Sep 11, 2006

非モテ性に全ての罪をなすりつけること

先日のエントリに、多分こんなふうに言われるだろうなーと思っていた通りのブクマコメントが付いていたのだけれども。

もしかしたら僕は、「非モテ性」を悪者にして、自分の全ての罪をなすりつけているのかもしれない。と、これを見ていて思った。

自己中心的であるとか自意識過剰だとか幼稚であるとかナルシシズムとか嫉妬深いとか怠惰であるとか変態性だとか自制心が無いとか、自分のパーソナリティの嫌な面・なくしたい面、邪悪な性質までもを一律に「非モテ性」として括ることで、そして、「非モテ性」をなくしたいと思うことによって、そのような「悪い性質」は僕の人格のコアと密接に結び付いている訳でなくてあくまで分離可能なものである、と考えようとしているのかもしれない。「これは僕という人間の本質ではないんだよ」と、切り離して目を背けようとしているのかもしれない。そして「完全にそれが分離された、理想的で健全な自分」にいつの日かなれるはずである、と思い込みたいのかもしれない。

僕は自分の中に、否定したい要素が非常にたくさんある。できることなら時間を遡ってやり直したい、そんな灰色の「若い頃」がある。例え彼女ができようと結婚しようと子供ができようともきっとずっと癒されることも満たされることもない、歪んだ負の感情がある。

できることならそれを消し去りたいと思っている自分がいる。そういうものを全部なくして「健全」で「モテ」で「勝ち組」な人間に生まれ変わりたい、彼らの世界に仲間入りしたい、コンプレックスから開放されたい、そう思う自分がいる。

僕は僕の持つ技能にプライドを少しは持っているけれども、それを育んできた土壌である人生には、不健全で不人気で日陰者で負け組な人生には、プライドを持てない。健全でモテで勝ち組な人達が、もっと華々しい人生を歩みながら僕以上の技能を身に着けている、そう思うと、自分の人生なんて何の価値もないじゃないか、としか思えなくなる。

そんな僕は、否定し得ない己の負性と共に生きていくことを覚悟した人から見たら、虫酸の走る存在でしかないのだろうと思う。己の負性を認めることができずに目を背け逃げ出した、僕のような弱虫は。

「成功者だってそんなに華々しい人生を歩んでる訳ではない」、そうなのかもしれない。いい歳した大人は、分別のある社会人は、人間のできてる人は、わざわざ苦労話だの過去の陰鬱な話だのドロドロした感情だのをわざわざ人前で垂れ流すようなことはしないだろうから。そして頭の悪い僕は「見えない」ものは「無い」ものと思ってしまうから。

エントリを編集します。

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