Jan 03, 2006

「ホーム」の範囲を狭めること

心理的なホームとアウェーの話から派生して、考えたこと。

改めて考えてみると、現在僕は、およそ4段階で身だしなみのレベルを変えているようだ。

  1. 家の中にいる時、宅配便の受け取りに出る時、家の前までゴミ出しに行く時
  2. 近所のスーパーあたりにちょっと買いものに出る時
  3. 日々の通学・通勤時
  4. オフ会だとかセミナーだとか普段会わない人や初見の人に会う時、デート

完全な「ホーム」と言えるのは、1番目の段階だろう。不精髭ものばしっぱなし、寝癖もそのままでいる。下手したらパジャマでずっといたりとかもする。

2番目の段階になると2分くらいで寝癖を直してヒゲを剃る。服は、パジャマではなくもうちょっと普通の格好をするけど、擦り切れた服(あるいは母がそれを繕ってくれた物)や、はるかに流行遅れのダサダサのものだったりする。

3番目の段階になると、10分くらいかけて髪型をもうちょっと気合入れて整える。いきがってワックスなんかつけてみたりする。服も、擦り切れたり汚れたりしてない比較的ましな物、自分で「これはよそ行き」と決めて買ってきた服を選ぶ。

4番目の段階になると、普段は使わない眼鏡(僕は「勝負メガネ」と呼んでいる。オッサン臭い普段の眼鏡より若干若々しい感じだと自分では勝手に思い込んでいる)をかけたり、3番目の段階よりもさらに時間をかけて髪型を整えようとしてみたりする。

まあ、実際に表に出る「出来栄え」的には、3番目4番目も大して変わらないオタク臭いオッサン然とした容貌なんですけれどもね。例え外観に反映されなくても、まるでトンネル掘削用シールドマシンが自分の進んだ後にトンネル内からセグメントを固定していくが如く、自分の内側に防護壁を塗り固めることで、ささやかながらそれを自分の心の支えにするわけですよ。閑話休題。

「脱オタク」を意識し始めるまでは、身だしなみ的には2番目の段階までがせいぜいだったと思う。そして、普段会わない人に会ったりオフ会に行ったりするのにも、2番目のレベルの身だしなみで挑んでいた。

今改めて思うに、その頃は、オフ会だろうが学校だろうが買い物だろうが何だろうが「素の自分」で普通に挑める場所、心理的なホームグラウンドと考えていたのではないだろうか。飾らない素の自分を世間が無条件に受け入れてくれるものだと、無邪気に信じていたのではないだろうか

実際にはそんなことは無いのだと、どこかで僕は気がついたのではないだろうか。「世間」は飾らない素の自分を所構わず晒け出す人間に冷やかな視線を浴びせるものだと、気がついたのではないだろうか。あるいは、他人の視線を過度に怖れ、そうであると思い込むようになってしまったのではないだろうか。ともかく僕は、他人と会うときに「ホーム」の気分ではとても居られなくなってしまった。素の自分を晒け出すことに恐怖を感じるようになってしまった。世間に全てをあずけられなくなってしまった。

これは、「自己(ホーム)」と「他者(アウェー)」との境界が自分の中ではっきり形成されたことの顕われではないだろうか? 他者は他者、自己は自己と区別できるようになったということではないのだろうか?

赤ん坊は、世界の全てが自分のためにあると思い込むという。腹が減ったら泣き叫び、おもらしをすれば泣き叫び、そうするだけでぬくもりのある自動機械があれこれと手を焼いてくれる、理想の世界。赤ん坊にとって世界とは自分であり、自分は世界の全てである。そこにホームとアウェーの区別などない。

他者の前に出るときにアウェー気分になれないという、幼児性の抜けきらない状態こそが、大人としては本当に危険な状態なのではないだろうか?

べつに、全てのオタクルックの人がそういう幼児的な人間であるとは思わない。そういう人間もいるかもしれないが、そうでない人間の方が多いであろうと僕は考えている。たまたま外観・容姿の点について注意が向いていないだけで、内面的には自我が確立されているのだ、と。また、その逆の「オシャレなことはオシャレだけれども頭の中は幼児さながら」という人間も多数存在していると、僕は思っている。

ただ、身だしなみについていつでもどこでもホーム気分でいることは、そのように解釈されかねないリスキーな行動と言えるのではないか、ということを、ふと思いついた次第なのです。

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