Mar 04, 2007

予防線を張ることの意味

「いつも予防線張ってばっかりだな」と、よく言われる。

確かに自己保身のための予防線を多用しているのは否定できない。けれどもこの予防線は、ただそれだけでなく、僕なりの、他人に迷惑をかけないための知恵のようなものでもあると思っている。

僕は自分自身、頭の悪い感情的な人間であることをある程度は自覚しているつもりだ。お涙頂戴なストーリーで泣くし、あるある大事典だのみのもんただののいうことにすぐ騙されるし、権威に弱いし、etc. その中でも今回とりあげたいのは、ストレス耐性が低い、ヒステリックになりやすいという部分である。一種の病気、軽い知的障害のようなものではないかとも考えられる。

他人に責められた時、詰問された時、僕は、冷静且つ柔軟な対処というものができない。最近の例ではいわいさんの追求に音を上げている様子なんかを見ればよく分かると思う。予想外の攻撃という物に僕はとことん弱い。圧迫面接なんかをやられたら真っ先に脱落するタイプの人間だ。

面接でヒステリーを起こすのは、自分にとって不利益になるだけだからまだいい。問題は、日常でのヒステリーである。例えば友人相手にしょっちゅうヒステリーを起こしていたらどうなる? 好意で指摘してくれたことに対していちいちキレてつっかかっていつまでも相手を言い合いの場に拘束してなんかいたら、相手の時間を無駄にするし、嫌な思いをさせる、端的に言えば、僕にも相手にも不利益にしかならない。また、その相手が仕事の同僚だったら? 上司だったら? 取引先だったら? 事態はもっと深刻だ。

「なに? 予想外のツッコミに弱い? ジョジョ、逆に考えるんだ。すべてのツッコミを予想しておけば弱点はなくなると考えるんだ。」――おお、ジョースター卿! まさにそれだ!

「予想外の攻撃に弱い」ということは、「予想の範囲内ならなんとか対処できる、最悪でも耐えることはできる」ということでもあると言えるのではないだろうか。可能な限り様々なツッコミに対してあらかじめ予防線を張っておくことで、いざそういう事態に陥った時にも冷静に対応できるのではないだろうか。

そういうわけで僕は、何に対しても無意識のうちに予防線を張っているのだと思う。

明日にでも職を失い路頭に迷うかもしれない。明日にでも隣からのクレームで部屋を追い出されるかもしれない。明日にでも彼女に見捨てられて。また孤独に逆戻りかもしれない。明日にでもありとあらゆる人から見捨てられ嫌われるかもしれない。明日にでもスキミングに遭って口座から預金をそっくり引き出されて、貯蓄がゼロになるかもしれない。明日の朝、もしかしたらもう二度と目が覚めないかもしれない。もしかしたらこの1分後には、部屋にトラックが突っ込んできて死ぬかもしれない。北の核ミサイルが飛んできて、町ごと消し飛んでいるかもしれない。何事にも期待してはいけない、期待しないように努めないといけない。期待が外れた時、落胆するだけで僕という人間は留まってくれないから。ヒステリーになるから。

という、生活の知恵、心の病気とうまく付き合いながら生きていくための工夫なのです。

エントリを編集します。

wikieditish message: Ready to edit this entry.











拡張機能