の対象が己よりも格上である時に抱く感情だ。「軽蔑」とは、嫌悪の対象が己よりも格下である時に抱く感情だ。恐怖と軽蔑は、己と嫌悪の対象との力関係によって分かれるものでしかない。と、僕は考える。
ファッションについて無知な人間がファッションに関わろうとする時、ファッションについて無知な人間は、ファッションに詳しい人間に比べ、少なくとも知識・経験面においては絶対的な弱者だ。ファッションに力を注ぐことを嫌悪する人間がファッションに挑戦しようとするときに、この力関係を意識して感じる不快感は、恐怖と呼んで差し支えないのではなかろうか。
そして、これを恐怖と認めようとしない行動は、防衛機制の「代償」に該当するのではないだろうか。