May 21, 2007

理念でおまんま食えるのか? という話

勉強会の二次会三次会でZINさんとかと話したこと。

Firefox(Mozilla Foundation/Corporation/Japan)って、広めたいの? それとも、広めたくないの? という根本的な問い。目的のために手段を選ばない、という割り切りを何故Mozillaは持とうとしないのか。Mozilla Manifestoのような綺麗事に何故いつまでも拘泥するのか。

思うに、きっと今Firefoxの開発力なりプロモーション力なりを支えている人達にとっての「報酬」は、「Mozillaがそういう綺麗事にいつまでもこだわり続けている」ということそのものなんじゃないだろうか。金のためならなんでもする、目的のためなら手段を選ばないことが美徳とされる資本主義の世の中だから、「それに対するNO」であるMozillaがこうして立派に存在し続けている、ということが、「金のためならなんでもする」価値観の社会からこぼれ落ちてしまう人にとっての、希望になっていたりするんじゃないだろうか。その希望を糧にして、MozillaやFirefoxの支持者は、少なくない時間と労力を投じているのではないだろうか。……という見方は極端すぎるだろうか?

もちろん、理念の美しさは認めるし、その意義だって分かる。IE6がシェアのほぼ100%を占めていた数年間、Webの進歩がどれだけ停滞したか。それを考えれば、Mozillaの社会的な意義は物凄く大きいと思う。

しかし、そうであるにせよ、現実的に今のMozillaを物理的に支えているのはGoogleとかそういったスポンサーなのであって、決して、「Mozillaの美しい理念」が直接金を生み出しているわけではない、理念がMozillaを物理的に支えるといったことはまだできていない、と僕は思うわけで。

今までそういう夢を糧に付いてきてくれた人達をばっさり切り捨てても余裕で組織が回るくらいの人員を雇えるだけの収益を上げられるビジネスモデルでも見つけない限り、MozillaなりFirefoxなりの発展は牛歩のスピードでしか進まないんじゃないだろうか。

本気で技術の革新とかそういうことを重視するんなら、(少なくとも名前だけ見ても)後から出てきたのにもうその名を冠したカンファレンスを開くまでになってしまっているAdobeのApolloを指をくわえて見てるだなんて、とてもとてもあり得ない選択だと、僕には思えるんだけど。

それとも、ある種の公共事業のように、シェアを取りに行かなくてもいいからとにかく安定した運用を至上命題として心がける(ここまでの話でいえば、高潔な理念を保ち続けるというのもそれに含まれるだろう)、というのが、MozillaやFirefoxに本来最も適したスタイルだったり、あるいは、真ん中の人達が望んでいるスタイルだったりするんだろうか。

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