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Latest topics 近況報告

たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。

萌えるふぉくす子さんだば子本制作プロジェクトの動向はもえじら組ブログで。

宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能! シス管系女子って何!? - 「シス管系女子」特設サイト

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Webのオールドタイプ - Nov 04, 2008

まあ多分、今更っ!?て感じなのでしょうが (Guitar Girls Addiction)

うわあああああ禿げ上がるほど同意。

このサイトもそうだけど、いわゆる「個人サイト」って、コンテンツが主と言うよりは、「人」の方が主になってるなあと思う。あるいは「場」。コンテンツは、人や場に属している。

でもFlickrやpixivを発表の場にして活動してる人達は、その人達の作る物は、そうではない。確かに一人一人のプロフィールページのような物はあるけれど、それはコンテンツのおまけでしかない。「この人が描きました」「この人が作りました」というタグでの検索結果の一覧ページ、でしかない。「萌える絵」「女の子の絵」「百合」といったタグと同じ程度の重みしかない。

あるいは、楽天市場やAmazonのマーケットプレイス、ヤフオクのストア出店といったものと、自分の所でシステムを構えるECサイトの違い、囲い込みたいという意識の強さの差。みたいな。

そういう点では、日本語圏における「ブログ」はかつての「個人サイト」にあった「属人的」な部分を引き継いでいるのかな、という風にも思う。

分割ブラウザの解説動画色々 - Oct 20, 2008

Firefox 3.1でのドラッグ&ドロップのデモをアップした後でYouTubeのページを見てみたら、関連動画に、いくつかSplit Browserを英語とかドイツ語とかで解説してる物があってビビった。「シモダヒロシ」って作者の名前を読み上げてる奴もあったりしてなおビビった。

そんな小市民。

JPOP王道進行とウンコ曲と「違いが分かる人」 - Oct 19, 2008

「JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた」

  • 日本でこの30年近くの間にヒットした曲の多くが、共通した性質、法則を持っている。
  • 欧米で一時期流行ってあっという間に廃れた「ユーロビート」は日本でだけは今も親しまれているが、このユーロビートの曲もJPOPの曲と共通した性質を持っている。
  • 売れないアーティストでも、この「王道進行」に則って曲を作った途端に大ヒットした。
  • それさえやっとけば他はどうでもいい、ということでこの「王道進行」を使った安直な曲が粗造乱造され、日本の音楽界はとても悲惨な状況になっている。

ということを実際に曲を演奏しながら検証する動画と、JPOPのみならずヲタ好みの曲までもが同じ法則に則っていたことを証明する動画が、紹介されている。

  • 王道進行に則っていて、名曲(日本でも世界でも売れる曲)
  • 王道進行に則っていて、駄曲(世界では売れないが日本でだけ売れる曲)
  • 王道進行に則っていなくて、名曲(世界では売れるが日本では売れない曲)
  • 王道進行に則っていなくて、駄曲(日本でも世界でも売れない曲)

王道進行に則ってさえいれば売れる、ということで下らない曲を粗造乱造する日本の音楽業界の人間を批判しつつ、そのような下らない曲までも名曲と区別が付かずにありがたがって買い求める馬鹿な消費者をも、言外に批判しているわけだ。(買う馬鹿がいなきゃ、駄目な物が売れるわけがないからね。)

音楽の分野に限らずこういう話はよく出てくる(ユニクロとか)と思うけど、そういうのを見る度にいつも思うことがある。

この人のように音楽の専門家には「王道進行に則っていようがいまいが、本質的に名曲かどうかが分かる」のだろう。でも僕のように音楽の才能がない凡人には、「名曲であろうがあるまいが、王道進行に則っているかどうかしか分からない」んだよね。服に至っては、「流行に則っていようがいまいが、本質的にカッコイイかどうかが分かる」プロのファッション専門家や、「本質的に格好良かろうが悪かろうが、流行かどうかは分かる」一般人にすらも劣る、「本質的な良し悪しも流行かどうかすらも分からない」という有り様だ。

そういえば現代芸術というのは、いかにして価値観をひっくり返すかの優越感ゲームになっている、とどっかで言われているのを見た記憶がある。既製の便器に署名したり、演奏しないでピアノの前に4分半座ったりして、それを芸術と言い張った人達の話は知ってる人もそれなりにいるんじゃないだろうか。こういう人達の言う所の「一般人には違いが分からないだろうが、俺達には理解できる芸術性があるのだ。本質的にそれが名作かどうかが俺達には分かるのだ。」っていう話は、凡人の僕にはなかなか理解できない……真の意味を知ることができないのはもちろんのこと、概要すらも分からない。

僕が僕の耳で聞いて「いいな」と思った曲が音楽の専門家から「王道進行に則っていること以外に何もいい所がないクズ」と言われ、同時に、専門家が「これは名作だ」と褒めそやしている物と「クズ」との違いが僕には分からない。「いいな」と思った曲の中に、専門家が良いと言う物と悪いと言う物とが混在している。

彼ら専門家が物を選ぶ時と同じ基準で僕は物を選べていない。彼ら専門家が見ている所とは違う所しか見ないで物を選んでいる。権威たる彼ら専門家が「そこを見て物を選ぶべき」と言っているポイントで判断することができなくて、彼らが「そこで選ぶべきでない」と言っているポイントでしか物を判断できない。自分の素直な判断を信じると非難され、馬鹿にされる。

なのにその一方で、「人の言うことを気にせず自分の素直な判断を信じればいい」と、その専門家の人は言うのですよ。うん、たしかにあんたはあんたの「素直な感性」に従って物を選べば難なく「正解」できるんだろうよ。でもね、僕のような人間が自分の「素直な感性」に従って物を選んだら、「失敗」してしまうんだよ。あんたの言うことに従って行動したら、あんたに「ダメ」って言われるんだよ。訳わかんない。学習される無気力、って言葉をあんたは知ってるかい?

という風に事あるごとに考えるので、僕はその度に、何とも言えないイライラを感じる。

メソッド名は三人称単数形にするべきかどうか - Oct 08, 2008

例えばW3C DOMでは、子ノードがあるかどうかを調べるメソッドの名前はhasChildNodes()(三人称単数形)だけど、子ノードを追加するメソッドはappendChild()(不定形、原形)となっている。どうしてこのようにバラバラなのか? どっちかに統一しないのか? という話。

Matz氏はRubyのメソッド名から三人称単数形を廃して原形に統一したいらしい。上に挙げたような例なら、hasChildNodesではなくhaveChildNodesという感じ。

日本語で書かれた命名規則の文書としては、ググってみたらOkapi Projectの命名規約というのが引っかかった。ここではブール値を返すメソッドは三人称単数形で始めるようにとされている。でも、「何故そう決めたのか」は書かれていない。

そもそも英語圏の人はどう考えてるんだ? と思って「naming convention verb method」とかでググってみたところ出てきたセントラルワシントン大学のドメインで公開されているJavaの命名規則のページには、こう書かれてた。

Begin method names with a strong action verb (for example, deposit).

(snip)

If the method returns a boolean value, use is or has as the prefix for the method name.

何の説明もなく、ブール値を返す物は三人称単数形で、そうでない一般的なメソッドは原形で例が挙げられている。何故そうなのか、ということが全く述べられていない。ネイティブスピーカーの人にとってこれらの使い分けはあまりに自明すぎて、敢えて説明する必要が感じられないということなのだろうか。

僕の場合は、自分でメソッド名を考える時も、Okapi Projectの規約とだいたい同じようなルールで考えてる。そしてこのルールは上記のセントラルワシントン大学のルールとも同じだ。深く理由を考えたことはなかったけど、どうしてこれで違和感が無かったのか、改めて考えてみた。

なんとなくだけど、何かをする系のメソッドを使った文、例えばparentNode.appendChild(newChild)だったら、これに対応する英文というのは Hey, you "parentNode"! Append "newChild" to yourself as a child! みたいな「命令文」で、状態を尋ねる系のメソッドを使った文、例えばsomeNode.hasChildNodes()だったら、対応する英文は He "someNode" has some child nodes. みたいな「普通の文」なんじゃないのかなー、と思ってる。逆に言うと、これらの英文を思い浮かべてコードを書くと、自然に、普通のメソッドは原形で状態を尋ねる系のメソッドは三人称単数形になるんじゃないのか、と。He "someNode" have some child nodes. とは書かないし。

そう考えると、Matz氏は「対応する英文」をイメージしないで単純に単語レベルでメソッド名を認識していて「原形と三人称単数形が混在してるのは統一感がない。メソッド名から三人称単数形を廃して原形に統一したい。」という風に考えてるんじゃないかなー、と、僕には思える。その発想が、ネイティブスピーカー的ではないんじゃないかなー、と。

僕は、メソッド名とかで英語を使うんだったらそれを母語としている人達の発想に一番しっくりくる命名規則を使うのが筋なんじゃないかと思う。ネイティブスピーカーがこれでイイって言ってんのに母語にもしてない日本人が「こうあるべきだ」と言っても説得力がない、と思ってる。日本人的・日本語的発想にこだわるんであればそれこそなでしこみたいに日本語ベースの言語にするのが筋なんじゃないの、と。

まあ、ここで参照した命名規則はJavaのものだから、上記の発想はあくまで「Java使いの英語ネイティブスピーカーの発想」とまでしか言えなくて、「大多数の英語ネイティブスピーカーの発想」がそうであるかどうかってのは分からないんだけども。

絵を描くことへのスタンスの変化 - Oct 06, 2008

Jinkunさんに言われたこと。

僕は、JNK Worldに顔を出していた10年前くらいが一番たくさん絵を描いていた時期だと思う。今では、年に2回、コミケに合わせてもえじら組の活動をやってるくらいだ。当時色々と偉そうなことを言ったりしたりしていた僕が、今そんな体たらくであることを知ったら、Jinkunさんも川家さんも僕を軽蔑するんじゃないか。そんな風に思っていた。

でも、Jinkunさん曰く、今の僕の方が楽しそうだという。

そういう風に言われたことの理由は、多分、絵を描くことに対する意識の変化があるんだろうと思う。

当時の僕は「これしかない」と思っていた。絵を描くこと以外で、世界に確かに自分が生きたという足跡は残せないと思っていた。だから自分で色々縛っていた。右向きの顔を反転無しで描けなくてはならない。エロに頼ってアクセス数や販売部数を稼ぐのではなく、絵の質や世界観やそういったもので支持を得なくてはならない。誰からも認められる物を目指さなければならない。高尚でなければならない。そんな風な拘りがたくさんあった。今から思えば、下らない拘りばかりにも思えるけれども、当時は、真面目に拘っていた。

でも、興味の中心がWeb標準とかWeb技術とかに移ってしまって以降、絵を描くことに対して割く時間が減ってしまった。いや、もしかしたらそれは逆で、自分より下の世代で自分よりずっと情熱がありずっと絵が上手い人達がどんどん出てくるのを見て、「もう敵わない」と悟ってしまい、絵の世界から逃げてしまっただけなのかもしれない。

転機になったのは、もえじら組の活動だったと思う。

哀さんの勧めでIRCNetの#汚れの巣や#順列都市に常駐するようになり、いつかの「CSSコミュニティ」の人達と気軽に連絡を取れるようになり、Junさんとinugamixさんの結婚があり、inugamixさんのふぉくす子がその界隈である種のアイドルとなり(良い子はW3C子の事には触れちゃダメ!)、界隈内外のいろんな人がふぉくす子の絵を発表するようになり、ここは誰かが音頭を取って同人誌でも一発作るべきなんじゃね?という空気になって、コミケ出展経験があり自分で絵も描いており一番時間的に余裕があった僕が首謀者となって、成り行きでプロジェクトが始まって。ネトランがふぉくす子をフィギュア化し、気合いの入ったコスプレ衣装まで制作されて、祭りの空気はどんどん盛り上がり。僕は物凄く久しぶりに、ファン活動として絵を描くことの楽しさというものを感じていたのだと思う。

触れちゃダメ、と書いたけどやっぱり触れる。W3C子での失敗はやはり大きかったと思う。ビジュアルイメージが無かったものにビジュアルイメージを付ける、キャラクターをデザインする、という事における「敗北」。僕のやり方が色々まずかったのだと思うけれども、僕がビジュアル化したW3C子は僕のせいで死んでしまい、inugamixさんがビジュアル化したふぉくす子はいろんな人に愛された。その時悟った。僕には、広がりを生み出すオリジンを作ることはできない。そういう才能がない。だから、誰かが作ったオリジンにぶら下がって、それをネタにして楽しむことしかできない。僕は無力だ。僕にはそもそも無理な事だったのだ。いいかげん、身の程を知り、分をわきまえるべきだ。

それからは、気負いがだいぶなくなった、と思う。下手でもいい、上達してなくてもいい、絵柄が古くてもいい。下品でもエロでも全然構わない。好きなキャラを好きなように描いて、同じようなことをしている人達の祭りに参加し、祭りの空気を楽しむ。自己表現のための・自己顕示欲を満たすための手段、生贄としてではなく、それ自体が目的である、絵を描くこと・漫画を描くこと・そしてそれを発表することの、そのものの楽しさ。そういうことを今は感じられているんじゃないか、と思う。

ハンズで霧吹きを買った - Oct 05, 2008

元々あった霧吹き?は100円ショップで買ったもので、目が荒いというか大量の水がドバドバ出るため、アイロンがけに使おうとしたら乾いたはずの洗濯物がビショビショになってしまった。ということでもっと目の細かい霧吹きが欲しくて、池袋まで行ったついでに東急ハンズでそれらしい物を探してみた。

売り場を見てみたら、詰め替えボトルのコーナーにそれらしい物がたくさんあったのだけれども、目が細かいかどうかまでは分からなかった……一種類だけ「ミスト状になります」と書いてあったのがあって「これかな?」と思ったけど確証が持てなかったので、ダメ元で店員さんに声をかけて聞いてみた。「アイロンがけの時に使うような目の細かい霧吹きを探してるんですが、一番目が細かいのはどれですか?」と。そしたら、そのうちの一つを「自分が試した中ではこれが一番細かかった」と教えてもらえたので、それを買うことにした。

買ったのは、ノズルを押すとプシューと中身が吹き出してくる普通のヘアスプレーみたいな形をした奴。タグにはthe SCENTPUMPとか書いてあった。892円。輸入物らしい。市販のヘアスプレーの入れ物と違ってキャップに長い足が付いていて、キャップを押したり引いたりすると自転車の空気入れみたいに空気が入っていって圧縮される。で、キャップを外してノズルを押すと、圧縮空気の圧力によって中身がプシュート吹き出す、という物だった。面白いことを考える人もいるもんだなあ。実際に水を入れて試してみたら、確かに目の細かい霧状になって水が出てきた。これはいい買い物をした。

聞いた店員さんがたまたま「当たり」だったのかもしれないけど、商品知識が豊富な人が売り場にいるというのは素晴らしいことだと思った。またここで買い物をしたいなと思った(乗せられてます)。

あと、今までの自分だったら、こういう場所で右も左も分からない状況になったら、悩みに悩んでカンで選んで買って帰って期待外れで後悔、というオチになっていたんじゃないかと思うけど、自然に人を頼ることができたという事実を改めて意識して、深い感慨を覚えた。

ここに来るまでにどれだけの事があっただろう。自分のホームでない、アウェーの場所に飛び込むという事。恐怖を乗り越えて人に話しかけるということ。したいこと・求めていることをきちんと伝えて、自分から相手にできる限り協力して、相手の協力を引き出して、一番いい結果を得られるようにするということ。

自分一人で全てを抱え込んで、人の手を借りずにパーフェクトにこなせるようになることを目指すのでなく、(人の手を借りないとどうにもならないことから目を背けて、その時の自分にできることの範囲が世界の全てだと思い込む、のではなく、人の手を借りないとどうにもならないことも含めての世界だと認識して、自分にはコントロールできない事がたくさんあるのだと認めて、)必要に応じてアウトソーシングすることで自分も相手も利益を最大化し、閉じた「個」として生きるのではなく流動的な「状態」として生きるということ。

自分一人じゃここまで来れなかった。ゆずほさんとかいろんな人が手助けしてくれてやっとここまで来れたという気がする。

「絶望の世界」が好きだった人ならケータイ小説「あたし彼女」も楽しめるんじゃね? - Sep 26, 2008

【2ch】日刊スレッドガイド : あたし彼女のガイドライン第3回日本ケータイ小説大賞:あたし彼女

ガイドラインのコメント欄の方でネタバレされてるので、先に元ネタのケータイ小説から読むことを推奨。

感想。案外面白かった。最初は「スイーツ(笑)」な文章が何十ページも続いて何じゃこりゃという感じだったんだけど、途中からのツンデレっぷりにちょっと「お?」となって、最後まで一気という感じでした。幸せ気分でいっぱいのラリラリの時と、ドン底に落ち込んだ時とのギャップとか、感情移入して読んでると自分も一緒になって浮かれたり落ちたりするから面白い。

冒頭の時点で思ったけど、これを読んでて覚えた感じは、絶望の世界をリアルタイムで追いながら読んでたときの感覚に似てる。小説を読むというより、ブログの過去ログを頭からまとめて見る(リアルタイムで見てるときは、毎日そのブログを読んでる状況そのものだ)、みたいな。みたいな。

ほんと、「ケータイ小説」は「小説(ノベル)」とは全く別のジャンルなんだなあということを実感した。

ところで絶望の世界ってはてなキーワードの解説によるとちょうど10年前にスタートしたんですね。10年。ずいぶん経ったものだ……

Firefoxの開発者にはUIの設計という事に対するポリシーが欠けている - Sep 20, 2008

タイトルは半分くらい釣り。

ごく最近入った変更によって、最後のタブを閉じると常にウィンドウ全体が閉じられる、という挙動になったらしい(Firefox 3.1では多分それがデフォルトになる)。この変更はパッチを書いたDão Gottwald氏ではなく開発責任者の一人のMike Connor氏が決めたものらしい。

この件についてMike Conner氏のマネジメント能力の不足を責めてる人もいるようだけれども、僕としては、この人はUIの設計という物にポリシーを持ってないのかなー、という失望にも似た感想を覚えた。多分SearchLoad Optionsに抱いたものと同じ感覚。

最後のタブを閉じた時にウィンドウも閉じるべきかどうかってのは、隠し設定一つで動作を変えれるような些末な問題に落とし込むべき事じゃなくて、ユーザが触れるフロントエンドとしてのFirefoxの設計思想の根幹に関わる事だと僕は思う。ユーザに「Firefoxとはどういうものか」と説明する時の、メンタルモデルの作り方をガラッと変えてしまうものだと思う。

現状のFirefoxは、「Firefoxというアプリケーションがあって、そのアプリケーションは本体はごくシンプルな機能に限られていて、その中に、タブを伴って複数ページの切り替えができるサブフレームが含まれている」というトップダウンの設計になっている。「タブ」より上位に「メニューバーやツールバーやサイドバー」が存在しており、「タブ」より下位には何も従属していない。こういう構造だからGoogle Chromeのようなマルチプロセスにはできない(するにはとても手間がかかるだろう)。ユーザには、「タブとウィンドウは異なるレイヤに存在するもの」という認識が求められる。

Google Chromeは、「タブという小型でシンプルなWebブラウザがあって、それらを便利に操作できるようにするために一つのウィンドウに押し込めている」というボトムアップの設計になっている(ように見える、そういう演出をしている)。だからマルチプロセスで当たり前だし、「タブ」の上には何も(クローズボックスくらいは付いてるけど、それ以外のタイトルバーすら)なくて、ツールバーもロケーションバーも全部「タブ」より下位の存在として位置づけられている、そういう見た目をしている。ユーザには「タブ」と「ウィンドウ」の違いを意識させないようにしている、ように見える。

ちなみにOperaはMDIのアプリケーションで、この両者の中間にあると思う。「タブ」より上位の物もたくさんあるけど、ロケーションバー等は「タブ」に従属しており下位の存在である、という作りになっている。

タブより上にツールバーがあるか、タブより下にツールバーがあるか、っていうのは、単にバーの置き場所を上下に移動させればいいっていう話じゃないんですよ。フラットな「並び順の問題」じゃなく、縦の「主従関係」なんです、これは。

多分だけど、今回入った変更のような動作が許されるのは、「タブより下にツールバーがあるデザイン」のアプリケーションだけだ。タブより上位に何もないんだから、タブが閉じられたら後には何も残らないのが当たり前だ。

Firefoxの場合はそうではない。タブより外側に沢山の物があって、それらは「自分の下位にタブが存在している」ことを前提に動作している。下位の物(タブ)を一つ消したのなら、それより上位にある物は全部そのままでいるのが当たり前だ。にもかかわらず今回の変更で、下位にあるはずのタブによってそれより上位の物全てが破棄されるようになってしまった。そこにみんなは戸惑っているし怒っているんですよ。そういう、自分の中にある無意識のメンタルモデルまで分かった上で発言してる人は、そう多くないと思うけどさあ。

Mike Conner氏は、そこまでちゃんと分かった上で発言してたのかな? 自分が下した決定が、ユーザの心の中にあるメンタルモデルやそれまで動作していたアプリケーションの設計全ての前提を覆す物だって気がついていたのかな? 多分気付いてないよ。「ちょこっと動作を変えるだけ」そう考えてたんだろう。それが僕には、ポリシーがない無節操な行動に見える。

余談。冒頭で「半分は釣り」と書いたのは、これとは違うレイヤでFirefoxの設計にはポリシーがあるという事も知っているから。彼らは何でもかんでも中に取り込むのではなく、本体はシンプルに保ってそれ以外の要求はアドオンで解決する、というポリシーで開発を行っている(ように見える)。そのポリシーを今後も貫いていて欲しい。ただ、それは「Firefoxというプログラム」の設計ポリシーの話であって、「FirefoxというUI」の設計ポリシーじゃない。それとこれとは問題が別。ここまでタラタラと書いたこと、具体的な「FirefoxというUI」の設計に関して何もポリシーがないと、ユーザや開発者を振り回すことになる。そこのところをどうして彼らは分からないんだろう、という嘆きにも似た感情を、開発者主体で動いているオープンソースのプロジェクトというものについて感じることが僕にはたまにある。

追記。「(過去の)FirefoxとGoogle Chromeの動作(UIの設計思想)のどっちが素晴らしいか」ということについては、僕は考えないことにしてる。どっちにも一長一短がある以上、こういうのは刷り込みと慣れの問題でしかないと思うから。Mac OS伝統の「画面上端にメニューバー」とWindowsやGNOMEやKDEの「ウィンドウごとにメニューバー」のどっちが優れてるのか、というのと似たような話です。あくまで、UIとして(上記のような設計思想・メンタルモデルの面で)一貫性が保たれてないのはそれ以前の問題だ、というのがこのエントリの要旨ってことで。

さらに追記。前の動作に戻す隠し設定が欲しいというバグで中野さんが「初めて最後のタブを閉じようとした時に確認するのがいいんじゃないか」という提案をされている。選択肢をユーザにわざわざ見せるのは良くない、ユーザの理解を妨げる事は徹底して隠すべき、という人もいるだろうし、UIと動作と設計の整合性がとれてるなら僕もそれに同意だけど、現状のUIも動作も設計も全部がバラバラでちぐはぐな状況では、選択を求める方がまだナンボかマシだと僕は思う。ので、賛同コメントを付けてみた。まあ、コード書ける奴が正義のこの世界では、グダグダ評論家じみたことを書き連ねたり嫌味なコメントを残したりするより、とっととパッチ書いてIRCで担当者捕まえてねじ込む方が、実効性は高いと思うんですけどね……

またまた追記。くでんさんのコメントを読んだ後で思ったけど、上で書いた「疑い」とはむしろ逆で、Mike Conner氏は「Google Chromeのようなアプリケーションを元々作りたかったし、その信念に基づいて提案しただけ」なのかもしれないなあ。だから今回の変更も氏にとっては「本来そうあるべき姿に戻そうとしているのだから当然のこと」という感じなのかも。だとしても、できれば、行動を起こす前に「そういう理想はさておき、現状はどうなってるのか?」という所に先に目を向けて欲しかったとは思う。

22日追記。結局、「最後のタブを閉じた時にウィンドウを閉じない」隠し設定を付けるという、件のバグの表題通りの解決策についてはチェックインされて、それで解決ということになったようだ。でもって、他の文句は新しいバグ立てて述べなさいという仲裁も入った。Bugzilla的にはごく自然な流れ。にもかかわらず流れ読まずについ最後っ屁コメントを残してまた議論を蒸し返してしまった僕は、マヌケな悪役もいいとこですね。

察する力のある、空気を読める人が怖いと感じる - Sep 18, 2008

僕のように自分の感情とか主観とかに関わることをとにかく覆い隠して第三者的な無難な言葉で語るように努めてしまう人というのは、感情をストレートに出すことに親しんでいて主観をぶつけ合う経験の豊富な人から見たら、何を考えてるのか分からなくて薄気味悪いとか怖いとか思うらしいんだけど、僕にとっては、そういう僕から「感情的な言葉」を引き出すために駆け引きを仕掛けてくる人の方が、不気味で怖いと感じる。「他人の考えてることを想像する」ということがとても苦手で察するとか気を回すとかそういったことが不得手な僕にとっては、人が考えてることを察して読み取って行動できる人は、すごいなあと思うけれどもそれと同時に恐ろしいとも思える。

例えて言うなら、自分は生まれてこの方ずっと目が見えないまま生きていて、相手は普通の健常者、というような感じかもしれない。自分の分からない所で相手が自分を手玉にとって誘導していたり、自分自身よりも相手の方が自分のことをよく分かっていたり、相手がもしかしたら自分の喉元にナイフを突きつけてても自分はそれに全く気がつけなかったり、そういうのって怖くないですか。まあこの辺は相手に対する信用とか信頼とかの度合いにもよるんかもしれんけど。

それはあんたが目を瞑ってるだけだ、目を開いてよく見てみやがれ、というのがマッチョ的な解決策なんだろうし、僕の瞼の間に指突っ込んでこじ開けようとする(してくれる)人もいる。それが悪いことか良いことかということは考えたくないし、考えないようにしたい。ただ、こういう例えがしっくりくるような感覚を自分は覚えている。

という風なことを過去の哀さんとのやりとりや最近のlovalottaさんとのやりとりの中で感じている(た)。(←「クリリンのことかーーーーっ!!!」防止のために一応書いておく)

モテぢから 9/100 - Sep 18, 2008

Piroさんのモテぢからは……9/100点 「無人島遭難級」です。だそうです。我ながら「お見事!」という感じです。狙って出せる点数じゃないね。

こういう話といい一つ前のエントリといい、僕という人はホントに後ろ向きで悲観的なんだねとよく言われるし自分でもそう思っているつもりだったけれども、先日カウンセリングを受けた時に掘り下げていった感じでは、むしろ過剰な自己愛に溢れてる。過剰な自己愛に溢れてるから、自分が一番じゃないことが嫌だと。でもプラス方向で一番になれない(努力のできない人間だし、才能もない)から、マイナス方向で一番になろうとして、「自分より下」を認めない。「自分より上を認めない」ことはできない(あまりに滑稽だしね)けれども、「自分より下を認めない」ことだったら簡単にできる。多くの日本人が自分が世界全体の中で見れば上位の裕福な位置にいるということ・自分よりも下に例えばアフリカとか中国の田舎とかにもっと沢山の人がいると言うことに気付きもしないで生きている、ということからも、「自分より下を視界の外に追いやること」がどれほど簡単かは容易に想像が付くでしょう。

とにかくそんな風に自分大好きで根本的な所では自分の外に視線が向いてないんだから、他人と心を通わせるだの他人を振り向かせるだのの「モテる力」なんてあるはずがない。いろんな意味でこの結果は示唆に富んでるなあと思うわけですよ。

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