Dec 19, 2006

自分のする行為の価値

white_cake氏のエントリのコメント欄で出張チラシの裏してしまったのでこちらに移しておくというかちゃんと書き直しておこうと思った。

成功の保証がなければ努力する気になれない、などとほざくやつは下司だ。

必ず報われることがわかっているのならば、それは努力などではなく、ただの手続きに過ぎない。報われぬかもしれない、という恐怖に耐え、それでも歯を食い縛って前に進もうとするからこそ、あのひとは美しいのだ。

この種の言説はたまに見掛けるけれども、僕はこういうことを考える時どうしても、「それもまた絶対に成功することが保証された出来レースに過ぎないのではないのか?」と思ってしまう。「成功しても失敗してもどちらでも構わない、そのために一心不乱に努力することが美しいのだから」というのなら、結局、その人にとっての「成功」の定義が「勝負に勝つこと」でも「お金を儲けること」でもなく「美しくなること」にすりかわっただけで、ともすれば「努力しさえすれば美しくなれる」と言っているのと変わらないことになるのではないか、と。

そんなこと最初から考えてやってるようなのはダメだ、邪な動機に基づいているから美しくない、と、反論される。そりゃあ、最初からそう考えてやってるのなら、ただの偽善だろう。そうではなく、本人がそれと意識していないところで、無意識の領域で、偽善をはたらいている可能性は無いと言いきれるのだろうか? 表向き「一心不乱に努力したいだけ」と言っていて、本人もそう思い込んでいて、でも実際には「一心不乱に努力している自分を外から見たときの美しさ」に酔っているだけだったりはしないだろうか? そうでないという保証はできるのか?

僕の中では、ベタな視点で一心不乱に努力する自分というものを、常に一歩引いた所から見ているメタな自分というものが、あるような気がしている。常に「そんな自分に酔ってるだけなんじゃないのか?」「その努力の動機は、いつかの過去に得た『美しい』という称賛を無意識のうちに求めているだけなのではないか?」という、疑念の冷たい視線を投げかけ続けている、そういうメタな自分を意識せずにはいられない。そして、その視線を意識した瞬間から、僕には、その努力は所詮は「美しくなるための手続き」に過ぎないという風に思えてくる。

そんな僕にはもしかしたら、「美しくなるための手続き」ではない「素直で純粋な努力」は、絶対にできないのかもしれない。美しさを欲しても、自分のする行為には全く美しさを感じられず、何もする気が起こらなくなる。

そんな疑念の視線を感じたりしない、ただひたすら素直で純粋な努力ができる人が、そういうことができると信じることのできる人が、僕には、羨ましい。

でも僕は、そんなダメダメな自分というお荷物を抱えて、生きていくしかない。そんな自分でもどうにかして、何かするための意欲を掻き立てなくてはいけない。

だから僕は、自分のする行為に美しさや貴さといった価値を求めないことにしている。求めないように心がけたいと思っている。それらを求めて、自分の行為と繋げて考えたら、その瞬間に自縄自縛に陥ってしまうから、敢えて考えないように、切り離して考えるようにしたいと思っている。

その代わりに、僕は、自分のする行為に「誰にとってどう役に立つ」という価値だけを求めるようにしたいと思っている。しない善よりする偽善、どんな動機であれ役に立つ物は役に立つ(例外は、偽善で為されたのでは価値が生じない行為だけだろう)。動機が清くても汚くても、役に立つという価値は変わらない。汚い動機しか持てない(どんな動機も汚い動機としか思えない)僕が生きていくには、こう考えるしかないような気がする。

誰の何の役にも立てなくなったら、その時、僕はどうするんだろう?

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