Jun 24, 2018

差別性・ハラスメント性は「どこかの極悪人」だけの物じゃなく皆が持つ物なんだよという話

1つ前の女性エンジニアうんぬんの話のエントリの反応を見ていて、「これは差別だ」「これは差別ではない」という軸での対立が見られる事に気がつきました。

そもそも僕が書いたエントリ自体もざっくり言えば「これは差別だ」派に属しているわけですが、それに対して「これは差別ではない」派の方からの言及があり、その対立軸を自分自身がよりはっきりと意識する機会になりました。

  1. Y社のエンジニア炎上について思ったこと -「女性エンジニア少ない問題:元増田
  2. Y社のエンジニア炎上について思ったこと 続き:僕の1つ前のエントリへの言及
  3. それへの僕のコメント
  4. 僕のコメントへの返信

このやり取りを見ると、僕が長文で書いた事の諸々のうち大筋では「これはよいこと」「これはよくないこと」という認識が双方で共有されているものの、「元発言が差別か否か」という点で決定的に認識が対立しているようである事が読み取れます。

自分としては、「こういう点で問題があるから避けよう」「こういう理由で問題無いからこのままやろう」という線引きが明らかになる事で、同様の「やらかし」が世の中から少しでも減りつつ、「なんか炎上しそうだから……」という漠然とした不安からの萎縮も減ってくれる事が望みなので、敢えてこれ以上の事を続ける必要も無いかなとも思うのですが、その一方で、肯定派と否定派の対立が一点に集約されるのも興味深い話だと思ったので、自分の思う所を改めて記しておこうと思います。

あと、自分はこれを「差別」と「ハラスメント」の両方にまたがる話と捉えており、両者は同じ物事の異なる面であって不可分と考えているので、このエントリでは「差別」と「ハラスメント」をワンセットで取り扱う事にします。

「差別」認定それ自体が「されたら一生の終わり」というものではないという事

これはあくまで僕の私見ですが、自分のエントリに対する感想の中にもいくつか見られた物なので、決して僕だけがそう考えているわけではないと思って書きますと、「差別した」=「その人は一発アウトで社会的に抹殺されるべき」というのは「常識」でも「否定派の共通見解」でもありません

本件の反応にも「懲戒解雇されろ」「エンジニアをやめろ」というような、特に彼個人に対して強い否定を表明している物がありますが、自分はそれは過剰反応だと思っています。実際に被害を受けた人の感情として「存在自体許せない」という気持ちになる事は十分理解できますが、残念ながらそれは冷静さを欠いた物といわざるを得ず、それを基準にしてしまうと社会という物が成り立たなくなってしまう、というのが自分の認識です。

むしろ、差別もハラスメントももっとカジュアルに認めていいのではないか、その上で適宜見直しを図って改善していければそれで良いのではないか。あるいは、自分のやりたい事を貫き通すための避けられない宿業として、自覚してやっていくしかないのではないか。否定派肯定派のいずれも、そういう意識で臨む必要があるのではないか。と思っています。

「差別」「ハラスメント」は誰もが気付かずやってしまい得るものだという事

何故「差別・ハラスメントは一発退場」とすると社会が成り立たなくなるかというと、そもそも差別やハラスメントは誰もがやってしまう可能性があるものだからです。

「する側は良かれと思ってやっていても、される側にとっては迷惑である」「する側は全くそれと意識していないのに、される側にとっては迷惑である」という事は、人が皆それぞれ独立した自我を持っていて思考が繋がっていない以上はどうしても発生し得ます。差別やハラスメントというものは、する側がどう思ってそうしたかという動機や理由によってではなく、あくまで、された側に与える影響によって定義づけられる物です。する側がどんなに気をつけていようと、「被害」は発生し得ます。それこそ、彼の事を「女性差別だ」と非難している人ですら、別の所で自分がやった事によって他の人に「被害」を与えていると言う事も充分にありうるのです。

(これを平たく言えば「される側が差別と感じたら差別」という話になるのですが、そう端的に言ってしまうと「差別性が無い物に無理矢理差別性を付与して言いがかりを付ける」事まで正当化されかねないので、敢えてここは慎重で回りくどい書き方をしています。)

される側にどう影響するかによって定義づけられる以上、あらゆる物事は、自分がその局面での「多数派」「主流派」に属している時に観測される物は特に、多かれ少なかれ差別性を帯びていると思っておいた方が良い、というのが僕の考えです。その中には、強い悪意が込められている物もあれば、無知による物も、「良かれと思って」という誤解に基づく物も、技術的・現実的な制限事項によって発生する物も、色々あって、それが強い非難に値する物か、非難する程ではないが注意した方が良い物か、見過ごして構わない物かはケースバイケースで異なると思っています。

つまり、差別性やハラスメント性というのは「ある・ない」ではなく「強い・弱い」で考えた方が実情に即しているのではないか、ということです。「ある・ない」の二値で考えてしまうと、ある閾値を超えない限りは「ない」と主張せざるを得ず、「弱い差別性・ハラスメント性」の存在を否定する事になり、「ある」派との対話は泥沼化するばかりです。その一方で、「ある」となった途端に批判派が無条件に苛烈な排除に走っていても、「認めないでござる! 絶対に認めないでござる!」というような強硬さを引き出すだけで、相互理解からは遠のくばかりです。

それを踏まえた上での自分の本件に対する認識は、「本人は無自覚だが、差別性・ハラスメント性があり、見え隠れしていた」「差別性が表出していたが、注意の上で改めれば解決したと見なして良い程度の物であった」「ただ、無自覚だからこそ危うく、何が問題であるかはきちんと明確にされ、共有されている必要がある」「今後同じ事が繰り返されない事に期待」という感じです。そう考えた根拠は1つ前のエントリに書いている通りで、自分としては無根拠なこじつけ・決めつけではないと思っています。

どこかの悪人だけがやる他人事、と思っていると見誤る

自分は今上記のように考えていますが、過去の自分が「差別」という物をどう捉えていたかを省みると、こう考えていたように思います。

  • 差別やハラスメントは非常に重大な人権侵害行為である。
  • 差別やハラスメントをするのは悪人である。
  • 自分は善人であろうと思っている。
  • 善人である自分は差別もハラスメントもしない。
  • 善人である自分がする事は差別やハラスメントではない。そうであるはずがない。

このように考えていると、自分がした事について「差別だ」「ハラスメントだ」と言われた時に、自分の信じていた事と現実に言われた事とのギャップの大きさから認知的不協和に陥り、動揺して、自分がした事の正当性を釈明するだけに終始してしまいます。自身は視野狭窄に陥り、自分の身や名誉を守る事だけに意識が向かい、「嫌な思いをした、という相手の感情」や「与えた影響(被害)」の事を考えられなくなりもします。そうして、自己弁護ばかりで誠意の見られない「形だけの謝罪」を繰り返す「往生際の悪い人」に成り果てます。

また、そのような考えを持ったまま誰か他人を糾弾する側に立てば、「錦の御旗を手に他人を断罪しまくり、その実態は歪んだ正義感で迷惑行為を働いているだけに過ぎない、自称正義の使者」にもなりかねません。というか、実際すでに世の中にはそうした「ポリコレ棒で他人を殴って回るならず者」が溢れていると感じている人は少なくありません。

差別やハラスメントという物を、どこかの極悪人だけがやる物で、一般人や善人は無縁の物と考え、自分を「絶対の安全圏」に置いて油断しきっていると、こういう事が起こります。これは何度でも強調しておきたいのですが、差別と言われる物が人と人との関係性の間で生じる物である以上、「これをすれば絶対に差別ではない」と言えるラインを自分の側だけの論理で決める事はできないのです。常に一方的に差別を糾弾できる「正義の人」で在る事はできず、差別する・されるという関係は流動的で、ともすれば「お互い様」という話であったりすらします。

「誤解」されただけ、と言えるのかそれは?(1段落目を除き26日追記)

前のエントリでも紹介した「それ差別ですよ」といわれたときに謝る方法 - feminism mattersという記事は、善意や無邪気によって自分がやった事が差別だと非難された時の受け止め方について、多くの重要なポイントを説明してくれています。未読の方は是非一読しておく事をお勧めします。

「誤解」という言葉は、「本質的にはそれは関係無い事だ」と思っていないと出てこない言葉だ、と僕は思っています。そこが大きな勘違いなのです。相手がそれを見て不快に思ったとか被害に感じたとかの影響があったのは事実だし、そう思う事に必然性がある程度には関係があったんです。

もちろん、炎上したケースで本当に誤解で災難でしかなかったという場合はあり得ます。例えば、通りかかった道に赤い郵便ポストが立っていて「あっ、赤い郵便ポストだ」と言った時に、たまたま通りかかった人に急に「アカだと! 俺を共産主義者呼ばわりするとは何事だ!!」と掴みかかられた、なんてのは、予測不能だしそもそもその文脈で「赤」と言ったわけではないので、責任があるとは言えないでしょうし、掴みかかってきた人の怒りも正当な物とは言えないでしょう。僕はこういうケースまで発言者が責められて当然とは思いません。こういうケースはまさしく、「それを気にしだしたら何も言えない」というやつだと思います。(……と書いていて改めて思いましたが、多分、本件で彼を擁護する立場の人はそう思っているのでしょうね……)

翻って、今回のケースはどうか。「女性エンジニア」とはっきり言っている以上、現実の女性エンジニアに「これは自分に関係ある話だ」と受け取られる事は自然でしょう。冒頭で紹介した擁護の立場の人でも「炎上しそう」と思う程度には、関係性を見いだせるし予想も可能のようです。これで「あなた達には無関係の話です、誤解です」と言い逃れるのは無理があると僕は思います。その上で、「不快に思った『のなら』ごめんなさい」とか仮定で言う事じゃなく不快に思「った人」が一定数いる、という事実を受け止める必要があります。

じゃあ、どうすればいいのか

こういう話になると、「じゃあ何もするなって事か」と逆ギレして議論を放り投げてしまったり、「へえへえ、あなた様のおっしゃる事がすべて正義でごぜーます」と手のひらを返してコロッと恭順する姿勢を見せたりする人が観測されがちだと思いますが、僕はこういった態度は思考停止に他ならないと思います。

そもそも、差別やハラスメントの発生自体が、「これを嫌と思う人なんかいるはずがない(ので、その可能性自体疑いもしない)」「自分はこうされれば嬉しいから、相手もこれで喜ぶはず」という思考停止に基づく決めつけに端を発する事が多いです。そういう意味で、このような「全否定か、全肯定か、いずれにしても深く考える事はしない」という反応は、結局脊髄反射以上の事は何も考えておらず、元々の問題を引き起こした状態から何も進歩もありません。それではまたいくらでも同じ問題を繰り返してしまいかねませんし、先述したとおり、そこから一転して「自称正義の使者」となり他人を攻撃する側に回りでもしたら目もあてられません。

よりマシな在り方があるとすれば、僕はそれは「自分自身をも疑い続ける事、悩み続ける事、考え続ける事、必要に応じて自分をも変え続ける事」だと思っています。こういうフレーズは既に様々な場面で言われ、議論がめんどくさくなった時に適当にそれっぽい事を言ってぶん投げるための万能の言い回しとして陳腐化しすぎているほどだと思いますが、残念ながらこれより良い言い方を自分は思いつけません。

表現の差別性・ハラスメント性との折り合いの付け方の一時例:自分の場合

こういう話を見て「めんどくさいから関わりたくない、関わらないようにしよう」と思う人もいるでしょう。しかし、気持ちは分かりますが、それでは済ませられない場面というのもありますし、やりたい事がこういう話に抵触してしまうと考えて恐怖で萎縮して引っ込めてしまうというのも勿体ない話です。そういう場面での悩み方の一事例として、先のエントリでも少し触れた、自分が制作している作品である「シス管系女子」での自分のスタンスを改めて説明してみます。

本作は「Linuxのコマンド操作を取り扱う学習漫画・解説漫画」です。掲載誌は社会人の読者、企業のシステム管理者のような人が多いと聞いています。その前提で、どのような形を取れば最も効果的に解説できるだろうかと考えた結果、自分は「日常の業務としてありうる局面を設定し、その解決策として技術を紹介する」というフォーマットが有効ではないかという結論に至りました。そして、先の前提と、自分の手持ちの知識を元に、「社内SEである新社会人の主人公が、日常業務でトラブルに出くわす」という場面設定を基本とする事にしました。「学生の部活動」では切迫感や問題解決のモチベーションに説得力を持たせられないと思いましたし、動物の世界や無生物の世界といった完全な架空世界を設定するほどの想像力を自分は持ち合わせていないので、自分が見聞きしている現実との距離が近い方が無理なくやれると考えたからです。

ところで、自分は平日の昼間は社会人として仕事をしているわけで、作品制作に充てられる時間も労力も限られています。また、かかる労力に対して得られる対価を考えると、完全に心を殺して仕事として取り組むのも難しいです。そうなると、自分の趣味や内発的な動機を持ち出さなければ制作は続けられません。そこで、「自分自身は、大雑把に言えば男キャラよりも女キャラを、見た目がパッとしないキャラよりは見た目が華やかなキャラを描きたい」という事情、「自分の身近な人も含めて女性ITエンジニアが少数派として肩身の狭い思いをしている現実があり、こういう現場に女性がいても当たり前だという描き方をする事で、男性ホモソーシャルな傾向を薄めたい」「地味な服装を不本意ながら強制されていたという人の体験談を踏まえ、それに対するカウンターとして『本人が着たい服を着ている様子』を描きたい」といった問題意識が合わさって、「かわいい服を着ている女子」を主役に据える事にしました。主人公の服装を設定するにあたっては自分自身にファッションセンスが無いため、身近な「自分が着たい服を着ている」人の実際の服のチョイスを参考に、その中から「自分にも描きやすい物」「自分が描きたいと思った物」という論理積を取る事にしました。

(26日追記。似た例として、石田敦子「アニメがお仕事!」の登場人物の一人にロリータ系の衣装を着ている女性キャラがいて、彼女は明確な意志を持ってその服を着ているという事が語られるくだりがあったと記憶しています。また、記憶に新しい所では、「SHIROBAKO」の小笠原綸子というキャラクターのゴスロリ衣装にも武装としての意味合いで本人が選択しているという理由付けがなされていました。それらと異なり本作中で理由付けについて特に述べていないのは、本題が解説漫画だからという事もありますが、「そういう人が普通にいて、特にそれが特別な事だとは思われていない」様子を描きたいからという理由もあります。)

作品世界の設定についても、常日頃からIT業界はブラックと言われている現状を憂えており、またIT業界を舞台にした作品で有名な物もブラックさを前提に置いている印象が強かったので、それらへのカウンターにしたくて、ブラックさの無いホワイトな職場環境を描く事にしました。ホワイトに描く以上は当然セクハラやそれに類する事がなされる様子も描くつもりは無く、「かわいい女子だから甘やかす、という事はしない」「『かわいさ』を武器にする事もない」「コーヒーは新人でも女子でもなく、飲みたい人が自分で入れる」「主人公が社外イベントに出向く場面では、マスコットとしてではなく技術の専門家として同行する」「周囲の人が彼氏の有無などのプライバシーを無闇に詮索しない、その手のジョークも言わない」「いわゆるラッキースケベは無い、パンチラも無い(※そもそも、キャラクター本人も自分の意志でパンチラ対策をしているものと設定している)」と、なるべく実在の人物の人格を尊重するのと同じ感覚の基準を適用して、可能な限り中立・公正な描写をするように気をつけているつもりです。

中立さを徹底するなら、「地味な服を着て普通に仕事をしている女性」もまた登場させなくてはならないと思う人もいるでしょう。そうしていないのは、前述したとおり自分のモチベーションの問題でもあり、また、その中立さをアピールするためだけに本来の解説上必要でないキャラクターを増やした上で話の中に盛り込む事ができない、そのようなキャラクターの存在を前提とした話作りを行えない、自分の能力不足が原因と言わざるを得ません。

しかし、「そうできないなら功がいくらあろうとも罪があるのだから即刻連載を中止するべき」という主張には同意できません。上記の通り、「かわいい服を着た女性がエンジニアをやっている様子」を描く事自体にも自分なりの主張を込めており、同時に「女性エンジニアは本人が望むと望まざるとに関わらずかわいくあらねばならない、周囲の男性同僚に尽くさねばならない」というような規範をいたずらに強化しないように努めているつもりです。

自分は今の自分にできるベストを尽くして、自分のやりたい事・やれる事・やるべき事のバランスを取っていく事を心がけているつもりなので、僕のしている事に異論がある人は、そのカウンターとなる作品を発表することで世の中をより良い方向に導いていって欲しいと思っています。


(以下、26日追記)

こういう僕の態度について「他人のする事には、発表するなとか規制しろとか厳しいくせに、自分のやる事にはずいぶん甘いんじゃないのか? それはダブルスタンダードじゃないか」と思う人もいるかと思いますが、それこそ誤解で、僕は「差別性があるものを一切公表するな」とも「差別性があるものは一律規制しろ」とも思っていないし、言ってもいないつもりです。誰か他の人の言っている事と僕の言っている事を混同しているのではないかと思います。

僕の現時点での考えは、要約すると以下のようになります。

  • どんな表現にも差別性は多かれ少なかれ含まれ得るのだから、自分のする表現にどんな差別性があるかはちゃんと把握しておこう。公表する時はその上で公表しよう。
  • 自分の表現の差別性について、気付いていなかった部分を指摘されたら、逃げずにそれと向き合おう。その上で、反論、継続、改訂、ゾーニング、公表の取り下げなどの対応を取ろう。
  • そういう準備・心づもりができていない状態にあるなら、差別性を含む表現に踏み込んでいい段階ではない。準備をしてから出直そう。準備ができているなら公表しよう。
  • そういった面での準備不足としか思えない表現に対しては、準備不足を批判するし、時には公表の自主的な取り下げを求めたり、悪質であれば「運営」や「媒体」への申し入れたりもしてよいと考える。それに対し、準備ができているらしい表現については、批判だけする。

今の所は、こういった規範を自分に対しても他の人に対しても一貫して適用したいと思っています。

何故このような規範で考えているかというと、端的には、僕自身にも「差別性を含んでいると言われてもなお、したい表現がある」からだと言えます。僕自身がしたい表現について、これこれこういう理由でやっていいはずだと主張するのなら、当然、他の人がする表現についても同じ理由で存在を認めなくては筋が通りません。自分はOKで他はNGというダブルスタンダードでは、説得力がありません。

なので、嫌らしい言い方になりますが、前述の「ポリコレ棒で他人を殴る人」のようなケースは、そういう領域で表現をする事が無いために「自分の表現したいという気持ちと、世に悪影響を与える事を咎められたくないという気持ちのアンビバレンツ」で悩んだ事がない人か、自分の表現の差別性や暴力性に無自覚な人という事なのではないかと、僕は思っています。僕のように利己的な人間は、結局、自分自身が痛みを感じない限り、痛みがある事にも気付かない物なので。

エントリを編集します。

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