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非モテは「相手よりも自分の方が優位に立てそうだから」年下が好きだと言うけれども、実際の年下と相対したとしたら、優位になんか立てないんじゃないのか? それよりも、年上女性に目を向けた方がよいのではないか? ――というのがここまでの流れ。「年下よりも年上に目を向ければいいんじゃないの?」というのは確かラジオクリルタイの収録時にも話題に出ていたと思うけれども、その再確認と発展。
さて、繰り返しになるが、僕という人間は指向的には年上好みだ。自分ではプライドと思っているけれども実際にはどうでもいい見栄でしかないものなんかかなぐり捨てて、「その人」の前では甘えまくりたい、と思っているところがある。「優位に立とう」という思いがないし、そもそも優位に立てるとは思ってない(体力もないし頭も悪いし、恋愛経験は言わずもがな……)、ということを自覚しているからそこまで「みっともない」考え方ができるのだろうと、自分では分析してみるのだけれども。
では何故、多くの非モテ男性はそのようなみっともない考え方にまでは至らないのか?
収録時や収録後の回想。
これも2次会でしゃべったこと。
非モテをこじらせるパターンで「女性」に全ての責任をなすりつけてしまうケースがあると思う(刺身氏もかつてそうだったと仰っていた)けれども、それはある意味で、女性というものを(性的な意味でなく、それ以外の点で)知らないからそうなるのかなあ? と、何となくだけど思った。
自分はこれまで何度か書いたとおり、高校時代に腐女子な先輩方に囲まれていて、でもって僕を男と意識してなんかいない部分が結構あったようだから、結構生々しい話も見聞きする機会がたまにあった。そこで知ったのは、女性といっても大体においては男性とさして変わらないっぽい、ということだった。異性に求めるもの、自身の生き方のスタンス、聞けば聞くほど「男と大して変わらん」と思った。不満の全ての原因を女性一般に押しつけるには、僕が見知った人達はあまりに「無害」すぎた。
ラジオクリルタイ公開収録3次会で話してたことなんだけど。
非モテはみんな年下が好きだ!という話があるけれども、非モテマインドを持っていると自認している僕にもそこはどうにもよく分からない。収録の時にもそういう(みんな年下好きだ!という)話が出ていて、もしかしたら僕一人だけかもしれないけど、「それは違うんじゃないの?」とずっと思ってた。で、3次会の時にその話がちょこっと出てきたので、思い切って聞いてみたんだけど。「そもそも非モテは年上と年下どっちが好きなんだ?」と。
そしたら大体の人が「年下でしょ」と、そうお答えになる。「じゃあ何故年下が好きなの?」と再び問うたら、「年下の方が御しやすそうだから」という答え。
でも僕はそれは、ほんとにそうなのかなあ?と思うんだ。年下の女性がほんとに御しやすいのだろうか? むしろずっと扱いにくいんじゃないのか? と。
ラジオクリルタイ公開収録2次会で参加者の人(はてなIDを伺ったんだけど失念)に「非モテって結局何なわけ? モテたいの?」と聞かれて、とっさに「モテたくないけど周囲がモテろモテろとうるさくて嫌だという人とか、モテたくてモテたくて仕方ないけどモテなくて苦しいという人とか、色々ある」と答えたのだけれども、これは考えが浅かったような気がする。
改めて考えてみたのだけれども、僕の認識では、非モテとはつまり自己承認できていない人で、且つ、自己承認の基準を他者に置いている人のことなのではないか?と思う。
ラジオクリルタイ公開収録に行ってきた。当日の一般参加で1500円払ったよ。いや、ほんとは仕事しなきゃいけないんだけど、全然やる気起こらなくて、せっかく東京にいるんだし聞いとかないと損かなあとか思ったしで、衝動的に。
ラジオ未収録の第3部も含めて、色々と興味深いお話を拝聴できました。というかほとんど竹熊先生の独演会だった気がする。しかしさすがはこの業界(何)の重鎮で、実に知識の幅が広く、また、それは氏ご自身の経験にも裏打ちされていて、含蓄のある言葉として感じられました。あと、終わった後に写メなんか撮らしてもらっちゃったYO!(何やってんだ自分)
これで泣かないのならというエントリで紹介されている山下達郎のPV映像について「これで泣けるかどうかが真性非モテかどうかの境目なんじゃないの」と書かれていたので、見てみた。
ボロ泣きしましたが何か?
モテないとわかっていて、あえてオタク趣味を選択した?そんな人いるん?というエントリの内容に涙涙。そうだよまったくそのとおりなんだ。天然でモテ趣味のやつはズルいよ。好きでファッションとか好きでサッカーとか好きでバンドとか、そういう人が妬ましくて仕方がない。
趣味の選択基準というのは、二つあるのだと思う。一つは、自分が楽しむためという、趣味本来の価値基準。もう一つは、それが他人からどう見えるのかという、社会的ステータスとしての価値基準。この2つの軸とはつまり、愛と青春と幻想のスクールカーストMAPで示された軸そのものだ。
何か趣味を持っている人というのはきっと、最初はこのグラフの右側にいるのだろう。しかし、思春期を迎え異性との接触を持ちたくなるような段階になって、そして自分の趣味の社会的な地位がどこにあるのかを知り、はたと気付くんだ。「この趣味、このまま続けてて、異性に相手にされるんだろうか?」と。
いや、べつに、趣味でモテなくたっていいんだというのは僕にも分かるんだ。例えば隠れオタクやってる腐女子な人達なら、自分が好きでやってる趣味とは別に、モテるためにオシャレという努力をしているわけだし。
ただ、僕らのような消極的保守的人間は、そんな逞しさも先見性も持っていないんだ。「別のことに手を出すのはなんだか怖いし、お金や時間ももったいないし……」とか「これを続けていればそのうち素敵な人が現れるかもしれないし……」とか、何かと理由を付けて、変化を拒もうとする。無価値な「自分らしさ」にしがみつこうとする。
いや、自分らしさにこだわること、それ自体は、悪いことではないのかもしれない。むしろ、人の目を気にして確たる自分を持てないことの方が恐ろしいことかもしれない。
となると結局のところ全ては、最初の選択で一体何に興味を持つか、どの興味について「引き返せないところ」まで進めるのか、という、至極手遅れのお話になってしまうわけで。
「非モテになっちまった人、ご愁傷様。あんたらは残りの一生、地を這い回りなさい。そして一般人を上目遣いで眺め続けるんだ。」――そんな言葉が聞こえてくる。嫌だ、聞きたくない! と、耳を塞いで悶え苦しむ僕なのです。
しあわせの理由(著:グレッグ・イーガン、訳:山岸真)(Amazon.co.jp)。短編集。収録作の中では表題作が一番好きかな。
全体的に、SF的なガジェット分は少なめに思えた。基本的に、宇宙にも出て行かないしコンピュータ世界で論争することもないし。解説文で「イーガン作品はSFと言うよりも哲学だ」みたいな話があったけど、その通りだと思う。
まあヒマがあったら読んでみればいいかな、みたいな。絶対読め!とまでは思わない。(←何様)