Nov 01, 2006

電車宦官

「電車男」という単語自体がもう懐かしの物となっている今日この頃だけれども。

天馬唯氏は「『変わる』事を過剰に賛美する風潮が気にくわない、世間の価値観に迎合することを自ら選んだ『電車宦官かんがん』連中は軽蔑の対象でしかない。自分の持って生まれた特性を引き立てて魅力にすることにこそ励むべきだ」、という風なことをよく書いておられる(た)。

確かに「電車男」と同じ道を歩むことにした人というのは、「世間の価値観に迎合」して魂を売り渡した人である、と、言うこともできる。しかし、それは特定の価値観だけに基づいて述べた一方的な見方であるように思う。

オシャレや雰囲気のいい店を選ぶといった事は、悪く言えば「媚び」だが、良く言えば「もてなし」でもある。オシャレや雰囲気作りといった行動が、相手を楽しませたい、心地よい時間を過ごさせたい、不快にさせたくない、という「好意」「もてなしの心」「善意」を表現するための方法の一つであることは、否定できないと思う。

オシャレとかの目に見えるものは、大抵の人に善意として通じやすいからこそ、僕も含めて多くの人が気にするんではないだろうか。

もちろん、自分のした行為が善意として解釈されうるかどうかは、相手の趣味嗜好や文脈にもよる。相手によっては別の形で善意を示した方が喜んでもらえるかもしれない。例えば僕のような人間は、IE7よりもFirefox 2を薦められた方が嬉しい。また、当然その逆に、ある人には通じる善意が、別の人には通じなかったりもする。僕が良かれと思ってプレゼントに描き下ろしの絵を贈っても、相手がそういうことに全く興味がない人であれば、「こんなオタくさいヘタクソなキモ絵なんかいらねぇーよ!! これはイヤガラセか?!」と思われるかもしれない。オシャレやら何やらは、そういうリスクが比較的少ないのではないかと僕は思う。

いくら好意があって、相手を喜ばせたくても、その善意が善意だと相手に伝わらなかったら、意味が無い。「電車男」の行動の意味は、こうも解釈できないだろうか。「電車男は、エルメスに伝わりそうな形で善意を表現するため努力した」、と。

物語中において、エルメスはそれを受け入れた。しかし、他の形の善意を受け入れられたかどうか、好意さえあればダサくても構わないという価値観なのかどうかは、本人にしか分からない。テレビドラマ版エルメス(伊東美咲)は、比較的そういう傾向のある人物として描かれていたけれども、他のメディアで描かれたエルメスはそうではなかったかも知れない。ただ一つ言えるのは、この解釈のもとでは、「世間の価値観に迎合した」点ではなく、「相手を喜ばせるために行動した」という点について、「電車男」の行動は評価できるのではないか、ということだ。

価値観は人それぞれ異なる。自分が善意でしたことを相手が善意と感じられなくても、残念だけれども仕方のない事だし、また、相手の方も、善意を受け取れなかった事を申し訳なく思って気に病む必要はないだろう。

それよりは、「俺の善意を分かってくれないなんてけしからん!」なんて言ってしまう方がずっとヤバイのではないか。相手の気持ちが第一なのに、相手に自分の価値観や気持ちを無理やり押しつけるというのは、宜しくないのではないか。

……と、僕はふと思った訳なんだけれども、これはこれで、「尽くすのはよいことだ」という悪く言えば奴隷的精神に基づいた一元的な見方でしかないのかも知れない。だからこそ、プライドの高い人達は、これを「電車宦官」と呼んで忌避するのかもしれない。

それに、「尽くす」ために上から重ねたものを全てはぎ取った後に残る物を、はぎ取った後も好意的に見てもらえないのであれば、これは、地獄でもある。作られたキャラクター、本意に反するキャラクターに対してのみ向けられる、相手の関心。素の自分に対して善意を向けられることはない、というのであれば、一体何のために彼は生きているのだろうか。「電車宦官」を否定するのは、そのリスクを避けるためという性質もあるのかも知れない。

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