Oct 18, 2006

言葉が怪しい人の話を聞く気になれない理由を考えてみた

日本語の使い方が怪しい人、一般常識から外れた言葉の使い方をしている人の話というのは、真面目に読むには値しない。逆に、言葉を正確に使おうとしている人の話は、真摯に耳をかたむけたい。と、僕はいつの頃からか無意識のうちに思っているようである。

なぜなんだろう。

特定の用語を一般常識に照らしあわせておかしな意味で使うケースというのは、結構ある。比喩などがそうだ。しかしそういう場合には、その「特殊な意味合いで用いている言葉」を「括弧書き」にするなり前置きするなりするのが、人に向けて話をするための一種のマナーだと僕は思っている。

そうしない人というのは、2種類に分けられると思う。

ひとつは、「自分がその言葉を変わった意味で使っていることに気がついていない」、その人のヘンテコな理解が普遍的なものだと素で思ってしまっている、自分と他人の区別が付いていない人。「烏合の衆」という言葉を不適切な文脈で使っているYoko氏などはこのパターンだと思う。こういう人は、ある意味では真面目なのだけれども、ちゃんとしたコミュニケーションを取ろうと思ったら、母国語が異なる人と話すような苦労がある。

もうひとつは、「その言葉を常識的な意味で使っているとミスリードさせることで、他人を引っかけ、釣られた人を吊しあげたい」、つまりひねくれ者。どうとでも取れるあいまいな書き方をする人に通じるものがあるかもしれない。こういう人とコミュニケートしようとすると、NHK特番で割を食う羽目になった医師たちのように、気付かないうちに損をさせられることになる。

もちろんこのどちらも、誰にでもあり得る事だとは思う。自分も意図せずそういうミスを犯すことはあると思う。ただ、多くの場合それは一時的なもので、例えそこで自分が「損」をすることになっても、普段のつき合い方において十分「得」ができるのなら、関係を続けて何ら問題ないだろうと、僕は思っている。

しかし、それがあまりに続くようだと、その人はいつもそうなんだ、と思ってしまう。僕がそういうケースに出会って「真面目に読むに値しない」と判断するのも、そんなところで自分にとっての得にならない無駄な時間とエネルギーを使いたくないからではないかと思う。

……ということを、10月16日のエントリ「『所詮、女は顔で男を選ぶんだよ!』と言っている男の子は、まず自分の父ちゃんの顔をよく見るべき」についてタネ明かしを見ていて、エントリ内で述べられていることの本題とは全く無関係に、考えた次第なのです。

エントリを編集します。

wikieditish message: Ready to edit this entry.











拡張機能