Oct 31, 2005

Track02: イイコトイッタ featuring 非モテとか

Masao氏にブラボーと叫ばれてしまったので、ふと気になって、他に同じタグが付けられていたブックマークも見てみた。

萌えって結局自己愛を投影しているに過ぎないという話。全面的に同意するし、むしろ現実の恋愛にもそういうものを望もうとしてしまっているのではないかと毎日恐怖している僕がいる。拒否されるのも恐いけど、拒否されないのも恐い(それが重なると自分が調子に乗ってしまい、「萌え」感情と同じ要領で相手の人格を無視してしまうのではないか?と思うから)。

もう一件興味深い話があったけれども、非モテ話と絡めて語られると先方が不愉快だそうなので、リンクせずに語っておこう。その記事では、「格好悪くてもいいじゃん。無様でもいいから生きようよ。」といった類の励ましの言に対して、「いや、そもそも俺は格好良く生きたいのではなく、ただ堂々と生きたいのだ。格好悪く生きてもいいとあんたはいうが、あんたは格好悪く生きる俺を詰ったり嘲ったりしないと言いきれるのか? この社会は、格好悪く生きる俺を嘲笑わずに承認してくれるというのか?」と、常に不安に駆られている者たちの気持ちを代弁した上で、その不安は彼らが世間を「相当高いレベルの者でなければ即嘲る、血も涙もない競争社会」であると過度に悲観的に捉えているせいではないのか、「自分はもっと完璧超人でなければ社会から承認され得ない」と自己承認の最低基準を過度に高く見積もりすぎているのではないか、と論じていた。

僕自身、自己承認のハードルが異常に高いのを自覚してるところもある。メディアを通じて見せられる像が一様に「かっこよくて、受け入れられている」「かっこ悪くて、受け入れられていない」というものばかりだから(ドラマ等は顕著な例だろう。ドラマではモテキャラはほぼ間違いなく美男美女が演じている)、そういう物だと刷り込まれてしまっている、というところもあるような気がする。

……むしろ僕らの側が、モテキャラにかっこいい人物像を求めてしまっているのだろうか? そうあってほしいと願ってしまっているのだろうか? でないと、自分が「モテるために」かっこよくなろうと努力することの異義が失われてしまうから。あるいは、「モテない原因はルックスのせいだ、ルックスについて努力しさえすれば自分もモテるんだ、ただ、今はそれをしていない(don't)だけなんだ、可能性が無い(cannot)わけじゃないんだ」という言い訳ができなくなってしまうから。

エントリを編集します。

wikieditish message: Ready to edit this entry.











拡張機能