Aug 10, 2006

知能の程度と自分の暮らしやすい場所

エリート話に関係して思い出した話で。

よく、「勉強ができるだけとかそんなことよりも、他人の気持ちが分かるとか思いやりがあるとかそういうことの方が重要だし、素晴らしいことだ」という言い方をされることがあると思う。

それは負け惜しみの場合も少なくないかも知れない。自分にとって「勉強ができる、頭がよい」状態は、手に入れられなかった「酸っぱいブドウ」であって、手に入れられなかったからこそ「へん、あんなブドウなんざ俺は元から食べたくなかったんだよ、どうせ酸っぱいに決まってるんだから」と自分に言い聞かせているだけだ、という場合は確実にあるだろう。

でも中学時代までは秀才だったけど高校に入る頃あたりから転落し始めたという話で、「自分より頭の良い人達ばかりの世界に放り込まれた」後で途方もない挫折感を味わいその後の人生を悲惨なものにさせてしまっている人の例を見ると(仮にこれらの話が事実であると仮定するなら、だけど)、自分の頭の程度に合った環境、自分の頭の程度に合った友人、そういったものに接していた方が人は幸せになれるのかも知れないとも思う。

以前書いた頭の回転の速さに関する話への言及で紹介されていた知能指数の話では、IQが20違うと会話が成り立たないという説も紹介されていた。

「秀才としての人生から転落した」人も、「世の中の多くの人と難なく意思疎通できる立場・状態になった」と見れば、その後の人生のすべてを否定するようなものでもないと思うのだけれど、どうだろう。また、もしかしたら、無理してついて行った先の方は辛いことばかりで、今そこでドロップアウトしておいた方が、無理せず楽に生きられる自分の素養に合った場所に辿り着けるのかもしれない。

それとも「今まで見下していた相手」と「同じ目線」に立つこと・立たされることはそれだけでもう耐え難い屈辱なのだろうか。

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