Feb 23, 2018

肩書き迷子

「マンガで分かるGit」等で知られる湊川あい氏が転職を決意したきっかが、Webデザイナーとして就職した会社で人手不足のため裏方から事務まで担当していた時に、本分であるはずの「Webデザイナー」ではなく「細々としたことをしてくれている人」と当時の上司から社外の人に紹介された事だった、というのは何度か語られている事だ。なりたい自分になれていないという事実を突きつけられ、現実を直視し、なりたい自分になるための覚悟を決めたのだという。

この話を聞いて「そりゃひどい。本分じゃないことをあれこれやらせておいて、その上、肩書きとしてすら本分が何であるかを認めないとは。」と思い自分の事のように憤慨したのは事実なんだけど、しかしその一方で、仮に自分が「細々としたことをしてくれている人」と紹介されたとして、同じように感じるのだろうか? というと、どうもそこまでのショックを感じないのではないかという気がしている。

 

というのも、就職活動の時期に至ってすら自分は「何になりたいのか」がハッキリしておらず、何なら「雇ってくれるならどこでも行きます! 仕事をやらせてもらえるなら何でもします!」くらいの雑な考え方しかできていなかった(今になって思えば、最初の会社の社長はよくそんな僕を雇ってくれたものだと思う)。それに実際入社が決まって以降も、開発業務ではなく広報のお手伝いのようなデザイン業務(チラシ・ポスター製作、Webサイト制作)をずっとしていたし、日経LinuxにOpenOffice.orgの解説記事を連載して挿絵も自分で描いてたし、OOoの解説本は中身は書かなかったけど装丁をやったし、東京に来てからも週の半分くらいはMozilla Japanでマーケティング活動のお手伝いでチラシやポスターや紙袋を作ったり、動画のディレクションをしたり、配布するCD-ROMに入れるFirefox Portableの起動用スクリプトを作ったり、フォクすけをデザインしたりテキストを書いたりアドオンも書いたり、自社にいるときも名刺やチラシを製作したりWebサイトも制作したり、Railsを使った開発案件もやったしSambaのサポート案件で客先を訪問して本番環境でトラブったりもしたし、あとFirefoxやThunderbirdの導入サポート案件やインシデントサポートもやってたし……とにかくもう何でも、やるように言われた事はやってきたので。要求された仕事をこなすことが社会人としての自分の価値、こなせなければ価値は無い、と思っていたから、それを不思議に思うこともなかった。

プライベートでも、最初の趣味は絵を描く事だけだったけれども、中学でプログラミングをやり始め、高校では漫画研究部で漫画やイラストを描きつつWeb標準に傾倒してCSSでのレイアウトに凝り、大学ではWeb標準技術をきっかけとしてMozillaに傾倒しそれまで以上にプログラミングに本格的にのめり込んでいき……と、やる事が一定していなかった。自分の中での「自分は何者である」という肩書きを、僕は原点がそうだったからという理由で「絵描きです」と思っていたけれど、気がつけばいつの間にかプログラミングの比重の方がずっと大きくなっていて、絵も元々細かい描き込みを面倒臭がるような所から「絵を描くのが好き」というわけではなかったようだという事が露呈してきていて、改めて考えてもますます自分が何者か分からない状況になってしまっていて。

突き詰めると僕は、人に誉めてもらえるなら何でもやる見境のない人間であるし、自分が気に入らないと思ったら領分を踏み越えて余計な手出し口出しをしてしまう傲慢な人間であるという事なのだと思う。やったことを「誉めて」もらえるのならどう呼ばれても構わなくて、「この立場として誉められたい、他の立場として誉められたくない」という事の拘りがないのだとも思う。ITコミュニティでアイドル扱いでチヤホヤされる人に対しても、羨ましさを覚えこそすれ、「ああいう風には扱われたくない」とは実際の所思っていない。何なら、自分がイケメンであってアイドル扱いでチヤホヤされるならそういうのも良いなとすら思う。

そんな生き方をしているから、僕は「こういう人です」と一言で言える肩書きを持てていない、迷子になってしまっている。

 

あるいは別の角度から言うと、僕は自分で肩書きを自称するのを恐れているのだとも思う。「Webデザイナーです」「プログラマーです」「漫画家です」と名乗ったら、その瞬間から「あいつWebデザイナーって名乗ってるけどデザインセンスねえな」「あいつプログラマーって名乗ってるけど全然技術力ないな」「あいつ漫画家って名乗ってるけど全然おもんないし絵も下手だな」というような人格を傷付ける揶揄から逃れられなくなる。それが怖いから肩書きを自分からは名乗れずにいる、という部分は間違い無くあると思う。

そういう恐怖があるから、「自分の職業は戸倉綾です」というような「誰でもない自分」宣言すらもできない。自分の生き方という物にすらもそこまでの強い信念や自身を持てていない、という事実に向き合わざるを得なくなる、それを恐れて逃げ続けているという事なのだと思う。

 

あとは、ほら、なんだ、その、自称より他称の肩書きの方が欲しいんすよ多分。口コミで評判が広まって客の絶えない店と、広告バンバン打ちまくって知名度上げて客の絶えない店と、どっちがおいしそうに思う?って話ですよ。口コミで評判が広まって勝手に「プログラマー」とか「漫画家」とか呼んでもらえるようになる、そういうのに憧れてるんすよ。 自分で名乗ったらその責任は自分に返ってくるけど、他称だったら自分に責任無いじゃないすか。ねえ?

という事を考えると、どうも、僕の肩書きとして適切なのは、「誉められたがりのくせに覚悟の足らないゲス」とかそんな所っぽい感じです。


肩書きがハッキリしてなくてもそのこと自体に不満を感じていないのは、作った・やった成果そのものまで否定される訳ではないからなんじゃないか、と思ってる。成果を知られてないからもっと知られたいとか、成果に対する評価が聞こえてこないから寂しいとか、絵が下手だとかスキルが低くて作った物がヘボいとか、そういう所での辛さはあるけれども、描いた絵はなくならないし作ったプログラムもなくならない、作った物・やった事が無かった事にはなってないからなんじゃないかな、って。

何年に出版されたと奥付に記されている本が国会図書館に所蔵されているとか、何年に開始されたプロジェクトのGitリポジトリがGitHubにあるとか、成果があったという事実やその証拠が世界のあちらこちらに痕跡として残っている以上、無かった事になるというのはまず無いだろうと思えているので、それで僕は今、精神的な安定を得られているということなのかもしれない。

だから、「お前は何もやってない」とか「お前は絵を描いてない」とか「お前はプログラムを作ってない」とかそういう風に言われたとしたら、その時の方が僕は強く動揺してしまう。実際、「マンガで技術解説してる誰々さんすげえ! 新しい! こんなの他に無い!」と他の人がパイオニアとして賞賛されているのを見ると「うっ……僕も何年も前から連載してるんすけど……」と辛い気持ちになるし、その誰々さんの口から「Piroさんて人も漫画で技術解説してる」と言ってもらえたら、それだけで(その事がその誰々さんの読者層の人達に認知されないままであったとしても)溜飲が下がる。本の表紙に名前が載ってても奥付に名前が載ってなかったらものすごく不愉快な気分になる(実はシス管系女子の1冊目の初版がそうだったのです……何らかのミスでそうなったと聞いています)。

自分が思ってる事実の認識と、現実に起こった事としての事実とが、ずれてないといいんだけど。そこがずれてしまうと、何でもかんでも「わしが育てた」って言っちゃう頭のおかしい人になってしまうので。そうはならないでいたいですね。

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