Aug 11, 2006

設問を疑う

普段の人付き合いは最小限度に留めて恋愛だけ上手くやりたいなんて無理、という指摘にはっとした件について、「普段の人付き合い」ができないことで苦手意識が芽生え、さらに人付き合いができなくなって……というケースについて考慮されていない、という言及を受けた。

僕は、「座して死を待つか、覚悟を決めて立ち向かうか」というニ択で物事を考えることが多い。先の例で言えば、「人付き合いが全くできないまま恋愛に繋がらない道を歩き続けるか、自分を変えて恋愛に繋がる道に乗り換えるか」という具合だ。

しかし、いつもいつもそう与えられた選択肢の枠の中だけで考えていてはいけないのかもしれない。僕は、「人付き合いが全くできなくても恋愛に繋がる可能性」を考慮していなかった。選択肢で示された「事実」以外の「事実」がある可能性を考えなかった。

設問そのものを疑う姿勢、これを僕はもっと持つべきなのだと思う。

例えば、「ギャンブルをやめて健全な生活をするか、ギャンブルに金をつぎこんで破滅するか」という問いに対して「ギャンブルで金を確実に儲ける」という選択肢を僕は考えないことが多い。でも、そこを考えられる人というのが、本当は凄いのではないだろうか。もちろん普通に考える限りにおいては、ギャンブルとは胴元が最終的には勝つものであり、子が確実に儲けるのは統計的に不可能だろう。しかしそれはあくまで「イカサマ無しなら」という条件の元にのみ成立する選択肢である、という事実に気付けるかどうか。「イカサマも有りだろう」という世界に視野を広げることができるかどうか。そうして既存のレースのルールを覆した所に、勝利というものはあるのではないだろうか。

だから「人付き合いが全くできなくても恋愛に繋がる可能性」というものを検討するのが、実は賢いやりかたの第一歩なのかもしれない。

そう思うと、「虫がいい」という風に思えた考え方も、より挑戦的で自由度の高い考え方なのかもしれないなと思った。

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