Jun 21, 2006

「無難」は一つの系統であるという説

一般人=全員オシャレで恋愛至上主義という考えを捨てないと脱オタは永遠の苦しみでしかないのコメント欄での不毛な応酬を見てて思ったこと。そして自分の内面を分析して思ったこと。

僕の考える「脱オタ」とは、「オシャレの対極にありキモイ状態」「女性から好感どころか嫌悪感を持たれる状態」を脱して「万人に受け入れられる最低レベルのオシャレ」「女性を虜にすることはできなくても、嫌悪感は持たれず好感を持たれ得る無難な状態」にまで這い上がる行為だ。よって、その第一の目標は「一般人の中に溶け込めるようになること」「悪目立ちしなくなること」だと言える。

自分の中にあるイメージを図示してみたが、これを見れば分かるとおり、僕にとって「無難」とは「オシャレの出発点」なのだ。

だがオシャレの専門家である(と敢えて判断する)天馬氏は、頑なにこの考えを否定する。「万人受けする格好なんてあり得ない、あるとしてもそれは地がイケメンでないと成立しない極めてハイレベルなものだ」と繰り返し、「それよりも自分の地を活かせる個性的な容姿を目指すべき。その方が、容姿としては無難でなくても戦略として無難である」と説く。

氏が思い描く世界は僕が思い描く世界と全く異なっているのではないだろうか? 想像してみるに、氏の中でオシャレとはこの図のような構造になっているのではないだろうか? 「無難」は「出発点」ではなく「到達点の一つ」であるとして、個性ごとのオシャレの傾向の分岐はもっと初期の段階から始まっているというイメージなのではないだろうか?

この図を作るにあたって「男のファッションの系統」にどういうものがあるのか調べてみようとして男性ファッションの分類&解説というエントリに行き当たり、そこで「きれいめ系・無難」が「一つの系統」として挙げられていた。この事からも、僕はこの予想がある程度は的を射ているのではないかと考えている。

もし仮にそれが真だとするなら、確かに脱オタしたいと願う人間は、重大な考え違いをしていることになる。「脱オタの最初の目標地点にして、それ以上のステップを望むための出発点、誰にでも比較的簡単に到達できるであろう練習課題」と思っていた「無難」が、実はそれだけで既に一つの系統として成立するような奥深いものであるのなら、「無難」を目指すことはすなわち何の装備も成しに底なし沼に無謀にも突っ込んでいくのと同じことになる。

エントリを編集します。

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