Feb 13, 2006

ぬるま湯を選び続けた者の末路

ライブドアニュースのデジカメ記事の実写作例レベルの低さで「酷い」とされている写真のひどさがよく分からなかった(サムネイルで見てたからというのもあったようで、拡大写真を見たらピンぼけとかがよく分かってさすがに「ああ確かにこりゃちょっとなあ……」と思ったけど)という事実が、僕の自信を根こそぎ奪っていく。

  • その「ひどさ」が分からないような「見る目の無さ」のくせして、社内デザイナーを名乗っていること。
  • 周囲が僕よりもっと「見る目」がなくて、そんな僕のセンスを「すごい」と持て囃してくれるもんだから、僕に駄目出しをしてくれる人がいないもんだから、自分自身がいつの間にかそれを当たり前に思うようになり、慢心に繋がっているということ。
  • 他人の絵や写真や色々な物から、テクニックや何かを学び取ろうとしていた時期が、確かに僕にもあったと思う。中学高校くらいの時期。でも、その時期を過ぎてしまった今、そういう意欲が失われてしまった今では、技術的向上心ではなく功名心・義務感しか動機になり得ていないということ。パトロンを得て仏師として堕落してしまった茜丸のように(火の鳥・鳳凰編)。

問題なのは、決して「僕のレベルが高くて誰も駄目出しできない」のではなく、「僕以外の人がみんな僕よりレベルが低くて、駄目出しされる可能性が極めて低い」ような環境を、自ら選択しているということ。「僕以外にレベルの高い人がいて、その人に見下される可能性がある」環境から、逃げていること。意識してそうしているどころか、無意識でそうしているということが、なおさら、救いがたい。

そしてそれを嘆くだけで、何の行動も起こさないところがますます救いがたい。この非モテ根性が何より気にくわない。

目前に迫る危機。今のヌルい環境から強制的に放り出されるという見通し。放り出された後、僕は一体どうなるのだろう。今まで僕が無意識に避け続けてきたような「厳しい環境」に放り込まれたとき、僕は精神崩壊を起こさずに地位を確立していけるのだろうか。無理だろうな。いや、それどころか、そういう「厳しい環境」の方がそもそも僕を受け入れまい。厳しい環境は、それに耐えられる人達によって形成されるコミュニティなのだから、その性質を有しない者はそもそも受け入れられまい。

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