May 19, 2006

成功体験の重要性

脱オタには何らかの形での「成功体験」が必要だと考える、その理由。

普通の人は、「今の自分」がそんなに嫌いではない。だから、軽い気持ちで何か上着なり靴なりのパーツ単位で服を買ってきて、今の自分の手持ちの服に合わせてみて、気に入れば・似合っていればそのまま着続けるし、気に入らなければ・似合っていなければお蔵入りにするのだろう。事実、僕の知っているオシャレな人達は、「買ったけど着ないままになってしまった服」を持っていて、少なからず失敗をしているのだ、だからお前(僕)も一度や二度の失敗にめげずにがんばれ、と僕に対してアドバイスをくれている。

だが、それでは駄目なのだ。

普通の人は、パーツ単位で服を買ってきて、今の手持ちと合わせて、似合わなければ、その服を除外して元のスタイルに戻す。これは、現在のスタイルが気に入っているからこそできることだ。

脱オタで真剣に悩む人は、似合わなくても、その服を除外して元のスタイルに戻ることができない。現在のスタイルが心底嫌いだから、そこに「戻る」事は、絶望でしかないのだ。

少なくとも僕の場合は、髪型も、眼鏡の形も、服装も、何もかもが嫌いだった。少しずつでもマシなものに入れ替えていって、違う自分になりたかった。上から下まで「嫌いなもの」だけでばっちりコーディネートされた自分には、戻れなかった。現在のスタイルが嫌だから脱却しようとしているのに、失敗したらその現在のスタイルに戻れというのは、拷問のようなものだ。

だから脱オタを成功させるためには、心の拠り所が無くてはならない。もし「失敗」しても、そこに戻れば自分の好きな自分がある、あるいは戻った状態の自分を肯定してくれる誰かがいる、そんな「安全地帯」がなくてはならない。その安全地帯こそが、「最初の脱オタでの成功体験」なのだと、僕は考えている。

そして安全地帯がないから、失敗を極端に恐れる。「完全なる成功」を求める。それを求めて必死になる。

「完全を求めちゃいけないんだよ。失敗してもイイさ、誰でも失敗してるんだ、と思った方がいいんだよ。」これは真理だ。しかし、その言葉は脱オタしたい人には届かないのだ。

現実的に考えるなら……上から下まで全て一度に入れ替えてしまうと、失敗したときのダメージが大きくなりすぎる。ということは、髪、上着、ズボン、という風にパーツ単位で着実に「成功」を重ねていって、「成功」したところはもう元には戻さない、という形で足場を固めていくのが良いのではないだろうか、と僕は思う。どうせ、「おしゃれなパーツとそうでないパーツ」を合わせたときの違和感なんてものは、脱オタしたくなるような、オシャレのセンスを持ち合わせていない人間には、分かりはしないのだ。というか、ぼくには今でもよく分からない。ただ、パーツ単位でとはいえ少しずつ自分が変わっていけば、自分自身は満足できる。他の人の目にどう映ろうが、自分にとってはそれが「成功」になる。

僕はそう思うし、振り返ってみれば自分はそのような経過を辿ってきたと思うのだが、客観的には、どうだろうか。

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