Jul 19, 2007

古参感情、古参チマンの正体についての考察

一つ前のエントリ書いてて思いだした、ちょっと前に「古参感情」なる造語がプチ流行した時に思ってメモしてたことをサルベージしてみる。

という風な例にも見られるように、マイノリティの先駆者・古参者がマジョリティの新参者にあっさり(社会的地位について)追い抜かれていくことに対する忸怩たる思いというのは、世の中に普遍的にあるもののようで、これについて「古参感情」とか「古参チマン」とかそういう名前が付いた、らしい。

以下は僕の勝手な妄想。

古参の人間が悔しい思いをしてるって言うけど、本当に凄い人は新参者が台頭してきた後もちゃんとブームの中で活躍してたりする。「Web標準の日々」にもThe Web KANZAKIの神崎氏はプレゼンテーターとして出席されていたし。ていうことは、結局その「古参チマン」なるものは、単なる防衛規制でしかないんじゃないのか?

世のメインストリームで活躍できるだけの実力も政治力も無くてつまはじきにされたから、他に誰も手を付けていなかった分野に逃げてきた。そしてそこでささやかな活動を続けることがアイデンティティになっていた。負け犬だけで傷を嘗め合い、ちっぽけなプライドを維持していた。

しかしそのうち、その分野に目を付けたプロ達が「新参者」としてなだれこんできて、その分野を世のメインストリームのレベルにまで引き上げてしまった。ハイレベルな世界で生きていけるのは、新参でも古参でも、実力のある者だけ。結局、新参のプロ達と、古参の中でも本当に実力があったごく一部だけが生き残って、元々ただの負け犬でしかなかった古参達はまたもやそこでつまはじきにされることになる。

古参チマンを沸らせてるような奴は、単に、レベルが底上げされたその世界についていくだけの実力、政治力、時流を読む力が無かった、本当の負け犬でしかない――そういうことなんじゃないのか? そう、まさにWeb標準云々の分野での僕みたいに。

とかなんとか言っちゃうとあまりにも身も蓋も無いから、別の方向でも考えてみようか。

そもそも、「それ」を為したのが誰だろうと、本当なら構わないわけですよ。そんな事より、何が起こったか、何が為されたかの方が、よっぽど重要で。僕らが為したかった事を別の人が代わりに為してくれた、それでいいじゃないですか。

本当にしたかったのは一体何? 世間に良い物を広めたかった? 社会をより一層豊かにしたかった? 同業者がもっと幸せになるようにしたかった? だったら、素直に彼らの事を祝福すればいいじゃないですか。大儀を果たすために、むしろ彼らに協力した方がいい。彼らは僕らにできなかった事をやってのけた。僕らの持っていない物を持っている。彼らをサポートすることこそが、大儀を果たすための近道だと僕には思える。

それとも、「それを自分が為した」という手柄を手に入れたかっただけ? 自分が成し遂げなければ嬉しくなかった? だとしたら、そんなのはただのエゴ、ワガママでしかない。

むしろ「僕ら」がやらなかったからこそ良かったんだ、という考え方もあるくらいだし。

大体、「誰がやったか」なんて部分は、世間様がそれを重要と思わない限り、あっという間に忘れ去られていくんだから、自分の名前なんてハナから残るはずが無かったと考えれば気も楽に……あれれれ、おかしいな。また話が鬱な方向に転がっていってるよ?

余談だけど、ライセンス文に自分がコードを拝借させていただいた方々の名前を書き連ねるのは、自分自身がこういう事を殊更気にする人間だから、というのも大きな理由だったりする。これは、GPLで要求されてなくても多分そうしてる。

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