Jul 10, 2014

アドラー心理学とマッチョ

「嫌われる勇気」で紹介されているアドラー心理学がマッチョと言われて、最初に思ったのは「ええっ!? なんで!?!」だった。

僕は今の今まで、マッチョとウィンプとは以下のようなものであると認識していた。

マッチョ
激しい競争のある所で勝利した人(例えばジョックスがその典型)。自分の成功体験に基づくシゴキ教育を説く、すべての人は勝利者を目指すべきだという強い信念を持っている人。
ウィンプ
真っ向勝負で負けた、あるいは、真っ向勝負を避けて、隙間産業的なところで生きている人。すべての人が勝利者を目指す必要は無いと思っている人。

マイナージャンルで一定の評価は得つつもメジャーに打って出ようとはしない、覇気のない・最初から勝負を諦めて降りてる負け犬根性の人間は、僕にとってはウィンプだった。だから、そんな僕が共感する「嫌われる勇気」の話はマッチョとは対極にあるに違いないと思ってた。

しかし、「マッチョ」と「ウィンプ」という言葉がそれぞれ何を指すのかというのは、改めて調べてみると、人によって微妙に異なっているようだ。

結果として社会的に成功(勝利)しているかどうかという事を脇に置いて、その姿勢や考え方に着目してマッチョとウィンプを対比させると、アドラー心理学的な考え方は「マッチョ」側に分類されるという事らしい。人力検索はてなの回答の中にあった以下の要約を見て、しっくり来た。

マッチョ

自分で道を切り開いて、失敗しても他人や状況のせいにしない人

必ずしも成功者とは限らない

ウィンプ

自分で道を切り開けずにウダウダして、それを他人や状況のせいにする人

とはいっても、必ずしも負け犬とは限らない

言われてみれば確かに、世の中の誰もが憧れる各分野でトップに立つ「勝利者」と呼べるような人はそんなに大勢はいないわけで、以下の問答のような「要は勇気が自己責任!」な言い方をする人のほとんどは、トップに立つことができないまま勝負から下りて何らかの形で自分の居場所を見つけてそこに安住している人なのだろうから、ますます、上記引用の定義は妥当であるように感じられる。

まあ、実際にはウィンプなんだけどマッチョになりたくて・憧れていてマッチョ的説教を垂れ流していい気分に浸ってるだけ、っていう人もいるのかもしれんけど。

社会的成功者・勝利者になるには、運とか時勢とかコネとかの「自分の力ではどうにもならない物」が関係してくる。マッチョはそういった物を引き寄せるための行動を取りやすいとかの相関関係はあるかもしれないけど、ウィンプのままでだってそれらを手に入れることはできる。宝くじの一等を当てた人、なんてのはその代表的な例だろう。だから「マッチョになれ」「マッチョにならなきゃ幸せになれない」と言うのは正しくない。

ただ、ウィンプのまま勝利者になるにはそういう運が必要になってしまって実現可能性が読めないのに対して、精神的マッチョになるだけなら自力でどうにかできる可能性が高い、っていうのは言えると思う。運任せよりは安パイだという意味で、この方針をおすすめしたくなるわけですよ。

あと、「ウィンプな自分こそが自分なのであって、マッチョ改造人間になってしまった後の自分は自分じゃないのだ! そんな改造人間になってまで幸せになりたくはないのだ! そんなの自分じゃなくてもはや他人だ!」っていうのもあるかもだけど、そう考えてる今の自分自身だって、昔の自分と比べたら十分他人なんですよね。「サッカー選手になりたい」とかそんな感じで目をキラキラさせてた、子供の頃の希望に溢れてた自分は死んでしまって、今ここにいるのは死んだ魚のような目で疲れ切って日々の生活をこなす自分だ、みたいな。だったら、もう既に1回は死んでるんだから、今更さらにもう1回2回殺しても問題ないんじゃないの? と、僕は思っちゃいます。

冒頭のリンク先のエントリにあるように、「嫌われる勇気」では「どうすれば精神的マッチョになれるのか?」を対話形式で懇切丁寧に手ほどきしているので、「今はウィンプだけどマッチョに近づきたいと思っている人」にとっては、やはり読んでみる価値のある本だと思う。ウィンプだった過去があるからこそ、ウィンプの気持ちが分かる、ウィンプにも優しいマッチョになれる……のかもしれないし。

エントリを編集します。

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