May 07, 2006

非モテの本質

ラジオクリルタイ公開収録2次会で参加者の人(はてなIDを伺ったんだけど失念)に「非モテって結局何なわけ? モテたいの?」と聞かれて、とっさに「モテたくないけど周囲がモテろモテろとうるさくて嫌だという人とか、モテたくてモテたくて仕方ないけどモテなくて苦しいという人とか、色々ある」と答えたのだけれども、これは考えが浅かったような気がする。

改めて考えてみたのだけれども、僕の認識では、非モテとはつまり自己承認できていない人で、且つ、自己承認の基準を他者に置いている人のことなのではないか?と思う。

モテたくないけど周囲の同調圧力がウザい、という人の気持ちが僕にはよく分からないのでここは想像なのだけれども、本当に今の自分の価値観に自信を持っているのなら、例えば趣味が大好きでそれ以外のことには全然興味が無くて気にも留めていないというのなら、同調圧力なんて屁でもないんじゃないだろうか? というか、そんな圧力が存在すること自体に気付かないんじゃないだろうか? と思う。実は他人の目を気にかけている部分があって、その部分が反応しているんじゃないだろうか。心のどこかで「そんな自分を社会がありのままで認めてくれる」ということを自己承認の必須条件に設定しているから、それが満たされなくて不満を感じるんじゃないだろうか。

モテたくてモテたくて仕方ない人の場合、話はもっと単純だ。僕も含めてこういう人は、「他人に承認される」ということが自己承認の最も大きな条件になっている。「特定の異性と健全な恋愛関係を築く」ことでそれが自己承認となる、あるいは「そういう関係を築ける自分」「そういう関係を築けない自分」を社会が承認してくれることで初めて自己承認となる。そういう考え方だと、当然、恋愛関係を築けない限りは、例え恋愛関係を築けたとしてもそれが絶対確実なものとならなければ、いつまで経っても自己承認ができなくて不満を感じ続けることになる。

そう考えたとき、このままでは永遠に自己承認を得られなくなってしまう可能性が見えてくる。他者が自己承認の基準になるということは、人の意見に左右されるということで、人の意見なんてものはコロコロ変わるものだから、結局、いつまで経っても「永遠確実な承認」は得られないことになる。

だから結局、人の目を気にするなとか、そういうありきたりな結論になってしまうのだけれどね。

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